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(158)
ひふみ神示 5_地つ巻 第21帖 神界のことは顕界ではなかなかに分るものでないと云ふこと分りたら、神界のこと分るのであるぞ。一に一足すと二となると云ふソロバンや物差しでは見当取れんのざぞ。今までの戦でも、神が蔭から守ってゐること分るであらうがな、あんな者がこんな手柄立てたと申すことあらうが、臣民からは阿房に見えても、素直な人には神がかかり易いのであるから、早う素直に致して呉れよ。海のつなみ気をつけて呉れ、前に知らしてやるぞ。九月二十五日、ひつ九のか三。
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(286)
ひふみ神示 10_水の巻 第12帖 人間心には我があるぞ。神心には我がないぞ。我がなくてもならんぞ、我があってはならんぞ。我がなくてはならず、あってはならん道理分りたか。神にとけ入れよ。てんし様にとけ入れよ。我なくせ、我出せよ。建替と申すのは、神界、幽界、顕界にある今までの事をきれいに塵一つ残らぬ様に洗濯することざぞ。今度と云ふ今度は何処までもきれいさっぱりと建替するのざぞ。建直しと申すのは、世の元の大神様の御心のままにする事ぞ。御光の世にすることぞ。てんし様の御稜威輝く御代とする事ぞ。政治も経済も何もかもなくなるぞ。食べるものも一時は無くなって仕舞ふぞ。覚悟なされよ。正しくひらく道道鳴り出づ、はじめ苦し、展きゐて、月鳴る道は弥栄、地ひらき、世ひらき、世むすび、天地栄ゆ、はじめ和の道、世界の臣民、てん詞様おろがむ時来るのざぞ。邪魔せずに見物いたされよ、御用はせなならんぞ。この神示読めよ、声高く。この神示血とせよ、益人となるぞ。天地まぜこぜとなるぞ。六月十二日、みづのひつ九の
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(999)
霊界物語 01_子_霊界探検/玉の争奪戦 02 業の意義 第二章業の意義〔二〕 霊界の業といへば世間一般に深山幽谷に入つて、出世間的難行苦行をなすこととのみ考へてをる人が多いやうである。跣足や裸になつて、山神の社に立籠り断食をなし、断湯を守り火食をやめて、神仏に祈願を凝らし、妙な動作や異行を敢てすることをもつて、徹底的修行が完了したやうに思ひ誇る人々が多い。 すべて業は行である以上は、顕幽一致、身魂一本の真理により、顕界において可急的大活動をなし、もつて天地の経綸に奉仕するのが第一の行である。たとへ一ケ月でも人界の事業を廃して山林に隠遁し怪行異業に熱中するは、すなはち一ケ月間の社会の損害であつて、いはゆる神界の怠業者もしくは罷業者である。すべて神界の業といふものは現界において生成化育、進取発展の事業につくすをもつて第一の要件とせなくてはならぬ。 大本の一部の人士のごとく、何事も『惟神かむながら』といつて難きを避け、易きに就かむとするは神界より御覧になれば、実に不都合不届至極の人間といはれてもしかたはない。少しも責任観念といふものがないのみか、尽すべき道をつくさず、かへつて神業の妨害ばかりしながら、いつも神界にたいし奉り、不足ばかりいつてゐる。これがいはゆる黄泉醜人である。神諭に、 『世界の落武者が出て来るから用心なされよ』 といふことが示されあるを考へてみるがよい。神界の業といふものは、そんな軽々しき容易なものではない。しかるに自分から山林に分入りて修行することを非難しておきながら、かんじんの御本尊は一週間も高熊山で業をしたのは、自家撞着もはなはだしいではないか……との反問も出るであらうが、しかし自分はそれまでに二十七年間の俗界での悲痛な修行を遂行した。その卒業式ともいふべきものであつて、生存中ただ一回のみ空前絶後の実修であつたのである。 世には……釈迦でさへ檀特山において数ケ年間の難行苦行をやつて、仏教を開いたではないか、それに僅か一週間ぐらゐの業で、三世を達観することを得るやうになつたとは、あまりの大言ではあるまいか……と、疑問を抱く人々もあるであらうが、釈迦は印度国浄飯王の太子と生れて、社会の荒き風波に遇うたことのない坊ンさんであつたから、数年間の種々の苦難を味はつたのである。自分はこれに反し幼少より極貧の家庭に生れて、社会のあらゆる辛酸を嘗めつくしてきたために、高熊山に登るまでに顕界の修行を了へ、また幾分かは幽界の消息にも通じてをつたからである。
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(1009)
霊界物語 01_子_霊界探検/玉の争奪戦 12 顕幽一致 第一二章顕幽一致〔一二〕 自分が高熊山中における、顕界と、霊界の修業の間に、親しく実践したる大略の一端を略述してみたのは、真の一小部分に過ぎない。 すべて宇宙の一切は、顕幽一致、善悪一如にして、絶対の善もなければ、絶対の悪もない。従つてまた、絶対の極楽もなければ、絶対の苦艱もないといつて良いくらゐだ。歓楽の内に艱苦があり、艱苦の内に歓楽のあるものだ。ゆゑに根の国、底の国に墜ちて、無限の苦悩を受けるのは、要するに、自己の身魂より産出したる報いである。また顕界の者の霊魂が、常に霊界に通じ、霊界からは、常に顕界と交通を保ち、幾百千万年といへども易ることはない。神諭に、……天国も地獄も皆自己の身魂より顕出する。故に世の中には悲観を離れた楽観はなく、罪悪と別立したる真善美もない。苦痛を除いては、真の快楽を求められるものでない。また凡夫の他に神はない。言を換ていへば善悪不二にして正邪一如である。……仏典にいふ。「煩悩即菩提。生死即涅槃。娑婆即浄土。仏凡本来不二」である。神の道からいへば「神俗本来不二」が真理である。 仏の大慈悲といふも、神の道の恵み幸はひといふも、凡夫の欲望といふのも、その本質においては大した変りはない。凡俗の持てる性質そのままが神であるといつてよい。神の持つてをらるる性質の全体が、皆ことごとく凡俗に備はつてをるといつてもよい。 天国浄土と社会娑婆とは、その本質において、毫末の差異もないものである。かくの如く本質においては全然同一のものでありながら、何ゆゑに神俗、浄穢、正邪、善悪が分るるのであらうか。要するに此の本然の性質を十分に発揮して、適当なる活動をすると、せぬとの程度に対して、附したる仮定的の符号に過ぎないのだ。 善悪といふものは決して一定不変のものではなく、時と処と位置とによつて、善も悪となり、悪も善となることがある。 道の大原にいふ。「善は天下公共のために処し、悪は一人の私有に所す。正心徳行は善なり、不正無行は悪なり」と。何ほど善き事といへども、自己一人の私有に所するための善は、決して真の善ではない。たとへ少々ぐらゐ悪が有つても、天下公共のためになる事なれば、これは矢張善と言はねばならぬ。文王一たび怒つて天下治まる。怒るもまた可なり、といふべしである。 これより推し考ふる時は、小さい悲観の取るに足らざるとともに、勝論外道的の暫有的小楽観もいけない。大楽観と大悲観とは結局同一に帰するものであつて、神は大楽観者であると同時に、大悲観者である。 凡俗は小なる悲観者であり、また小なる楽観者である。社会、娑婆、現界は、小苦小楽の境界であり、霊界は、大楽大苦の位置である。理趣経には、「大貪大痴是れ三摩地、是れ浄菩提、淫欲是道」とあつて、いはゆる当相即道の真諦である。 