| 番号 (No.) |
書籍 | 巻 | 章 | 内容 |
|---|
|
1 (142) |
ひふみ神示 | 5_地つ巻 | 第5帖 | 片輪車でトンテントンテン、骨折損の草臥儲けばかり、いつまでしてゐるのぞ、神にまつろへと申してあろうがな、臣民の智恵で何出来たか、早う改心せよ。三月三日、五月五日は結構な日ぞ。九月十六日、ひつ九のか三。 |
|
2 (183) |
ひふみ神示 | 6_日月の巻 | 第10帖 | ツギ、アメノトコタチノミコト、ツギ、クニノトコタチノミコト、ツギ、トヨクモヌノミコトトナリナリテ、アレイデタマイ、ミコトスミキリタマヒキ。辛酉の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな。九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事少しは判りたか。何事も神示通りになりて、せんぐりに出て来るぞ。遅し早しはあるのざぞ。この度は幕の一ぞ。日本の臣民これで戦済む様に申してゐるが、戦はこれからぞ。九、十月八日、十八日は幾らでもあるのざぞ。三月三日、五月五日はよき日ぞ。恐ろしい日ざぞ。今は型であるぞ。改心すれは型小さくて済むなれど、掃除大きくなるぞ。猫に気付けよ、犬来るぞ。臣民の掃除遅れると段々大きくなるのざぞ。神が表に出ておん働きなされてゐること今度はよく判りたであろがな。 |
|
3 (217) |
ひふみ神示 | 7_日の出の巻 | 第4帖 | 旧十月八日、十八日、五月五日、三月三日は幾らでもあるぞと申してあろが、此の日は臣民には恐い日であれど神には結構な日ざぞと申してあろが、神心になれば神とまつはれば神とあななへば臣民にも結構な日となるのぞ。其の時は五六七の世となるのざぞ。桜花一度にどっと開く世となるのざぞ、神激しく臣民静かな御代となるのざぞ、日日毎日富士晴れるのざぞ、臣民の心の富士も晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、心晴れたり日本晴れぞ。十二月二日、ひつくのかみ。 |
|
4 (252) |
ひふみ神示 | 8_磐戸の巻 | 第16帖 | 世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。
神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ。今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ。洗濯と申すのは何事によらん、人間心すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教守ることぞ。ミタマ磨きと申すのは、神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすることぞ。学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ。小さいこと思ふてゐると判らんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ六ヶ敷いか、大層な骨折りざぞよ。叱るばかりでは改心出来んから喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿少ないぞ、聞き分けよい悪の神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてあるのざ、めったに見当くるわんぞ、神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って又始めからお出直しで御用せなならん様になって来るぞ。ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。出雲の神様大切申せと知らしてあること忘れるなよ。子の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ。一月十四日、 |
|
5 (271) |
ひふみ神示 | 9_キの巻 | 第14帖 | 三月三日から更に厳しくなるから用意しておけよ、五月五日から更に更に厳しくなるから更に用意して何んな事起ってもビクともせん様に心しておいてくれよ、心違ふてゐるから臣民の思ふことの逆さ許りが出てくるのざぞ、九月八日の仕組近ふなったぞ、この道はむすび、ひふみとひらき、みなむすび、神々地に成り悉く弥栄へ 戦争つきはつ大道ぞ。一時はこの中も火の消えた様に淋しくなってくるぞ、その時になっておかげ落さん様にして呉れよ、神の仕組愈々世に出るぞ、三千年の仕組晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、桜花一二三と咲くぞ。三月十七日、ひつぐの神。 |
|
6 (463) |