禁欲主義はいけぬ、恋愛は神聖であるといつて、しかも之を自然主義的、本能的で、すなはち自己と同大程度に決行し、満足せむとするのが凡夫である。これを拡充して宇宙大に実行するのが神である。 神は三千世界の蒼生は、皆わが愛子となし、一切の万有を済度せむとするの、大欲望がある。凡俗はわが妻子眷属のみを愛し、すこしも他を顧みないのみならず、自己のみが満足し、他を知らざるの小貪欲を擅にするものである。人の身魂そのものは本来は神である。ゆゑに宇宙大に活動し得べき、天賦的本能を具備してをる。それで此の天賦の本質なる、智、愛、勇、親を開発し、実現するのが人生の本分である。これを善悪の標準論よりみれば、自我実現主義とでもいふべきか。吾人の善悪両様の動作が、社会人類のため済度のために、そのまま賞罰二面の大活動を呈するやうになるものである。この大なる威力と活動とが、すなはち神であり、いはゆる自我の宇宙的拡大である。 いづれにしても、この分段生死の肉身、有漏雑染の識心を捨てず、また苦穢濁悪不公平なる現社会に離れずして、ことごとく之を美化し、楽化し、天国浄土を眼前に実現せしむるのが、吾人の成神観であつて、また一大眼目とするところである。 (大正一〇・二・八王仁)
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(1497)
霊界物語 10_酉_黄泉比良坂の戦い 27 言霊解一 第二七章言霊解一〔四五七〕 皇典美曽岐の段 『是を以て伊邪那岐大神宣り玉はく』 『是を以て』とは前の「黄泉大神と事戸を渡し玉ひ」云々の御本文を受けて謂へる言葉であります。 イザナギの命の御名義は、大本言霊即ち体より解釈する時は、イは気なり、ザは誘ふなり、ナは双ことなり、ギは火にして即ち日の神、陽神なり。イザナミのミは水にして陰神なり、所謂気誘双神と云ふ御名であつて、天地の陰陽双びて運り、人の息双びて出入の呼吸をなす、故に呼吸は両神在すの宮である。息胞衣の内に初めて吹くを号けて天浮橋と云ふ。その意義はアは自らと曰ふこと、メは回ることである。ウキはウキ、ウクと活用き、ハシはハシ、ハスと活用く詞である。ウは水にして㎞也。ハは水にして横をなす、即ち㎎である。水火自然に廻り、浮発して縦横を為すを天浮橋と云ふ。大本神諭に『此の大本は世界の大橋、この橋渡らねば世界の事は判らぬぞよ。経と緯との守護で世を開くぞよ。日の大神月の神様は、此世の御先祖様であるぞよ』とあるは此の意味に外ならぬのであります。 天地及び人間の初めて気を発く、之を二神天浮橋に立ちてと云ふのである。孕みて胎内に初めて動くは、天浮橋であり綾の大橋である。是の如く天地の気吹き吹き、人の息吹き吹きて、其末濡りて露の如き玉を為す、是れ塩累積成る島である。水火はシホであり、シマのシは水なり、マは円かと云ふ事で、水火累積て水円を成し、息の濡をなす、その息自づと凝り固まる、之を淤能碁呂嶋と云ふのである。要するに伊邪那岐、伊邪那美二神は、地球を修理固成し、以て生成化々止まざるの御神徳を保有し、且之を発揮し、万有の根元を生み玉ふ大神である。併し一旦黄泉国の神と降らせ玉へる時の伊邪那美の大神は、終に一日に千人を殺さむ、と申し玉ふに立到つたのであります。更に日本言霊学の用より二神の神名を解釈すれば、伊邪那岐命は万有の基礎となり土台となり、大金剛力を発揮して修理固成の神業を成就し、天津神の心を奉体して大地を保ち、万能万徳兼備し⦿の根元を定め、永遠無窮に活き徹し、天津御祖の真となり、善道に誘ふ火水様である。次に伊邪那美命は、三元を統べ体の根元を為し、身体地球の基台となり玉となりて暗黒界を照し玉ふ、太陰の活用ある神様であつて、月の大神様であり、瑞の御霊である。斯の如き尊貴円満仁慈の神も、黄泉国に神去ります時は、やむを得ずして体主霊従の神と化生し給ふのである。此処には御本文により男神のみの御活動と解釈し奉るのであります。 『吾は厭醜悪穢国に到りて在りけり』 アの言霊は天也、海也、自然也、○也、七十五声の総名也、無にして有也、空中の水霊也。これを以て考ふれば、吾とは宇宙万有一切の代名詞である。この宇宙万有一切の上に醜悪汚穢充満して、実に黄泉国の状態に立到つたと曰ふ事である。現代は実に天も地も其他一切の事物は皆イナシコメシコメキキタナキ国と成り果てて居るのである。政治も外交も教育も実業も道義も皆悉く廃れて、神の守り玉ふてふ天地なるを疑ふばかりになつて来て居るのであります。 『故に吾は御身の祓為なと詔りたまひて、筑紫の日向の立花の小門の阿波岐原に到りまして美曽岐祓ひたまひき』 大々的宇宙及び国家の修祓を断行せむと詔りたまうたのである。御神諭に、『三千世界の大洗濯、大掃除を天の御三体の大神の御命令に依りて、艮の金神が立替立直しを致す世になりたぞよ』と示されたるは、即ち美曽岐の大神事であります。 ツは実相真如決断力也、照応力也。 クは暗の交代也、三大暦の本元也、深奥の極也。 シは世の現在也、皇国の北極也、天橋立也。 ノは天賦の儘也、産霊子也、無障也。 ヒは顕幽貫徹也、無狂也、本末一貫也。 ムは押し定む也、国の億兆を成す也、真身の結也。 カは晴れ見る也、際立ち変る也、光り暉く也。 ノは続く言也。 タは対照力也、平均力也、足り余る也。 チは溢れ極まる也、造化に伴ふ也、親の位也。 ハは太陽の材料也、天体を保つ也、春也。 ナは火水也、真空の全体也、成り調ふ也、水素の全体也。 アは大本初頭也、大母公也、円象入眼也。 ハは延び開く也、天の色也、歯也、葉也。 ギは霊魂の本相也、天津御祖の真也、循環無端也。 ハは切断力也、フアの結也、辺際を見る也。 ラは高皇産霊也、本末打合ふ也、無量寿の基也。 以上の言霊を約むる時は、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原は、実相真如の顕彰にして一切の事物を照応し、決断力を具有して、暗黒界を照変し、神政を樹立し、御倉棚の神なる宇宙経綸の三大暦即ち恒天暦、太陽暦、太陰暦の大本元を極めて、深甚玄妙の極を闡明し、現在の世を済する為に天橋立なる皇国の北極に天賦自然の産霊子を生成化育して、障壁なく狂ひなく顕幽貫徹、本末一貫、以て万象を押定め、真身の結に依りて国の億兆を悉皆完成し、光輝以て神徳を発揚し、青天白日の瑞祥を照して、宇宙一切の大変革を最も迅速に敢行し給ひ、上下一致、顕幽一本、平均力を以て、善悪美醜清濁を対照し、全智全能にして、親たるの位を保ち、溢れ極まる霊力を以て造化に伴ひ、太陽に等しき稜威を顕彰して天体を保有し、春の長閑なる松の代を改立し、真空の全体たる霊魂球を涵養し、水素の本元たる月の本能を照して、宇宙一切を完成調理し、万有を結びて一と成し、天地を祭り人道を守り、国家を平けく安らけく治め幸はひ、男性的機能を発揮し、大仁大慈の神心を照し、造化の機関たる位を保ち、元の美はしき神世に突き戻し、円象入眼、総ての霊と体に生命眼目を与へ、大母公として世の大本となり、初頭と現はれ、無限に延び無極に開き、蒼天の色の如く清く、且つ高く広く、生成化育の徳を上下の末葉に及ぼし、天津御祖神の真を体得し、循環極まりなく、各自霊魂の本相を研ぎ尽し、妖邪を切断し世の辺際を見極め、言霊力を以て破邪顕正し、本末相対して世を清め洗ひ、一切無量寿たるの根基を達成すべき霊系高皇産霊の神業を大成する霊場と曰ふことである。現代の世に於て、斯の如き霊場たる神界の経綸地が、果して日本国に存在するであらう乎。若し存在せりとせば、其地点は何国の何れの方面であらう乎、大本人と云はず、日本人と云はず、世界の人類は、急ぎ探究すべき問題であらうと思ふのであります。 次に美曽岐の言霊を解釈すれば、 ミは水也、太陰也、充也、実也、道也、玉と成る也。 ソは風の種也、身の衣服也、⦿を包裏居る也。 ギは活貫く也、白く成る也、色を失ふ也、万に渡る也。 要するに、所在汚穢を清め塵埃を払ひ、風と水との霊徳を発揮して、清浄無垢の神世を玉成し、虚栄虚飾を去り、万事に亘りて充実し、活気凛々たる神威を顕彰し、金甌無欠の神政を施行して、宇内一点の妖邪を留めざる大修祓の大神事を云ふのである。現代の趨勢は、世界一般に美曽岐の大神事を厳修すべき時運に遭遇せる事を忘れては成らぬ。大本の目的も亦、この天下の美曽岐を断行するに在るのであります。 『故投棄つる御杖に成りませる神の御名は衝立船戸神』 御杖の言霊、ツは大金剛力決断力で玉の蔵であり、ヱは中腹に成就し行き進み玉を保つことであつて、即ち神の御力添へをする役目であります。然るに神は、この杖までも投げ棄て玉うたと云ふことは、よくも汚れたものであります。現代で曰へば大政を補弼する大官のことであります。 衝立船戸神の名義は、上と下との中に衝立ち遮り、下情を上に達せしめず、上の意を下に知らしめざる近親の神と云ふことである。現代は何事にも総てこの神様が遮り玉ふ世の中であります。杖とも柱とも成るべき守護神が、却て力に成らず邪魔になると曰ふので、伊邪那岐大神は、第一着に御杖を投げ棄て賜うたのであります。 『次に投棄つる御帯に成りませる神の御名は道の長乳歯の神』 御帯の言霊は、オは霊魂、精神を治め修むることで、亦神人合一の連結帯である。ビは光華明彩、照徹六合の意である。即ち顕界の政を為すに当りては、必ず精神的に天地人道を説き諭し、以て億兆をして帰依せしめ、顕界の政治に悦服帰順せしめねば成らぬのである。是が所謂神の御帯であります。神は此御帯も穢れて使へなく成つたから投げ棄て玉うたのであります。 道の長乳歯の意義は、天理人道を説く宗教家、教育家、倫理学者、敬神尊皇愛国を唱ふる神道家、皇道宣伝者、演説説教家等の大家と曰ふ事である。この帯を投棄て給ふと云ふ事は、総ての教育、宗教、倫理の学説を根本より革正し給ふと曰ふ事であります。 (大正九・一・一五講演筆録谷村真友)
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(1643)
霊界物語 15_寅_顕恩郷/スサノオの経綸/高姫登場 11 大蛇退治の段 第一一章大蛇退治の段〔五七八〕 『故、退はれて、出雲の国の肥河上なる鳥髪の地に降りましき』(古事記の大蛇退治の段) 出雲国は何処諸の国と云ふ意義で、地球上一切の国土である。肥河上は、万世一系の皇統を保ちて、幽顕一致、神徳無窮にして皇朝の光り晴れ渡り、弘り、極まり、気形透明にして天体地体を霊的に保有し、支障なく神人充満し、以て協心戮力し、完全無欠の神政を樹立する至聖至厳至美至清の日本国といふ事なり。 鳥髪の地とは、十の神の顕現地と云ふ事にして、厳の御魂、瑞の御魂が経と緯との神業に従事し、天地を修斎し玉ふ神聖の経綸地といふことなり。要するに世界を大改良せむ為めに素盞嗚尊は普く天下を経歴し、終に地質学上の中心なる日本国の地の高天原なる至聖地に降臨し玉ひたるなり。明治三十一年の秋八月に、瑞の御魂の神代として高座山より神退ひに退はれて綾部の聖地に降りたるは、即ち素盞嗚尊が、一人の選まれたる神主に憑依し給ひて、神世開祖の出現地に参上りて神の経綸地たることを感知されたるも同様の意味なり。古事記の予言は古今一貫、毫末も変異なく、且つ謬りなき事を実証し得るなり。 『此時しも箸其の河より流れ下りき』 ハシの霊返しはヒなり。ヒは大慈大悲の極みなり。ハシの霊返しのヒなるもの、ヒノカハカミより流れ来たると云ふ明文は実に深遠なる意義の包含されあるものなり。又箸は凡てを一方に渡す活用あるものにして、川に架する橋も、食物を口内へ渡す箸もハシの意味に於ては同一なり。悪を去り善に遷らしむる神の教のハシなり。暗黒社会をして光明社会に改善せしむる神教もハシなり。故に御神諭にも、綾部の大本は世界の大橋であるから、此大橋を渡らねば、何も分りは致さむぞよ云々とあるも、改過遷善、立替立直しの神教の意味なり。その箸は肥の河より流れ下りきとは、斯る立派な蒼生救済の神教も、邪神の為に情無くも流し捨てられ、日に日に神威を降しゆく事の意味なり。是を大本の出来事に徴して見るに、去る明治三十一年に瑞の御魂の神代として十神の聖地に降りたる神柱を、某教会や信者が中を遮り、以て厳の御魂、瑞の御魂の合致的神業を妨害し、瑞霊の神代を追返し、彼等の徒党が教祖を看板として至厳至重なる神教を潜め隠し、某教会を開設したる如き状態を指して『ハシ其の河より流れ下りき』といふなり。 『於是須佐之男命其の河上に人有りけりとおもほして尋ね上りて往まししかば老夫と老女と二人在りて童女を中に置きて泣くなり』 茲に顕幽両界の救世主たる須佐之男命は、肥の河上なる日本国の中心、地の高天原に神人現はれ、世界経綸の本源地有りと御考へになり尋ねて御上りありしが、変性男子の身魂現はれて、国家の騒乱状態を治めむと血涙を吐き乍ら昼夜の区別なく、世人を教戒しつつありしなり。二人といふ事は、艮の金神様の男子の御魂と、教祖出口直子刀自の女子の身魂とが一つに合体して神業に従事し玉へると同じ意義なり。ヒトとは霊の帰宿する意義で人の肉体に宇宙の神霊憑宿して天地の経綸を遂行し玉ふ、神の生宮の意なり。老夫と老女と二人とあるは女姿男霊の神人、出口教祖の如き神人を意味するなり。 『童女を中に置きて泣なり』とはオトメは男と女の意味にして、世界中の老若男女を云ふ。又老と若ともなり、現在の世界の人民を称して老若男女と云ふ。霊界にては国常立大神、顕界にては神世開祖出口直子刀自の老夫と老女とが、世界の人民の身魂の、日に月に邪神の為に汚され亡ぼされむとするを見るに忍びず、手を尽して足を運びて救助せむと艱難辛苦を嘗めさせられ、天地の中に立ちて号泣し給ふことを、童女を中に置きて泣くなりと云ふなり。 亦神の御眼より御覧ある時は世界の凡ての人間は、神の童子なり女子なり。故に世界の人民は皆神の童女なる故、人民の親がその生みし子を思ふ如くに、神は人民の為に昼夜血を吐く思ひを致して心配を致して居るぞよ、と御神諭に示させ給へる所以なり。亦オトメの言霊を略解する時は、 オは親の位であり、親子一如にして、大地球を包む活用であり。 トは十全治平にして、終始一貫の活用であり。 メは世を透見し、内に勢力を蓄へて外面に露はさざる意義なり。 之を約むる時は、日本固有の日本魂の本能にして、花も実もある神人の意なり。 『汝等は誰ぞと問ひ賜へば、其の老夫僕は国津神大山津見神の子なり、僕が名は足名椎、妻が名は手名椎、女が名は櫛名田比売と謂すと答す』 明治三十一年の秋瑞の御魂の神代に須佐之男神神懸したまひて綾部の地の高天原に降りまし、老夫と老女の合体神なる出口教祖に対面して汝等は誰ぞと問ひたまひし時に、厳の御魂の神代なる教祖の口を藉りて僕は国津神の中心神にして大山住の神也。神の中の神にして天津神の足名椎となり手名椎となりて、天の下のオトメを平かに安らかに守り助けむとして、七年の昔より肥の河上に御禊の神事を仕へ奉れり。又この肉体の女の名は櫛名田姫と申し、本守護神は禁闕要の大神なりと謂し玉ひしは、以上の御本文の実現なり。クシナダの クシは神智赫々として万事に抜目なく一切の盤根錯節を料理し、快刀乱麻を断つの意義なり。 ナは、万物を兼ね統べ、能く行届きたる思ひ兼の神の活用なり。 