ひふみ神示 | 21_空の巻 | 第8帖 | 衣類、食物に困った時は竜宮の音秘様にお願ひ申せよ。五柱の生神様にお願ひ申せば災難のがらせて下さるぞ、ゆわ、あれ、地震、風、雨、の神様なり、いろはに泣く時来るぞ、いろは四十八ぞ、四十九ぞ。神示はその時の心にとりて違はん、磨けただけにとれて違はんのであるから、我の心通りにとれるのであるから、同じ神示が同じ神示でないのざぞ。悪の世が廻りて来た時には、悪の御用する身魂をつくりておかねば、善では動きとれんのざぞ、悪も元ただせば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、御苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、憎むと善でなくなるぞ、天地にごりて来るぞ、世界一つに成った時は憎むこと先づさらりと捨てねばならんのぞ、この道理腹の底から判りて、ガッテンガッテンして下されよ。三月三日、ひつ九のか三。 |
|
7 (464) |
ひふみ神示 | 21_空の巻 | 第9帖 | ミロク世に出づには神の人民お手柄致さなならんぞ、お手柄結構々々、神の人民世界中に居るぞ。この中に早くから来てゐて何も知りませんとは云はれん時来るぞ、神示よく読んでゐて呉れよ。時来たら説き出せよ、潮満ちてゐるぞ、潮時誤るなよ。早う目覚めんと、別の御用に廻らなならんぞ、ウシトラコンジン様、何事も聞き下さるぞ、誠もってお願ひせよ、聞かん事は聞かんぞ、聞かれる事は聞いてやるぞ。神、仏、キリスト、ことごとく人民の世話もしてやるぞ。時節到来してゐるに未だ気付かんか、人民の物と云ふ物は何一つないのざぞ、未だ金や学で行けると思ふてゐるのか、愈々の蓋あいてゐるに未だ判らんか。奥山に参りて来ねば判らんことになって来るぞ。奥山、おく山ぞ、同じ奥山が、その時々により変って来るぞ、身魂磨けば磨いただけ光りできておかげあるぞ、この道理判るであろがな。三月三日、ひつ九のかミしるすぞ。 |
|
8 (465) |
ひふみ神示 | 21_空の巻 | 第10帖 | 此の方悪が可愛いのぢゃ、御苦労ぢゃったぞ、もう悪の世は済みたぞ、悪の御用結構であったぞ。早う善に返りて心安く善の御用聞きくれよ。世界から化物出るぞ、この中にも化物出るぞ、よく見分けてくれよ、取違ひ禁物ぞ。この神示よく見てゐると、いざと云ふ時には役に立つぞ、肝腎の時に肝腎が成るぞ。元は元、分れは分れ、元と分れ、同じであるぞ、別であるぞ、それぞれに分れの集団つくってよいぞ、今日働いて今日食はなならん事に皆なりて来るのざから、その覚悟せよ、上に立つ番頭殿、下の下まで目届けておらんと、日本つぶれるぞ、つぶれる前に、そなた達がつぶれるのざぞ、早う改心して誠の政治仕へまつれよ。いれものキレイにして居りたらこの方がよきに使ふぞ、今の仕事仕へて居れよ、神示腹に入れて、あせらず身魂磨き結構々々。今度は世界のみか、三千世界つぶれる所まで行かなならんのざから、くどう申してゐるのざぞ。三月三日、ひつ九のかミ。 |
|
9 (466) |
ひふみ神示 | 21_空の巻 | 第11帖 | 大層が大層でなくなる道が神の道ざぞ、この道中行く道、神示読みて早うガテン結構ぞ。行い正しく口静かにしたら神の仕組分るぞ、因縁ある身魂が、人民では知らん結構を致すぞ。神示読んで、どんな人が来てもその人々に当る所読みて聞かすが一等ざぞ。一分と九分との戦ひぢゃ、皆九分が強いと思ふてゐるが、今度の仕組、アフンの仕組ぞ。早呑込大怪我の基と申すのは我が心通りに写るからぞ。くさい物喰ふ時来たぞ、ほんの暫くぞ、我慢よくよくせ、よくなるぞ、分れの集団の一つとして宗教も作れよ、他の宗教とは違ふヤリ方でないと成就せんぞ。大奥山はその儘ざぞ。別れざぞ、この宗教には教祖は要らんぞ、教祖は神示ぢゃ、神示がアと申してあろがな、ヤ、ワ、 |
|
10 (467) |
ひふみ神示 | 21_空の巻 | 第12帖 | 学の鼻高さん何も出来んことになるぞ、今に世界から正真が段々判り来て、あわてても間に合はんことになるぞ、今の内に神示よく肚に入れておけよ、この道には色々と神の試あるから漫心するとすぐひっくり返るぞ、考へでは判らん、素直結構ぞ。日本には五穀、野菜、海、川、いくらも弥栄の食物あるぞ、人民の食物間違へるでないぞ、食い過ぎるから足らんことになるのざぞ、いくら大切な、因縁の臣民でも仕組の邪魔になると取り替へるぞ、慢心取違ひ致すなよ、代へ身魂いくらでもあるぞ。学問の世はすみたぞ、学者は閉口するぞ、商売の世も済みたから商売人も閉口するぞ、力仕事は出来んし、共喰するより他に道ないと申す人民許りになるぞ、今迄とはさっぱり物事変るから今迄のやり方考え方変へて呉れよ、神示通りに行へば其の日その時から嬉し嬉しざぞ、此処は落した上にも落しておくから、世の中の偉い人には中々見当とれんから、身魂の因縁ある人には成程なあと直ぐ 心で 判るのぢゃぞ、 九の 花咲けば皆よくなるのぞ、九の花中々ぞ。三月三日、ひつ九のかミ。 |
|
11 (468) |