ダは、麻柱の極府にして大造化の器であり、対偶力であり、主従師弟夫妻等の縁を結ぶ神なり。 要するに、櫛名田姫の守護厚き天壌無窮の神国、大日本国土の国魂神にして、神諭の所謂大地の金神なり。 『亦、汝の哭由は何ぞと問ひたまへば、吾が女は八稚女在りき。是に高志の八岐遠呂智なも、年毎に来て喫ふなる。今その来ぬべき時なるが故に泣くと答白す』 以上の御本文を言霊学の上より解約すると、吾が守護する大地球上に生息する、息女即ち男子や女子は、八男と女と云つて、種々の沢山な神の御子たる人種民族が有るが、年と共に人民の霊性は、鬼蛇の精神に悪化し来り至粋至醇の神の分霊を喫ひ破られて了つた。高志の八岐の遠呂智と云ふ悪神の口や舌の剣に懸つて歳月と共に天を畏れず地の恩恵を忘れ、不正無業の行動を為すものばかり、人民の八分迄は、皆悪神の容器に為れて、身体も霊魂も、酔生夢死体主霊従に落下し、猶も変じて八岐の遠呂智の尾となり盲従を続けて、天下の騒乱、国家の滅亡を来しつつ、最後に残る神国の人民の身魂までも、喫ひ破り亡ぼさむとする時機が迫つて来たので如何にしてか此の世界の惨状を救ひ助け、天津大神に申上げむと、心を千々に砕き天下国家の前途を思ひはかりて、泣き悲しむなりと答へ玉うたと曰ふことなり。 高志といふ意義は、遠き海を越した遠方の国であつて、日本からいへば支那や欧米各国のことなり。海外より種々雑多の悪思想が渡来する。手を替へ品を替へて、宗教なり、政治なり、教育なりが盛んに各時代を通じて、侵入して来り敬神尊皇報国の至誠を惟神的に具有する、日本魂を混乱し、滅絶せしめつつある状態を称して、高志の八岐の遠呂智の喫ふなると云ふなり。亦外国の天地は、数千年来此悪神の計画に誑らかされて、上下無限の混乱を来し、国家を亡ぼし来たりしが、彼今猶其計画を盛んに続行しつつ、遂に日本神国の土地まで侵入し、天津神の直裔なる日本オトメの身魂まで、全部喫ひ殺さむとする、それが最近に迫つて居る、只一つ神国固有の日本魂なるオトメが後に遺つた許りである。之を悪神の大邪霊に滅ぼされては、折角天祖国祖の開き玉へる大地球を救ふ事は出来ない。どうかして之を助けたいと思つて艱難辛苦を嘗めて居るのである。実に泣くにも泣かれぬ、天下の状態であると云つて、之を根本的に救ふ事は出来ない。どうして良いかと途方に暮れ、天地に向つて号泣して居りますとの、変性男子の身魂の御答へなりしなり。 『其の形は如何さまにかと問ひたまへば、彼が目は赤加賀知なして、身一つに頭八つ尾八つあり。亦其の身に苔、及び桧、すぎ生ひ、其の長さ渓八谷、峡八尾を渡りて、其の腹を見れば、悉に常血爛れたりと答白す。(此に赤加賀知といへるは、今のほほづきなり)』 そこで其形は如何さまにかと、問ひたまへばと云ふ意義は、八岐の遠呂智なす悪思想の影響は如何なる状態に形はれ居るやとの須佐之男命の御尋ねなり。 そこで変性男子の身魂なる老夫と老女は、彼悪神の経綸の事実上に顕現したる大眼目は、赤加賀知なして身一つに、頭八つ尾八つありと云つて、悪神の本体は一つであるが、その真意を汲んで、世界覆滅の陰謀に参加して居るものは、八人の頭株であつて、此の八つの頭株は、全地球の何処にも大々的に計画を進めてをるのである。政治に、経済に、教育に、宗教に、実業に、思想上に、其他の社会的事業に対して陰密の間に、一切の破壊を企てて居るのである。就ては、尾の位地にある、悪神の無数の配下等が、各方面に盲動して知らず識らずに、一人の頭目と、八つの頭の世界的大陰謀に参加し、終には既往五年に亘つた世界の大戦争などを惹起せしめ、清露其他の主権者を亡ぼし、労働者を煽動して、所在世界の各方面に、大惑乱を起しつつあるのである。赤加賀知とは砲煙弾雨、血河死山の惨状や、赤化運動の実現である。実に現代は八岐の大蛇が、いよいよ赤加賀知の大眼玉をムキ出した所であり、既に世界中の七オトメを喫ひ殺し、今や最後に肥の河なる、日本までも現界幽界一時に喫はむとしつつある処である。要するに八つ頭とは、英とか、米とか、露とか、仏とか、独とか、伊とかの強国に潜伏せる、現代的大勢力の有る、巨魁の意味であり、八つ尾とは、頭に盲従せる数多の部下の意である。頭も尾も寸断せなくては成らぬ時機となりつつあるなり。 『亦其身に苔及び桧すぎ生ひ、其長さ、渓八谷、峡八尾を渡りて其の腹を見れば、悉に常も血爛れりと答白す』といふ意味は地球上の各国は皆この悪神蛇神の為に、山の奥も水の末も暴され、不穏の状態に陥り、終には尼港事件の如く、暉春事件の如く、染血虐殺の憂目に人類が遇つて、苦悶して居ることの形容である。また苔と云ふ事は、世界各国の下層民の事であり桧と云ふ事は上流社会の人民であり、すぎと云ふ事は国家の中堅たる中流社会である。要するに上中下の三流の人民が常に不安の念に駆られて居る事であつて、実に六親眷属相争ひ、郷閭相鬩ぎ戦ふ、悲惨なる世界の現状を明答されたといふ事である。御神諭に、『今の人民は外国の、悪神の頭と眷属とに、神から貰うた結構な肉体と御魂を自由自在に汚されて了うて、畜生餓鬼の性来になりて居るから、欲に掛けたら、親とでも兄弟とでも、公事を致すやうな悪魔の世になりて居るが、是では世は続いては行かぬから、天からは御三体の大神様がお降り遊ばすなり、地からは、国常立尊が変性男子と現はれて、新つの世に立替立直して、松の五六七の世に致して、世界の人民を歓ばし、万劫末代勇んで暮す神国の世に替へて了はねばならぬから、艮の金神は、三千年の間長い経綸を致して、時節を待ちて居りたぞよ。八つ尾八つ頭の守護神を、今度はさつぱり往生いたさすぞよ』云々と明示されてあるのも、要はこの御本文の大精神に合致して居る一大事実である。 『爾、速須佐之男命、其の老夫に是汝の女ならば、吾に奉らむやと詔たまふに、恐けれど御名を覚らずと答白せば、吾は天照大御神の同母男なり。故今天より降り坐つと答へたまひき。爾に足名椎、手名椎、然坐さば恐し立奉らむと白しき』 右御本文の老夫にとあるは艮の金神国常立尊神霊に対しての御言である。また足名椎手名椎神と並び称せるは、肉体は出口直子であつて手名椎の神であり霊魂は国常立尊の足名椎の意である。 茲に天より降り給へる須佐之男命は、老夫なる国常立尊の神霊に対し玉ひて、是は汝の守護し愛育する所の、至粋至醇の神の御子たる優しき人民であるなれば、吾に是の女の如き可憐なる万民の救済を一任せずやと、御尋ねになつた事である。そこで国常立尊は実に恐縮の至りではありますが、貴方は如何なる地位と、御職掌の在す神で居らせらるるや。御地位と御職名とを覚らない以上は御一任する事は出来ませぬと白し給ひければ、大神は至極尤もなる御尋ねである。然らば吾が名を申し上げむ、吾は天津高御座に鎮まり坐ます、掛巻も畏き天照大御神の同母弟であつて、大海原を知食すべき職掌である。されば今世界の目下の惨状を黙視するに忍びず、万類救護の為に、地上に降り来たのである。故に国津神たる汝の治むる万類万民を救はむが為に、吾に其の職掌を一任されよ然らば汝と共に八岐の大蛇の害を除いて天下を安国と平けく進め開かむと仰せになつたのである。茲に変性男子の身魂は、大変に畏み歓び玉うて、左様に至尊の神様に坐ますならば吾女なる可憐なる人民を貴神に御預け申すと、仰せられたのである。是は去る明治三十一年の秋に変性男子と変性女子との身魂が二柱揃うて神懸りがあつた時の御言であつて、実に重大なる意義が含まれて在るのである。然し乍ら是は神と神との問答でありまして、人間の肉体上に関する問題ではないから、読者に誤解の無いやうに御注意願つておく次第である。 『爾速須佐之男命、乃ち、其の童女を湯津爪櫛に取成して、御角髪に刺して、其の足名椎、手名椎神に告りたまはく、汝等、八塩折の酒を醸み、且、垣を造り迴し、その垣に八つの門を造り、門毎に八つの棧敷を結ひ、その棧敷毎に酒船を置きて船毎にその八塩折の酒を盛りて、待ちてよと、のりたまひき』 湯津爪櫛の言霊を略解すれば、 ユは、天地、神人、顕幽、上下一切を真釣合せ、国家を安寧に、民心を正直に立直す大努力の意であり、 ツは、日の大神の御稜威を信じ、大金剛の至誠心を振り起し、言心行一致の貫徹を期し、以て神霊の極力を発揮するの意である。 ツは、生成化育の大本合致し、大決断力を発揮し、実相真如の神民たりとの意である。 マは、人種中の第一位たる資格を保ち、胸中常に明かにして無為円満なる意である。 グは、暗愚を去つて賢明に帰し、万事神助を得て意の如く物事成功するの意である。 シは、信仰堅く、敬神尊皇報国の忠良なる臣民の基台なりとの意である。 以上の六言霊を総合する時は、霊主体従の真の日本魂を発揮せる神の御子と立直し玉ふ、神の経綸を進むると謂ふことである。 御角髪の言霊を略解すれば、 ミは、形体具足成就して、日本神国の神民たる位を各自に顕はし定めて真実を極め、以て瑞の御魂に合一する意である。 ミは、⦿の御威徳を明かに覚知し、惟神の大道を遵奉し実行し、以て玲瓏たる玉の如き身魂と成るの意である。 ツは、神の分身分霊として天壌無窮に真の生命を保全し、肉体としては君国を守り、霊体としては神と人民とを助け守るの意である。 ラは、言心行の三事完全に実現し、本末一貫、霊主体従の臣民と成りて、自由自在に本能を発揮するの意である。 以上の四言霊を総合する時は、愈日本魂の実言実行者となりて、其の霊魂は神の御列に加はるべき真の御子と成りたる意である。 要するに、瑞の霊魂なる速須佐之男命は、二霊一体なる神政開祖の神人より、男と女の守護と化育とを一任され一大金剛力を発揮して、本来の日本魂に立替へ立直し、更に進んで其の実行者とし賜ふた事を『其のオトメをユツツマグシに取成して御角髪に刺して』と言ふのである。 斯の如く、天下の万民の身魂の改良を遊ばして、足名椎、手名椎の御魂に御渡しになるに就ては、相当の歳月を要したのである。或は神徳を以てし、或は物質力を以てし、或は自然力を以てし、或は教戒を以てし、慈愛を以てし、種々の御苦辛を嘗めさせ玉ふ其神恩を忘れては成らぬのである。そこで速須佐之男命は、足名椎手名椎なる変性男子の霊魂に対つて告り給ふた御言葉は左の通りである。幸ひ残れるオトメは斯の如く、湯津爪櫛に取成し、御角髪に刺て立派に日本魂を造り上げたと云ふ事は、全く天津神の御霊徳と、吾御魂の活動と、汝命の至誠の賜であるから、第一に天地八百万の神に、精選した立派な美味なる、所謂八塩折の神酒を醸造し、且つ汚穢を防ぐ為に清らかな瑞垣を四方に作り廻して、其の垣毎に祭壇を設け(八つ門)て、祭壇毎に祝詞座を拵へ、酒を甕の戸高知り甕の腹満て並べて神々に報恩謝徳の本義を尽すべく、詔りたまふたのである。凡て酒と云ふものは、大神に献る時は、第一に御神慮を和げ勇ませ歓ばせ奉る結構な供へ物であるが、体主霊従的の人間が之を飲むと決して碌な事は出来ないのである。同じ種類の酒でも、人間は御魂相応に、種々の反応を来すものであつて、悪霊の憑つた人間が呑めば直ちに言語や、動作や精神が悪の性来を現はし、且つ酔ひ且つ狂ひ乱れ暴れるものである。或は泣くもの、笑ふもの、怒るもの、妙な処へ行きたくなるものなぞ、種々雑多に変化して、身魂の本性は現はし、吐たり倒れたり苦しみ悶えたりするものである。常に至誠至実の人にして、心魂の下津岩根に安定したものは、仮令酒を常に得呑まぬ人でも、少々位時に臨んで戴いた所が、決して前後不覚になつたり、倒れたり苦しんだり、動作や言舌や精神の変乱するもので無く、心中益々壮快を覚え、笑み栄え勇気を増し、神智を発揮するものである。故に酒は神様に献る所の清浄なる美酒と雖も、心の醜悪なるものが呑む時は、忽ち身魂を毒し弱らしむるものである。同じ酒を甲は一合呑んで酔ひ潰れて了ふかと思へば、乙は一升呑んでも酔はず、丙は三升位呑まなくては少しも酔うた如うな心持がしないと、云ふ区別の附くのは、乃ち身魂の性質に依りて反応に差異ある事の証である。甲は呑んで笑ひ、乙は怒り、丙は泣くと云ふ如うに、同じ味のある同じ種類の酒でも、区別の附くと云ふのは、実に不思議なもので、是はどうしても身と魂との性来関係に依るものである。 『故、告りたまへる随にして、如此設け備へて待つ時に、其の八岐大蛇、信に言ひしが如来つ。乃ち、船毎に、己々頭を垂入て、その酒を飲みき、於是、飲み酔ひてみな伏寝たり。爾ち速須佐之男命、その御佩せる十拳剣を抜きて、その大蛇を切散りたまひしかば肥の河、血に変りて流れき』 そこで変性男子の身魂は命の随々芳醇なる神酒を造りて、天地の神明を招待し、以て歓喜を表し賜ひ、神恩を感謝し給うたのである。八岐の大蛇の霊に憑依された数多の悪神の頭目や眷族共が大神酒を飲んで了つた。丁度今日の世の中の人間は、酒の為に腸までも腐らせ、血液の循環を悪くし、頭は重くなり、フラフラとして行歩も自由ならぬ、地上に転倒して前後も弁知せず、醜婦に戯れ家を破り、知識を曇らせ、不治の病を起して悶え苦しんで居るのは、所謂「飲み酔ひて皆伏寝たり」と云ふことである。爾に於て瑞の御霊の大神は、世界人民の不行跡を見るに忍びず、神軍を起して、此の悪鬼蛇神の憑依せる、身魂を切り散らし、亡ぼし給うたのである。十拳剣を抜きてと云ふ事は遠津神の勅定を奉戴して破邪顕正の本能を発揮し給うたと云ふことである。そこで肥の河なる世界の祖国日の本の上下一般の人民は、心から改心をして、血の如き赤き真心となり、同じ血族の如く世界と共に、永遠無窮に平和に安穏に天下が治まつたと云ふ事を「肥の河血に変りて流れき」と云ふのである。流れると云ふ意義は幾万世に伝はる事である。古事記の序文に、後葉に流へんと欲すとあるも、同義である。 『故其の中の尾を切りたまふ時、御刀の刄毀けき。怪しと思ほして、御刀の端もて刺割きて見そなはししかば、都牟刈之太刀あり。故此太刀を取らして、怪異しき物ぞと思ほして天照大御神に白し上げたまひき。是は草薙太刀なり』 中の尾と云ふ事は、葦原の中津国の下層社会の臣民の事である。其臣民を裁断して、身魂を精細に解剖点検し玉ふ時に、実に立派な金剛力の神人を認められた状態を称して、御刀の刄毀けきと云ふのである。アヽ実に予想外の立派な救世主の身魂が、大蛇の中の尾なる社会の下層に隠れ居るわい。是は一つの掘り出しものだと謂つて、感激されたことを、怪しと思ほしてと云ふのである。御刀の端もてと云ふ事は、天祖の御遺訓の光に照し見てと云ふ事である。 『刺割きて見そなはししかば都牟刈之太刀あり』と云ふことは今迄の点検調査の方針を一変し、側面より仔細に御審査になると、四魂五情の活用全き大真人が、中の尾なる下層社会の一隅に、潜みつつあつたのを初めて発見されたと云ふことである。都牟刈之太刀とは言霊学上より解すれば三千世界の大救世主にして、伊都能売の身魂と云ふ事である。故、此太刀なる大救世主の霊魂を取り立て、異数の真人なりと驚歎され、直ちに天照大御神様、及びその表現神に大切なる御神器として、奉献されたのである。凡ての青人草を神風の吹きて靡かす如く、徳を以て万民を悦服せしむる一大真人、日本国の柱石にして世界治平の基たるべき、神器的真人を称して、草薙剣と云ふのである。八岐大蛇の暴狂ひて万民の身魂を絶滅せしめつつある今日、一日も早く草薙神剣の活用ある、真徳の大真人の出現せむことを、希望する次第である。 また草薙剣とは、我日本全国の別名である。この神国を背負つて立つ処の真人は、即ち草薙神剣の霊魂の活用者である。 (大正九・一・一六講演筆録谷村真友)