ひふみ神示 | 21_空の巻 | 第13帖 | 我が勝手に解訳してお話して神の名汚さん様にしてくれよ、曇りた心で伝へると、曇りて来る位 判って居ろがな、神示通りに説けと申してあろが、忘れてならんぞ。履物も今に変って来るぞ、元に返すには元の元のキのマヂリキのない身魂と入れ替へせねばならんのぢゃ、 |
|
12 (741) |
ひふみ神示 | 28_夏の巻 | 第24帖 | すべて世の中の出来ごとはそれ相当に意義あるのであるぞ。意義ないものは存在ゆるされん。それを人間心で、邪と見、悪と感ずるから、狭い低い立場でゐるから、いつまでたってもドウドウめぐり。それを毒とするか薬とするかは各々の立場により、考へ方や、処理方法や、いろいろの運び方によってしるのであるから、心せねばならんぞ。今に一生懸命になりて下されよ。三月三日、ひつく神。 |
|
13 (987) |
ひふみ神示 | 39_月光の巻 | 第55帖 | そなたはよく肚をたてるが、肚がたつのは慢心からであるぞ。よく心得なされよ。下肚からこみあげてくる怒りは大きな怒りであるから、怒ってよいのであるなれど、怒りの現わし方を出来るだけ小さく、出来るだけ清く、出来るだけ短かくして下されよ。怒りに清い怒りはないと、そなたは思案して御座るなれど、怒りにも清い怒り、澄んだ怒りあるぞ。三月三日。 そなたはいつも自分の役に不足申すくせがあるぞ。そのくせ直して下されよ。長くかかってもよいから、根の音からの改心結構ぞ。手は手の役、足は足、頭は頭の役、それぞれに結構ぞ。上下貴賎ないこと、そなたには判ってゐる筈なのに、早う得心して下されよ。そなたはこの神ときわめて深い縁があるのぢゃ。縁あればこそ引きよせて苦労さしてゐるのぢゃ。今度の御用は苦の花咲かすことぢゃ。真理に苦の花さくのであるぞ。因縁のそなたぢゃ、一聞いたなら十がわかるのぢゃ。云われんさきに判ってもらわねばならんぞ。知らしてからでは味ないぞ。十人並ぞ。今度の御用は千人力、十人並では間に合わんぞ。人間の目は一方しか見えん。表なら表、右なら右しか見えん。表には必ず裏があり、左があるから右があるのぢゃ。自分の目で見たのだから間違いないと、そなたは我を張って居るなれど、それは只一方的の真実であるぞ。独断は役に立たんぞと申してあろうが。見極めた上にも見極めねばならんぞ。霊の目も一方しか見えんぞ。霊人には何でも判ってゐると思ふと、大変な間違ひ起るぞ。一方と申しても霊界の一方と現界の一方とは、一方が違ふぞ。そなたは中々に立派な理屈を申すが、理屈も必要ではあるが、あわの如きもの、そなたの財産にはならんぞ。体験の財産は死んでからも役にたつ。ざんげせよと申しても、人の前にざんげしてはならんぞ。人の前で出来るざんげは割引したざんげ。割引したざんげは神をだまし、己をだますこととなるぞ。悔ひ改めて下され。深く省みて下され。深く恥ぢおそれよ。心して慎しんで下されよ。直ちによき神界との霊線がつながるぞ。霊線つながれば、その日その時からよくなってくるぞ。気持が曲ったら霊線が切り替えられる。 |
|
14 (994) |
ひふみ神示 | 39_月光の巻 | 第62帖 | そなたは現実世界のことばかりより判らんから、現実のことばかり申して、一に一たす二だとのみ信じてゐるが、現実界ではその通りであるが、それが平面の見方、考へ方と申すもの、いくら極めても進歩も弥栄もないのぢゃ。一に一たす一の世界、一に一たす無限の世界、超現実、霊の世界、立体の世界、立立体の世界のあることを体得せねばならんぞ。そなたは心をもって居ろうがな。心があれば心の属する世界のある道理は判るであろうが。心で描いて、心で先づつくり出してから行為することも、その順序も判るであろうがな。心のうごきが先で、肉体がその後でうごくことも判って居ろうがな。心の世界にないものは物質の世界にない道理も判って居ろうがな。何故に迷ふのぢゃ。霊界が主で現界が従であること、判って下されよ。逆立してそなた自身で苦しんでゐること、早う得心して、うれしうれしで暮して下されよ。三月三日。 |
|
15 (1105) |
霊界物語 | 03_寅_十二の国魂/大道別/天使長の更迭 | 序文 | 序文 艮の金神出現以後三十年の立替は、いよいよ明治五十五年、すなはち大正の十一年、三千世界一度に開く梅の花の機運に到達したのである。つぎに坤の金神出現以後二十五年、桃李もの言はずして桃李ものとなりし神の教示も、いよいよ開く桃の春、五十二歳の暁に、月の光に照らされて、霊界探険物語り、ももの千草も、百鳥も、百の言問ひ言止めて、三月三日五月五日の神の経綸を詳細に、悟る神代の魁となつたのも、まつたく時の力といふべきである。明治三十三年九月八日の神筆に、 『出口直は三千世界の根本の因縁から末の世のことまで書かす御役なり、それを細かう説いて聞かせるのが海潮の役であるから、一番に男子が現はれて、次に女子が表はれたら、大本の中の役員も、あまり思ひが違ふてをりたと申して、きりきり舞をいたして喜ぶ人と、きりきり舞をして苦しむ人と、力一杯われの目的のために、男子女子を悪くまをすものとができるぞよ。