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霊界物語 47_戌_治国別の天国巡覧1 総説 総説 最上天界即ち高天原には、宇宙の造物主なる大国常立大神が天地万有一切の総統権を具足して神臨し給ふのであります。そして大国常立大神の一の御名を天之御中主大神と称へ奉り、無限絶対の神格を持し、霊力体の大原霊と現はれ給ふのであります。この大神の御神徳の完全に発揮されたのを天照皇大御神と称へ奉るのであります。そして霊の元祖たる高皇産霊大神は、一名神伊邪那岐大神又の名は日の大神と称へ奉り、体の元祖神皇産霊大神は一名神伊邪那美大神又の名は月の大神と称へ奉るのは、此物語にて屡述べられてある通りであります。又高皇産霊大神は霊系にして厳の御霊国常立大神と現はれ給ひ、体系の祖神なる神皇産霊大神は、瑞の御魂豊雲野大神又の名は豊国主大神と現はれ給うたのであります。この厳の御魂は再び天照大神と顕現し給ひて天界の主宰神とならせ給ひました。因に天照皇大御神様と天照大神様とは、その位置に於て神格に於て所主の御神業に於て大変な差等のある事を考へねばなりませぬ。又瑞の御魂は、神素盞嗚大神と顕はれ給ひ、大海原の国を統御遊ばす神代からの御神誓である事は神典古事記、日本書紀等に由つて明白なる事実であります。然るに神界にては一切を挙げて一神の御管掌に帰し給ひ宇宙の祖神大六合常立大神に絶対的神権を御集めになつたのであります。故に大六合常立大神は独一真神にして宇宙一切を主管し給ひ厳の御魂の大神と顕現し給ひました。扨て厳の御魂に属する一切の物は悉皆瑞の御魂に属せしめ給うたのでありますから、瑞の御魂は即ち厳の御魂同体神と云ふ事になるのであります。故に厳の御魂を太元神と称へ奉り、瑞の御魂を救世神又は救神と称へ又は主の神と単称するのであります。故に此物語に於て主の神とあるは、神素盞嗚大神様の事であります。主の神は宇宙一切の事物を済度すべく天地間を昇降遊ばして其御魂を分け、或は釈迦と現はれ、或は基督となり、マホメツトと化り、其他種々雑多に神身を変じ給ひて天地神人の救済に尽させ給ふ仁慈無限の大神であります。而して前に述べた通り宇宙一切の大権は厳の御魂の大神即ち太元神に属し、この太元神に属せる一切は瑞の御魂に悉皆属されたる以上は神を三分して考へることは出来ませぬ。約り心に三を念じて口に一をいふことはならないのであります。故に神素盞嗚大神は救世神とも云ひ、仁愛大神とも申上げ、撞の大神とも申し上げるのであります。この霊界物語には産土山の高原伊祖の神館に於て神素盞嗚尊が三五教を開き給ひ数多の宣伝使を四方に派遣し給ふ御神業は、決して現界ばかりの物語ではありませぬ。霊界即ち天国や精霊界(中有界)や根底の国まで救ひの道を布衍し給うた事実であります。ウラル教やバラモン教、或はウラナイ教なぞの物語は、大抵顕界に関した事実が述べてあるのです。故に三五教は内分的の教を主とし其他の教は外分的の教を以て地上を開いたのであります。故に顕幽神三界を超越した物語と云ふのは右の理由から出た言葉であります。主の神たる神素盞嗚大神は愛善の徳を以て天界地上を統一し給ひ、又天界地上を一個人として即ち単元として之を統御したまふのであります。譬へば人体は其全分に在つても、其個体にあつても千態万様の事物より成れる如く天地も亦同様であります。人間の身体を全分の方面より見れば肢節あり機関あり臓腑あり、個体より見れば繊維あり神経あり血管あり、斯くて肢体の中にも肢体あり部分の中に部分あれども個人の活動する時は単元として活動する如く、主神は天地を一個人の如くにして統御し給ふのであります。故に数多の宣伝使も亦主神一個神格の個体即ち一部分として神経なり繊維なり血管なりの活動を為しつつあるのであります。天人や宣伝使のかく部分的活動も皆主神の一体となりて神業に奉仕するのは恰も一個の人体中に斯の如く数多の異様あれども、一物としてその用を遂ぐるに当り、全般の福祉を計らむとせざるはなきに由る如きものであります。即ち全局は部分の為に、部分は全局の為に何事か用を遂げずと云ふ事はありませぬ。蓋し全局は部分より成り部分は全局を作るが故に、相互に給養し相互に揖譲するを忘れない。而して其相和合するや部分と全局とに論なく何れの方面から見ても統一的全体の形式を保持し且つ其福祉を進めむとせないものはない。是を以て一体となりて活動し得るのである。主神の天地両界に於ける統合も亦之に類似したまふのである。凡て物の和合するは各其為す所の用が相似の形式を踏襲する時であるから、全社会のために用を為さないものは天界神界の外に放逐さるるのは当然である。そは他と相容れないからであります。用を遂ぐると云ふ事は総局の福祉を全うせむために他の順利を願ふの義であり、そして用を遂げずと云ふは、総局の福祉如何を顧みず、只自家の為の故に他の順利を願ふの義である。此はすべてを捨てて只自己のみを愛し、彼はすべてを捨てて只主神のみを愛すと云ふべきである。天界にあるもの悉く一体となりて活動するは之が為である。而して斯の如くなるは主神よりするのであります。諸天人や諸宣伝使自らの故ではない。何となれば、彼等天人や宣伝使は主神を以て唯一となし、万物の由りて来る大根源となし、主神の国土を保全するを以て総局の福祉と為すからであります。福祉といふは正義の意味である。現世に在つて、国家社会の福祉(正義)を喜ぶこと私利を喜ぶより甚しく、隣人の福祉を以て自己の福祉の如くに喜ぶものは、他生に於ては主神の国土を愛して之を求むるものである。そは天界に於ける主神の国土なるものは、此世に於ける国家と相対比すべきものだからである。自己の為でなく、只徳の故に徳を他人に施すものは隣人を愛することに成るのである。天界にては隣人と称するは徳である。すべて此の如きものは偉人であつて、即ち高天原の中に住するものである。三五教の宣伝使は皆、善の徳を身に備へ、且つ愛の善と信の真とを体現して智慧と証覚とを本具現成してゐる神人計りである。何れも主の神の全体または個体として舎身的大活動を不断に励みつつある神使のみで、実に神明の徳の広大無辺なるに驚かざるを得ない次第であります。願はくは大本の宣伝使たる人は神代に於ける三五教の宣伝使の神業に神習ひ、一人たりとも主の神の御意志を諒解し、国家社会の為に大々的活動を励み、天国へ永住すべき各自の運命を開拓し、且つ一切の人類をして天国の楽園に上らしむべく、善徳を積まれむことを希望する次第であります。太元神を主神と云つたり、救世神瑞の御魂の大神を主神と云つたりしてあるのは前に述べた通り太元神の一切の所属と神格そのものは一体なるが故であります。読者幸に諒せられむことを。 附けて言ふ 主の神なる神素盞嗚大神は神典古事記に載せられたる如く大海原を知食すべき御天職が在らせらるるは明白なる事実であります。主の神は天界をも地の世界をも治め統べ守り給ふと言へば、大変に驚かるる国学者も出現するでせう。然し乍ら天界と言つても天国と云つても矢張り山川草木其他一切の地上と同一の万類があり土地も儼然として存在して居るのであるから、天界地球両方面の守宰神と言つても余り錯誤ではありますまい。天界又は天国と云へば蒼空にある理想国、所謂主観的霊の国だと思つてゐる人には容易に承認されないでせう。天国とは決して冲虚の世界ではありませぬ。天人と雖も亦決して羽衣を着て空中を自由自在に飛翔するものとのみ思つてゐるのは大なる誤解であります。天国にも大海原即ち国土があるのです。只善と真との智慧と証覚を得たる個体的天人の住居する楽土なのであることを思考する時は、主の神の天地を統御按配し給ふといふも決して不可思議な議論ではありませぬ。故に大海原の主宰たる主の神は天界の国土たると地上の国土たるとを問はず守護し給ふは寧ろ当然であります。 大正十二年一月八日 王仁識