神を突込みておいて我で開いて、まだ悪く申して歩行く、取次がたくさんにできるぞよ。云々』 大本の筆先は、どうしても男子女子でなければ真解することはできぬのは神示のとほりである。しかるに各自の守護神の御都合の悪いことがあると、「女子の筆先は審神をせなそのままとつてはいかぬ」と申す守護神が現はれてくる、困つたものだ。九月八日にいよいよ神示のとほり女子の役となり、隠退して霊界の消息を口述するや、またまた途中の鼻高がゴテゴテ蔭で申し出したのである。女子の帰神の筆を審神者する立派な方が沢山できて、神様も御満足でありませう。 また、明治五十五年の三月三日五月五日といふ神の抽象的教示にたいして、五十五年は大正十一年に相当するから、今年は女子の御魂にたいして肉体的結構があるとか、大本の神の経綸について花々しきことが出現するかのやうに期待してをる審神者があるやうにきく。されど、神の御心と人間の心とは、天地霄壌の相違があるから、人間の智慧や考へでは、たうてい、その真相は判るものでない。五十五年といふことは、明治二十五年から三十年間の神界経綸の表面に具体的にあらはれる年のいひである。 三月三日とは三ツの御魂なる月の大神の示顕が、天地人三体に輝きわたる日といふことである。日は「カ」と読む、「カ」はかがやくといふことである。今まで三十年間男子の筆先の真意が充分に了解され、また従道二十五年に相当する女子の御魂の光が、そろそろ現はれることを暗示された神諭である。二十五年間、周囲の障壁物にさまたげられた女子の御魂の神界経綸の解釈も、やや真面目になつて耳をかたむくる人が出現するのを、「女子にとりて結構な日である」と示されたものである。あたかも暗黒の天地に、日月の東天を出でて万界を照らすがごとき瑞祥を、五月五日といふのである。五は言霊学上「出」であつて、五月五日は出月出日の意味である。二十五年の天津風、いま吹きそめて経緯の、神の教示も明らけく、治まる御代の五十五年(出神出念)、いよいよ神徳出現して、神慮の深遠なるを宇宙に現出すべき時運にむかふことを慶賀されたる神示であります。 月光世に出でて万界の暗を照破す、これ言霊学上の五月五日となるのであつて、けつして暦学上の月日でないことは明白である。三月三日と五月五日に、変つたことがなければ信仰をやめるといふ無明暗黒の雲が、遠近の天地を包むでゐるやうに思はれましたから、一寸略解をほどこしておきました。これでもまた女子の御魂の言は審神者をせなくてはいかぬと、唱ふる豪い人々が出現するかもしれませぬ。これが暗黒の世の中といふのでせう。 神諭に「女子にとりて結構な日である」云々は微々たる五尺の肉体にたいしての言ではない。神霊そのものの大目的の開き初むるを慶賀されたる意味であることを了解すべきである。千座の置戸は、瑞の御魂の天賦的神業たることを承知してもらひたい。 霊界物語を読ンで、初めて今日までの神諭の解釈にたいする疑雲は一掃され、心天たちまち晴明の日月をうかべ、霊体力に光輝をそへ歓喜と了解の日月出現していはゆる三月三日五月五日の瑞祥を神人ともに祝することになるのである。 五月五日は男子の祝日、菖蒲の節句である。三月三日は女子の祝日で、桃の節句である。女子の御魂聖地に出現してより二十五年の間桃李物言はず自ら蹊をなせしもの、ここに目出度く世にあらはれて苦、集、滅、道を説き、道、法、礼、節をはなばなしく開示することとなつたのも、神界経綸の神業成就の曙光をみとめ、旭光照破の瑞祥にむかつたので、神人界のともに祝福すべき年であります。 ○ この物語のうちに大自在天とあるは、神典にいはゆる、大国主之神の御事であつて、大国彦命、八千矛神、大己貴命、葦原醜男神、宇都志国魂神などの御名を有したまひ、武力絶倫の神にましまして国平矛を天孫にたてまつり、君臣の大義を明らかにし、忠誠の道を克く守りたまふた神であります。本物語にては大自在天、または常世神王と申しあげてあります。 大自在天とは仏典にある仏の名であるが、神界にては大国主神様の御事であります。この神は八代矛の威力をふるつて、天下を治めたまうた英雄神である。皇祖の神は、平和の象徴たる璽と、智慧の表徴たる鏡とをもつて、世を治めたまふのが御神意である。故に我皇孫命の世界統御の御神政は、飽く迄も道義的統一であつて、武断的ではないのである。故に天津日嗣天皇の世界御統一は、侵略でも征伐でもない、併呑でも無い、皇祖大神の大御心を心とし玉ふたのである。劍を用ゐ玉ふは、変事に際してのみ其神聖不可犯の御威力を発揮し玉ふので、是又止むを得ざるに出でさせ玉ふ御神業であります。決して大自在天的武力統一ではない、御仁慈の御政治であります。[※「故に我皇孫命の」から「御仁慈の御政治であります。」までは、戦前の版・聖師御校正本には書いてあるが、戦後の版からは削除されている。霊界物語ネットでも削除されていたが、2020/4/27に追加した。] また盤古大神塩長彦は一名潮沫彦と申し上げる、善良なる神にましますことは、前篇に述べたとほりであります。この神を奉戴して荒ぶる神人等が色々の計画をたて、神界に活動して国治立命の神政に対抗し、種々の波瀾をまきおこしたことはすでに述べたとほりである。そこでこの世界を救ふべく、諾冊二神がわが国土を中心として天降りまし、修理固成の神業を励ませたまふこととなつた、ありがたき物語は篇を逐うて判明することであらうと思ひます。惟神霊幸倍坐世 大正十一年一月三日 王仁識 |