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霊界物語 49_子_祠の森の物語1(高姫と妖幻坊) 01 地上天国 第一章地上天国〔一二七五〕 天地万有一切を愛の善と信の真に基いて、創造し玉ひし皇大神を奉斎したる宮殿の御舎を、地上の天国と云ふ。而して大神の仁慈と智慧の教を宣べ伝ふる聖場を霊国といふ。故に大本神諭にも、綾の聖地を地の高天原と名付けられたのである。 天国とは決して人間の想像する如き、宙空の世界ではない。大空に照り輝く日月星辰も皆地球を中心とし、根拠として創造されたものである以上は、所謂吾人の住居する大地は霊国天国でなければならぬ。人間は其肉体を地上において発育せしめ、且其精霊をも馴化し、薫陶し、発育せしむべきものである。而して高天原の真の密意を究むるならば最奥第一の天国も亦中間天国、下層天国も、霊国もすべて地上に実在する事は勿論である。只形体を脱出したる人の本体即ち精霊の住居する世界を霊界と云ひ、物質的形体を有する人間の住む所を現界といふに過ぎない。故に人間は一方に高天原を蔵すると共に一方に地獄を包有してゐるのである。而して霊界、現界即ち自然界の間に介在して、其精霊は善にもあらず、悪にもあらず、所謂中有界に居を定めてゐるものである。 すべての人間は、高天原に向上して霊的又は天的天人とならむが為に、神の造り玉ひしもので、大神よりする善の徳を具有する者は、即ち人間であつて、又天人なるべきものである。要するに天人とは、人間の至粋至純なる霊身にして、人間とは、天界地獄両方面に介在する一種の機関である。人間の天人と同様に有してゐるものは、其内分の斉しく天界の影像なることと、愛と信の徳に在る限り、人間は所謂高天原の小天国である。而して人間は天人の有せざる外分なるものを持つてゐる。其外分とは世間的影像である。人は神の善徳に住する限り、世間即ち自然的外分をして、天界の内分に隷属せしめ、天界の制役するままならしむる時は、大神は御自身が高天原にいます如くに其人間の内分に臨ませ玉ふ。故に大神は人間が天界的生涯の内にも、世間的生涯の中にも、現在し玉ふのである。故に神的順序ある所には必ず大神の御霊ましまさぬことはない。凡て神は順序にましますからである。此神的順序に逆らふ者は決して生き乍ら天人たることを得ないのである。 教祖の神諭に……十里四方は宮の内……と示されてあるのは、神界に於ける里数にして、至善至美至信至愛の大神のまします、最奥第一の天国たる神の御舎は殆ど想念の世界よりは、人間界の一百方里位に広いといふ意味である。吾々人間の目にて僅かに一坪か二坪位な神社の内陣や外陣も、神界即ち想念界の徳の延長に依つて、十里四方或は数百里数千里の天国となるのである。福知舞鶴外囲ひと云うてあるのは、所謂綾の聖地に接近せる地名を仮つて、現界人に分り易く示されたものであつて、決して現界的地名に特別の関係がある訳ではない。只小さき宮殿(人間の目より見て)の中でも……即ち宮の内でも神の愛と神の信に触れ、智慧証覚の全き者は、右の如く想念の延長に仍つて、際限もなく、聖く麗しく、且広く高く見得るものである。すべて自然界の事物を基礎として考ふる時は斯の如き説は実に空想に等しきものの如く見ゆるは当然である。併し乍ら霊的事物の目より考ふれば、決して不思議でも、不合理でもない。霊的事象の如何なるものなるかを、能く究め得るならば、遂に其真相を掴むことが出来るのである。併し自然界の法則に従つて肉体を保ち、且肉の目を以て見ることを得ざる霊界の消息は到底大神の直接内流を受入るるに非ざれば、容易に思考し得可らざるは、已むを得ない次第である。 故に、神界の密意は霊主体従的の真人にあらざれば、中魂下魂の人間に対し、いかに之を説明するも、容易に受け入るる能はざるは当然である。只人間は己が体内に存する内分に仍つて、自己の何者たるかを能く究めたる者に非ざれば、如何なる書籍をあさる共、如何なる智者の言を聞く共、如何に徹底したる微細なる学理に依る共、自然界を離れ得ざる以上は、容易に霊界の消息を窺ふことは出来ないものである。太古の黄金時代の人間は何事も、皆内的にして、自然界の諸事物は其結果に依つて現はれし事を悟つてゐた。夫れ故直様に大神の内流を受け、能く宇宙の真相を弁へ、一切を神に帰し、神のまにまに生涯を楽み送つたのである。然るに今日は最早白銀、赤銅、黒鉄時代を通過して、世は益々外的となり、今や善もなく真もなき暗黒無明の泥海世界となり、神に背くこと最遠く、何れも人の内分は外部に向ひ、神に反いて、地獄に臨んでゐる。それ故足許の暗黒なる地獄は直に目に付くが、空に輝く光明は之を背に負ふてゐるから、到底神の教を信ずることは出来ないのである。茲に天地の造主なる皇大神は、厳の御霊、瑞の御霊と顕現し玉ひ、地下のみに眼を注ぎ、少しも頭上の光明を悟り得ざりし、人間の眼を転じて、神の光明に向はしめむとして、予言者を通じ、救ひの道を宣べ伝へたまうたのである。 斯の如く地獄に向つて内分の開けてゐる人間を高天原に向はしめたる状態を、天地が覆ると宣らせ玉ふたのである。 要するに忌憚なく言へば、高天原とは大神や天人共の住所なる霊界を指し、霊国とは神の教を伝ふる宣伝使の集まる所を言ひ、又其教を聞く所を天国又は霊国といふのである。而して天国の天人団体に入りし者は、祭祀をのみ事とし、霊国の天人は神の教を伝ふるを以て神聖なる業務となすのである。故に最勝最貴の智慧証覚に仍つて、神教を伝ふる所を第一霊国と云ひ、又最高最妙の愛善と智慧証覚を得たる者の集まる霊場を最高天国といふのである。故に現幽一致と称へるのである。 人間の胸中に高天原を有する時は、其天界は人間が行為の至大なるもの、即ち全般的なるものに現はれるのみならず、其小なるもの即ち個々の行為にも現はるべきものなるを記憶すべきである。故に『道の大原』にも、大精神の体たるや至大無外至小無内とある所以である。抑も人間の人間たる所以は、自己に具有する愛其者にある。自然の主とする所の愛は即ち其人格なりといふ事に基因するものである。何故なれば、各人主とする所の愛は、其想念及行為の最も微細なる所にも流れ入つて之を按配し、至る所に於て、自分と相似せるものを誘出するからである。而して諸々の天界に於ては、大神に対する愛を以て第一の愛とするのである。高天原にては如何なる者も大神の如く愛せらるるものなき故である。故に高天原にては、大神を以て一切中の一切として之を愛し之を尊敬するのである。 大神は全般の上にも、個々の上にも流れ入り玉ひて、之を按配し之を導いて、大神自身の影像を其上に止めさせ玉ふを以て、大神の行きます所には悉く高天原が築かれるのである。故に天人は極めて小さき形式に於ける一個の天界であつて、其団体は之よりも大なる形式を有する天界である。而して諸団体を打つて一丸となせるものは高天原の最大形式をなすものである。 