|
16 (1295) |
霊界物語 | 06_巳_大洪水/国生み神生み/三五教の誕生 | 24 富士鳴戸 | 第二四章富士鳴戸〔二七四〕 二柱は茲に撞の御柱を廻り合ひ、八尋殿を見立て玉ひ、美斗能麻具波比の神業を開かせ玉ひぬ。美斗能麻具波比とは、火と水との息を調節して、宇宙万有一切に対し、活生命を賦与し玉ふ尊き神業なり。撞の御柱の根に清き水を湛へたまひぬ。これを天の真奈井と云ひまた後世琵琶湖と云ふ。撞の御柱のまたの御名を伊吹の御山と云ふ。天の御柱の神は九山八海の山を御柱とし、国の御柱の神は塩の八百路の八塩路の泡立つ海の鳴戸灘をもつて胞衣となし玉ひ、地の世界の守護を営ませ玉ふ。また鳴り鳴りて鳴りあまれる、九山八海の火燃輝のアオウエイの緒所と云はれて居るは不二山にして、また鳴り鳴りて鳴り合はざるは、阿波の鳴戸なり。『富士と鳴戸の経綸』と神諭に示し玉ふは、陰陽合致、採長補短の天地経綸の微妙なる御神業の現はれをいふなり。鳴戸は地球上面の海洋の水を地中に間断なく吸入しかつ撒布して地中の洞穴、天の岩戸の神業を輔佐し、九山八海の山は地球の火熱を地球の表面に噴出して、地中寒暑の調節を保ち水火交々相和して、大地全体の呼吸を永遠に営み居たまふなり。九山八海の山と云ふは蓮華台上の意味にして、九山八海のアオウエイと云ふは、高く九天に突出せる山の意味なり。而て富士の山と云ふは、火を噴く山と云ふ意義なり、フジの霊反しはヒなればなり。 茲に当山の神霊たりし木花姫は、神、顕、幽の三界に出没して、三十三相に身を現じ、貴賤貧富、老幼男女、禽獣虫魚とも変化し、三界の衆生を救済し、天国を地上に建設するため、天地人、和合の神と現はれたまひ、智仁勇の三徳を兼備し、国祖国治立命の再出現を待たせ玉ひける。木花姫は顕、幽、神における三千世界を守護し玉ひしその神徳の、一時に顕彰したまふ時節到来したるなり。これを神諭には、 『三千世界一度に開く梅の花』 と示されあり。木花とは梅の花の意なり。梅の花は花の兄と云ひ、兄をこのかみと云ふ。現代人は木の花と云へば、桜の花と思ひゐるなり。節分の夜を期して隠れたまひし、国祖国治立の大神以下の神人は、再び時節到来し、煎豆の花の咲くてふ節分の夜に、地獄の釜の蓋を開けて、再び茲に神国の長閑な御世を建てさせ玉ふ。故に梅の花は節分をもつて花の唇を開くなり。桜の花は一月後れに弥生の空にはじめて花の唇を開くを見ても、木の花とは桜の花に非ざる事を窺ひ知らるるなり。 智仁勇の三徳を兼備して、顕幽神の三界を守らせたまふ木花姫の事を、仏者は称して観世音菩薩といひ、最勝妙如来ともいひ、観自在天ともいふ。また観世音菩薩を、西国三十三箇所に配し祭りたるも、三十三相に顕現したまふ神徳の惟神的に表示されしものにして、決して偶然にあらず。霊山高熊山の所在地たる穴太の里に、聖観世音を祭られたるも、神界に於る何彼の深き因縁なるべし。瑞月は幼少の時より、この観世音を信じ、かつ産土の小幡神社を無意識的に信仰したるも、何彼の神の御引き合はせであつたことと思ふ。惟神霊幸倍坐世。 附記 三十三魂は瑞霊の意なり。また天地人、智仁勇、霊力体、顕神幽とも云ひ、西王母が三千年の園の桃の開き初めたるも三月三日であり、三十三は女の中の女といふ意味ともなるを知るべし。 (大正一一・一・二〇旧大正一〇・一二・二三加藤明子録) |
|
17 (1325) |
霊界物語 | 07_午_日の出神のアフリカ物語 | 総説 | 総説 神界の示教は、到底現代人のごとく、数理的頭脳の活力を以て窺知することは出来ないものである。神は言霊即ち道である。言葉を主として解すべきものである。神諭の三月三日五月五日の数字についても、現代の物質かぶれをした人士は、非常な論議の花を咲かして居られるさうです。出口教祖の直筆の文句には『明治三十年で世の立替云々』と、明治三十三年ごろになつても、依然として記されてあるのを見ても、神界の示教の現代的解釈に合致せないことは明瞭であります。 また教祖の直筆は所謂お筆先であり、そのお筆先を神示に随つて、取捨按配して発表したのが大本神諭である。之を経の筆先と称して、変性女子の緯の筆先と区別し、経は信ずるが、緯は信じないと謂つてゐる人々が、処々に散見される様ですが、経緯不二の真相を知らんと思へば、教祖の直筆をお読みに成つたら判然するでせう。お筆先そのままの発表は、随分断片的に語句が列べられ、かつ一見して矛盾撞着せし文句があるやうに浅い信者は採るやうなことが沢山ある。また教祖が明治二十五年より、大正五年旧九月八日まで筆先を書かれたのは、全部御修行時代の産物であり、矛盾のあることは、教祖自筆の同年九月九日の御筆先を見れば判然します。 変性女子のやり方について、今日まで誤解して居たといふ意味を書いて居られる。その未成品の御筆先しかも変性女子みづから取捨按配した神諭を見て、かれこれ批評するのは、批評する人が根本の緯緯を知らないからの誤りであります。私はもはや止むに止まれない場合に立到つたので、露骨に事実を告白しておきます。要するに教祖は、明治二十五年より大正五年まで前後二十五年間、未見真実の境遇にありて神務に奉仕し、神政成就の基本的神業の先駆を勤められたのである。女子は入道は明治三十一年であるが、未見真実の神業は、同三十三年まで全二ケ年間で、その後は見真実の神業である。霊的に言ふならば教祖よりも十八年魁けて、見真実の境域に進ンでゐたのは、お筆先の直筆を熟読さるれば判りませう。 三千年と五十一年、三四月、八九月、正月三日、三月三日、五月五日なぞの数字に囚はれてゐた、いはゆる○○派、○○派の説明に誤られてはならぬ。五十一年の五は、厳の意味であり、十は火水[※「火水」は御校正本にルビなし]、または神の意、一年は始めの年の意味である。要するに三千年(無限の年数)の間の、大神の御艱苦が出現して、神徳の発揮さるる最初の年が、明治二十五年正月からと云ふ意義である。九月八日の九はツクシであり、月はミロクであり、八は開く、日は輝くの意味で、梅で開いて松で治めるといふ意義である。九月とは松で治める意義、八日とは梅で開く意義である。また正月三日の正は、一と止と合した意味であり、月は月光、三は瑞または栄え、日は輝くことで、神徳の完全に発揮されることを、正月三日といふのである。故に神諭の解釈は容易にできない。また筆先と神諭の区別も弁へて読ンで貰はねばなりませぬ。 この霊界物語も、人智を以て判断することは出来ませぬ。たとへ編輯人、筆録者の解説といへども、肯定しては成りませぬ。ただ単に文句のまま、素直に読むのが、第一安全でありますから、一寸書加へておきます。 大正十一年瑞月祥日 於瑞祥閣王仁識 |
|
18 (1358) |
霊界物語 | 07_午_日の出神のアフリカ物語 | 33 回顧 | 第三三章回顧〔三三三〕 月日の駒は矢の如く、瑞霊に縁ある、壬戌の正月の、神の御稜威を照すてふ、心の帳も七五三の内、睦月五日となりにけり。思へば去年の今日の日は、難波の水の都より、思ひがけなきわざひとに、導かれつつ烏羽玉の、闇より暗き根の国の、門を潜りしその夕、大正日々副社長、高木鉄男氏門前に、送り来りし夜見の庭、月西天に輝けど、心は曇る暗の夜の、牢獄の中に囚はれし、思ひ出深き夕なり。神の恵の幸はひて、奇しき神世の物語、清く流るる和知川の、辺に近き松雲閣、一の巻より説き始め、外山、谷口、桜井、加藤、四人の御子を命毛の、筆を揮はせ綴り行く、心の駒は逸れども、進み兼ねたる口車、やうやう茲に三百三十三節の、歩も慣れぬ神の道、辿り辿りて説き明す、これの霊界物語、言葉の綾や錦織る、秋の最中に筆執りて、心も清き白雪の、地は一面の銀世界、総ての枉を清めたる、錦水亭の奥深く、悩みの身をば横たへて、世人のために言挙ぐる、日の出神の御活動、世の黒雲を吹き払ひ、日出る国の礎を、堅磐常磐に経緯の、神の教を敷島や、煙草に心慰めつ、熊襲の国の醜人に、光眩ゆき水晶の、三つの御魂を与へたる、実にも目出度き物語、花咲く春の三月三日、菖蒲も薫る五月空、いつかは晴れむ胸の闇、黒白も分かぬ闇の夜の、光となるぞ苦しけれ、証となるぞ尊けれ。夢か現か夢ならば、いつかは醒めよ現身の、この世を思ふ赤心の、紅に染めなす紅葉の、妻恋ふ鹿の奥山の、しかと往事を極めむと、先を争ひ来る人の、魂の証と教子が、先を争ひ筆を執る、神の守護も弥深き、これの霊界物語、語り尽せぬ言霊の、清きは神の心かな。嗚呼この神心神心、世人の心片時も、鏡に写れ真澄空、空行く雲の定めなき、昨日に変る今日の雪、神を力に教を杖に、身は高砂の尉と姥、尉と姥との御教を、千歳の松の末長く、守れよ守れ百の人、三千年がその間、守り育てし園の桃、天津御神に奉る、神の化身の西王母が、心の花の開く時、心の花の薫る時。 世を思ふ心は胸に三千歳の 神の教を開く今日かな (大正一一・二・一旧一・五加藤明子録) |
|
19 (1436) |
霊界物語 | 09_申_松竹梅の宣伝使の南米・中米の旅 | 09 鴛鴦の衾 | 第九章鴛鴦の衾〔四〇二〕 久方の天津御空も地土も左右りと廻る世に 邂逅うたる親と子の心の空の五月暗 晴れて嬉しき夏の日の緑滴る黒髪を 撫でさすりつつ入り来る父の便りを松代姫 心の竹のふしぶしに積る思ひをいたいけの 花の蕾の唇を開く梅ケ香姫の御子 三月三日にヱルサレム館を抜けて三人連れ 月雪花の照彦は主従都を竜世姫 いよいよ此処に月照彦の神の御魂の鎮まれる 珍の都の主宰神桃上彦の掌る 珍の館に着きにけり五月の空の木下闇 五日は晴れむ常磐木の五月五日の今日の宵 父子夫婦の廻り会ひくるくる廻る盃の つきの顔五月姫松竹梅の千代八千代 栄の基となり響く宴会の声は此処彼処 珍の都も国原も揺ぐばかりの賑はしさ。 正鹿山津見神は五月姫との結婚の式ををはり、淤縢山津見、駒山彦、珍山彦三柱とともに、宴会の最中、朝な夕なに心を痛めし故郷の、松、竹、梅の最愛の娘子の訪ね来りし事を聞き、歓喜の涙に咽ぶ折しも、国彦の案内につれて一行は此場に現はれぬ。三人の娘は嬉しさに胸逼り、父の顔を見るより早く三人一度に首を垂れ、傍に人なくば飛びつき抱きつき互ひに泣かむものと、思ひは同じ親心、桃上彦も暫し喜びの涙に咽びて、唯一言の言葉さへも出し得ず今まで賑はひし宴会の席も、何となく五月の雨の湿り気味とはなりぬ。珍山彦は、 珍山彦『ヤア、これはこれは、目出度い事が重なれば重なるものだ。今日は五月五日、菖蒲の節句だ。黒白も分かぬ暗の世を、あかして通る宣伝使の、天女にも擬ふ五月姫、三月三日の桃の花にも比ぶべき桃上彦の命と、偕老同穴の契を結びし矢先、瑞霊の三人連、松のミロクの代を祝ふ御娘子の松代姫様、直な心の竹野姫様、三五教の教も六合一度に開く梅の花、綻びかけし梅ケ香姫様の親子の対面、何と目出度い事であらうか。それにまだまだ目出度きは月照彦の神の名を負ふ照彦さまの御供とは、何とした不思議な配合だらう。あゝこれで鶯宿梅の梅の喜び、桃林の花曇り、五月の暗もさつぱり晴れて、月日は御空に照り渡るミロクの神代が近づくであらう。三五の月の輝いたその夜に初めて会うた五月姫、父の名は闇山津見でも、もうかうなつた以上は照山津見だ。皆さま、今日の此の御慶事を祝ふために、親子夫婦の睦びあうた目出度さを歌ひませうか』 淤縢山津見は、 淤縢山津見『それは実に結構で御座います。どうか発起人の貴方から歌つて下さいませ』 と願ふにぞ、珍山彦は、 珍山彦『然らば私より露払ひを致しませうか』 と、今までの怪しき疳声に似ず、余韻嫋々たる麗しき声音を張り上げて歌ひ始めたり。 珍山彦『朝日は照る照る月は盈つ天地の神は勇み立つ 誠の神が現はれて三月三日の桃の花 花は紅葉は緑緑滴る松山の 青葉に来啼く時鳥八千八声の叫び声 晴れて嬉しき五月空喜び胸に三千年の 花咲く春に桃上彦の神の命の妹と背の 千代の喜び垂乳根の親子五人の廻り会ひ 五月五日の今日の宵遠き神代の昔より 夕暮れ悪しと忌みし世もかはりて今は夕暮れの 天地に満つる喜びはまたとありなの滝の上 鏡の池の限りなく清水湧き出る如くなり 神代を祝ぐ松代姫一度に開く梅ケ香姫の 貴の命のすくすくと生ひ立ち早き竹野姫 貴の都を後にして珍の都に月照の 空高砂の珍の国珍山彦の木の花は 弥高々と高照姫の神の命に通ふなり 大蛇の船に乗せられてここに四人の神人は 主従親子の顔合せ心合せて何時までも 厳霊を経となし瑞霊を緯となし 三五の月の御教を天地四方に輝かせ 天地四方に輝かせ』 と歌ひ終れば、淤縢山津見神は、またもや口を開いて祝歌を歌ふ。 淤縢山津見『三月三日の桃の花三千年の昔より 培ひ育てし園の桃君に捧ぐる桃実の 心も春のこの宴会五月五日の花菖蒲 香り床しき五月姫御空も晴れて高砂の 尾の上の松の下蔭に尉と姥との末長く 清く此世を渡りませ頭は深雪の友白髪 松、竹、梅の愛娘世は烏羽玉の暗くとも 月日は空に照彦の光眩ゆき佳人と佳人 鶴は千歳と舞ひ納め亀は万代舞ひ歌ふ 秋津島根の珍の国五男三女と五月姫 千代に治まる国彦の栄をまつぞ目出度けれ 栄をまつぞ目出度けれ』 珍山彦は、 珍山彦『ヤア目出度い目出度い、コレコレ五月姫さま、貴女は此家のこれからは立派な奥様、今三人の御娘子は貴女の真の御子ぢや、腹も痛めずに、こんな立派な月とも雪とも花とも知れぬ天女神を子に持つて、さぞ嬉しからう。縁と云ふものは不思議なもので、佳人が醜夫に娶られたり、愚人が美女と結婚するのは世の中の配合だ。然るに貴女は正鹿山津見神様のやうな智仁勇兼備、何一つ穴のない、あななひ教の宣伝使を夫に持ち、佳人と美女の鴛鴦の契の夢暖かく、夫婦親子が花の如く月の如く雪の如く、清き生活を送らるると云ふ事は、またと世界にこれに越した幸福はあるまい。恋には正邪美醜賢愚の隔てがないと云ふ事だが、貴女の恋は完全ですよ。桃と菖蒲の花も実もある千代の喜び、幾千代までもと契る言葉も口籠る。鴛鴦の衾の新枕、実に目出度い、お目出度い』 五月姫は、 五月姫『有難う御座います』 と唯一言、顔赭らめて稍俯いて居る。珍山彦は、 珍山彦『もしもし五月姫さま、貴女は今晩の花だ。一つ華やかに歌つて貰ひませうか』 五月姫は耻かしげに立ち上り、長袖淑やかに歌ひ舞ひ始めたり。 (大正一一・二・一三旧一・一七加藤明子録) |
|
20 (1438) |
霊界物語 | 09_申_松竹梅の宣伝使の南米・中米の旅 | 11 蓬莱山 | 第一一章蓬莱山〔四〇四〕 松代姫の歌。 松代姫『松は千年の色深く厳のみろくの守り神 瑞の御魂と現はれし三五教の宣伝使 三葉の彦の神魂清き尊き玉鉾の 広道別と改めて黄金山に宮柱 太知り立てて神の代を治め給ひし神業を 朝な夕なに嬉しみて天地に願ひを掛巻も 畏き神の引き合せ恋しき父に邂逅ひ 心の丈を語りあふ今日の月日を松代姫 待つ甲斐ありて今茲に松竹梅の姉妹は 恋しき父に巡り会ひ又もや母の懐に 抱かれて眠る雛鳥の吾身の上ぞ楽しけれ 吾身の上ぞ楽しけれ朝日は照るとも曇るとも 月は盈つとも虧くるとも千代も八千代も変りなき 心やさしき五月姫母の命と敬ひて 心を尽し身を尽し力の限り仕ふべし あゝ垂乳根の父母よ親と現はれ子となるも 遠き神代の昔より天津御神や国津神 金勝要の大神の結び給ひし神業と 聞くも嬉しき今日の宵竜世の姫や月照彦の 神の命の守ります高砂島は幾千代も 山は繁れよ野は栄え花は匂へよ百の実は 枝もたわわに結べかし五日の風や十の日の 雨も秩序をあやまたず稲麦豆粟黍までも 豊に稔れ永久に蓬莱山も啻ならず 鶴の齢の末長く亀の寿のいつまでも 夫婦親子の契をば続かせ給へ国治立の 神の命よ豊国姫の神の命よ平けく いと安らけく聞しめせ天教山にあれませる 木の花姫の御守りは千代も八千代も変らざれ 千代も八千代も変らざれ神に任せし親と子の 心は清し惟神御霊幸はへましまして 世の大本の大御神開き給ひし三五の 言葉の花は天地と共永遠に栄えませ いや永遠に栄えませ』 と述懐歌をうたひ、しとやかに舞ひ納めたれば、竹野姫は又もや起つて、長袖ゆたかに歌ひ舞ふ。 竹野姫『あゝ有難し有難しいづの身魂のみ守りに うづの都を立ち出でてえにしも深き海の上 おさまる胸は智利の国かがやき渡る天津日の きしに昇りて山河をくもなく渡る四人連れ けしき勝れし珍の国こころも晴るる今日の空 さかえに充てる父の顔しら雪紛ふ母の面 すずしき眼月の眉せみの小川の水清く そそぎ清めし神御魂たなばた姫の織りませる ちはた百機綾錦つぼみも開く梅ケ香に てる月さへも清くしてとこよの暗も晴れてゆく なに負ふ清き高砂のにしきの機を織りなして ぬなとも母揺にとり揺らしねがひ叶ひし親と子は のどかな春に逢ふ心地はるる思ひの鏡池 ひびに教ふる言霊のふかき恵みを仰ぎつつ へに来し夢も今はただほーほけきよーの鶯の ま声とこそはなりにけれみじかき夏の一夜さに むすぶも果敢なき夢の世のめぐりて此処に親と子は もも夜の春に逢ふ心地やちよの椿優曇華も いや永遠に薫れかしゆくへも知らぬ波の上 えにしの船に乗せられてよを果敢なみつ進み来る わが身の上を憐みていづの御魂や瑞御魂 うきに悩める姉妹のゑがほも清き今日の宵 をさまる夫婦親子仲四十五文字の言霊の 花も開いて実を結ぶ結びの神の引き合せ 娘と父と母神の今日の団欒ぞ嬉しけれ 今日の団欒ぞ楽しけれ』 梅ケ香姫は又もや起つて歌ひ舞ふ。 梅ケ香姫『ひは照る光る月は冴ゆふかき恵みの父母よ みたりの娘を何時までもよは紫陽花と変るとも いつくしみませ永久にむすぶ縁の糸柳 ながながしくも親と子はやちよの春の来るまで こころ変らぬ松の世のときは堅磐に何時までも もも上彦と現はれて千々の民草守りませ よろづのものを救ひませひがしに昇る朝日影 二日の月は上弦のみいづかくして世を守る よしも悪しきも難波江のいつしか晴るる神の胸 むかしの神代廻り来てなく杜鵑声高く 八千代の春を祝ふらむこころも清き梅ケ香の とこよの春を迎へつつももの千花に魁けて ちり行く後に実を結ぶよろづ代祝ふ神の国 ひかり洽き神の国ふかき恵みに包まれて みろくの御代を松代姫よし野に開く花よりも いつも青々松緑むつびに睦ぶ神人の なさへ目出度き高砂ややま河田畑美はしく こころも直き竹野姫ときは堅磐に栄ゆべし もも上彦の知らす世は千代も八千代も限りなく よろづ代までも栄えませ万代までも栄えませ 思ひは胸に三千年の一度に開く梅の花 心のたけのすくすくと世は治まりて伏し拝む み民の心ぞ尊けれみ民の心ぞ尊けれ 常世の松代くれ竹野世のふしぶしに潔く 色も香もある桃の花梅ケ香慕ふ鶯の 声も春めき渡りつつ血を吐く思ひの杜鵑 声も静かに治まりて松吹く風となりにけり 松吹く風となりにけり緑滴る夏山の 霞をわけて天津日の輝き渡る五月姫 三月三日の桃の花五月五日の花菖蒲 桃と菖蒲の睦びあひ松竹梅の千代八千代 栄ゆる御代ぞ目出度けれ栄ゆる御代ぞ目出度けれ』 と節なだらかに、舞ひ終り座に着きぬ。珍山彦は、 珍山彦『ヤア、天晴々々、これは秀逸だ。天の数歌を三度も繰返された御手際は、三月三日の桃の花よりも、五月五日の花菖蒲よりも、美はしい、尊い目出度い歌であつた。さあさあ、これからは照彦さまの番だよ』 照彦は儼然として立上り、声高々と自ら歌ひ自ら舞ふ。 照彦『天地百の神たちのその喜びをただ一人 うけさせ給ふ桃上彦の神の命の宣伝使 地の高天原を出でまして御稜威も高き高砂の 島に現はれ正鹿山津見の命の珍都 音に名高き淤縢山祇の神の命や村肝の 心の駒山彦司御稜威輝く蚊々虎の 名もあらたまの貴の御子木の花姫の御恵に 珍山彦と宣り直し心も晴るる五月姫 鴛鴦の衾の幾千代も外へはやらぬ悦びは 御稜威も高き高砂の浜辺に繁る松代姫 世は呉竹野すくすくと梅ケ香匂ふ神の島 月日は清く照彦の神の恵ぞ尊けれ 波も静かな国彦の従属の神と諸共に 珍の御国に永久に鎮まりまして高砂や この浦船に帆を揚げて月照彦と諸共に 出潮入潮平けくいと安らけく凪ぎ渡る 大海原に浮く島の国の栄えぞめでたけれ 国の栄えぞめでたけれ』 駒山彦は、 駒山彦『妙々、天晴々々』 と感嘆の声をもらすのみ。珍山彦も手を拍つて、 珍山彦『天晴々々。天晴れ国晴れ皆晴れよ、晴れよ晴れ晴れ晴れの場所、晴れの盃親子の縁、ここに目出度く千代も八千代も、弥永久に祝ひ納むる』 (大正一一・二・一三旧一・一七東尾吉雄録) |