綾の聖地に於ける神の大本は大なる形式を有する高天原であつて、其教を宣伝する聖く正しき愛信の徹底したる各分所支部は、聖地に次ぐ一個の天界の団体であり又、自己の内分に天国を開きたる信徒は、小なる形式の高天原であることは勿論である。故に霊界に於けるすべての団体は、愛善の徳と信真の光と、智慧証覚の度の如何によつて、同気相求むる相応の理に仍り、各宗教に於ける一個の天国団体が形成され、又中有界地獄界が形成されてゐるのも、天界と同様、決して一定のものではない。され共大神は天界中有界地獄界をして一個人と見做し、之を単元として統一し玉ふ故に如何なる団体と雖も、厳の御霊瑞の御霊の神格の中より脱出することは出来ない、又之を他所にして自由の行動を取ることは許されないのである。 高天原の全体を統一して見る時は、一個人に類するものである。故に諸々の天人は其一切を挙げて、一個の人に類する事を知るが故に彼等は高天原を呼んで、大神人といふのである。綾の聖地を以て天地創造の大神の永久に鎮まります最奥天国の中心と覚り得る者は、死後必ず天国の住民となり得る身魂である。故に斯かる天的人間は聖地の安危と盛否を以て、吾身体と見做し、能く神界の為に、愛と信とを捧ぐるものである。 高天原の全体を一の大神人なる単元と悟りし上は、すべての信者は其神人の個体又は肢体の一部なることを知るが故である。霊的及天的事物に関して、右の如き正当なる観念を有せざる者は、右の事物が一個人の形式と影像とに従つて配列せられ和合せらるることを知らない。故に彼等は思ふやう、人間の外分をなせる世間的、自然的事物即ち是人格にして、人は之なくんば人の人たる実を失ふであらうと。故に大神人の一部分たる神の信者たる者が斯の如き自愛心に捉はれて、孤立的生涯を送るに至らば、外面神に従ふ如く見ゆると雖も、其内分は全く神を愛せず、神に反き、自愛の為の信仰にして、所謂虚偽と悪との捕虜となつたものである。斯の如き信仰の情態に在る者は決して神と和合し、天界と和合することは出来ない。恰も中有界の人間が、第一天国に上つて、其方向に迷ひ、一個の天人をも見ることを得ず、胸を苦め、目を眩して喜んで地獄界へ逃行く様なものである。 人間の人間たるは決して世間的物質的事物より成れる人格にあらずして、其能く真を知り、能く善に志す力量あるに仍ることを知るべきである。此等の霊的及び天的事物は即ち人格をなす所以のものである。而して人格の上下は、其人の智性と意思との如何に仍るものである。 大本神諭に……灯台下は真暗がり、結構な地の高天原に引寄せられ乍ら、肉体の欲に霊を曇らせ、折角宝の山に入り乍ら、裸跣足で怪我を致して帰る者が出来るぞよ。これは心に欲と慢心とがあるからであるぞよ。云々……と示されあるを考ふる時は、折角神の救ひの綱に引かれ乍ら、其偽善の度が余り深きため、心の眼開けず、光明赫灼たる大神人のゐます方向さへも、霊的に見ることを得ず、何事もすべて外部的観察を下し、おのが邪悪に充ちたる心より神人の言説や行為を批判せむとする偽善者や盲聾の多いのには大神も非常に迷惑さるる所である。凡て人間は、暗冥無智なる者なることを悟り、至善至美至仁至愛至智至正なる神の力に信従し、維れ命維れ従ふの善徳を積むに非ざれば、到底吾心内に天界を開き、神の光明を認むることは不可能である。吾身内に天国を啓き得ざる者は到底顕界幽界共に安楽なる生涯を送ることは出来ないのは当然である。故に現界にて同じ殿堂に集まり、神を讃美し、神を拝礼し、神の教を聴聞する、其状態を見れば、同じ五六七殿の内に行儀よく整列して居る様に見えてゐる、又物質界より見れば確実に整列してゐるのは、事実である。併し其想念界に入つて能く観察する時は、其霊身は霊国にあるもあり、又天国の団体にあつて聴聞せるもあり拝礼せるもあり、或は中有界に座を占めて聞き居るもあり、又全く神を背にし地獄に向つてゐるのもある。故に此物語を拝聴する人々に仍つて、或は天来の福音とも聞え、神の救ひの言葉とも聞え、或は寄席の落語とも聞え、或は拙劣な浪花節とも感じ、又中有界に彷徨ひたる偽善者の耳には不謹慎なる物語にして、決して神の言葉にあらず、瑞月王仁の滑稽洒脱の思想が映写して、物語となりしものの如く感じ、冷笑侮蔑の念を起し、之に対する者もあり、或は筆録者の放逸不覊の守護神に感じて、口述者の霊が神の言葉と自ら信じ、編纂せしものの如く感ずる者もあり、或は其言を怪乱狂妄悉皆汚穢に充ちたる醜言暴語となして耳を塞ぎ逸早く逃げ帰るものもある。之は霊界に身をおいて、各人が有する団体の位地より神を拝し、且物語を聴く人の状態である。故に此物語は上魂の人には実に救世の福音なれ共、途中の鼻高や下劣なる人間の耳には最も入り難きものである。又無垢なる小児と社会の物質欲に超越したる老人の耳には能く沁み渡り、且理解され易きものである。こは小児と老人は其心無垢の境涯に在つて、最奥の霊国及天国と和合し相応し居るが故である。 (大正一二・一・一六旧一一・一一・三〇松村真澄録)
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霊界物語 63_寅_伊太彦の物語 04 山上訓 第四章山上訓〔一六一一〕 玉国別の一行はスダルマ山の麓にて 伊太彦徒弟に立別れ焦つく如き炎天の 音の名高き急坂を汗をたらたら絞りつつ 迦陵嚬伽の鳴く声に慰められつ登り行く 見渡す限り野も山も緑彩どる夏景色 眺めも飽かず頂上に黄昏ちかき夕の空 漸く辿りつきにけり。 真純『お蔭によつて此急坂を漸く無事に登つて参りました。今夜は月を枕に草の褥、蒼空の蒲団を被つて安けき夢を結びませう。天空快濶一点の暗雲もなく、星は稀に月の光は吾等一行を照らし守らせたまふ有難さ愉快さ、旅をすればこそ、こんな結構な恵の露に霑ふ事が出来るのですなア』 三千『本当に愉快だ。スダルマ山の峠の頂上に月の光を浴びて寝ると云ふ事は、実に爽快の気分に漂はされる。四方の山野は宏く遠く展開し、西南方に当つてスーラヤの湖は鏡の如く月に輝き恰も天国のやうだなア。先生是からは下り阪、今晩は此処で寝む事に致しませうか』 玉国『本当に有難い事だ。此処で一夜の雨宿り、恵の露を浴びて霊肉共に天国に進まう。併し乍ら先づ第一に吾々の務めを果し、神様に感謝の言葉を奏上し、それから悠りと話でも交換して華胥の国に入らうぢやないか』 三千『さう願へば実に有難いです』 と茲に一同は声も高らかに、スダルマ山の谷々の木魂を響かせ天津祝詞を奏上し、終つて蓮の実を懐より出し夜食にかへ四方八方の話に時を移し、且つ歌など詠んで楽しんで居る。 玉国別『大空に輝く月も安々と 傾きたまへば軈て明けなむ。 此景色天津御国か楽園か 何に譬へむ術もなければ』 真純彦『スダルマの山の尾上に来て見れば いよいよ高き月の輝く。 真澄空星はまばらに輝けど 月のみ独り世を知し召す』 三千彦『大空に星はみちけり三五の 月の光も天地にみちぬ。 みちみちし神の御稜威を只一人 頂きにけり三千彦の胸に。 さりながら天津御空に照り渡る 玉国別の恵忘れじ』 治道『三五の神の司と諸共に 伊都のみやこに行くぞ楽しき。 村肝の心に宿る曲神も 逃げ散りにけり月の光に』 デビス姫『師の君の御跡慕ひて背の君と 漸く登りぬ恋の山路を。 見渡せば吾故郷は霞みけり テルモン山の雪のみ見えて』 治道『ベル、バット軍の司は今いづこ 早や泥棒となり果てし彼』 三千彦『吾が寝ねし隙を窺ひ抜足に 近よりバット首を掻かなむ。 心して今宵一夜は眠るべし ベルとバットの曲のありせば』 玉国別『ベル、バット如何に力は強くとも 吾には神の守りありけり。 身の外の仇に心を焦すより 吾身の中の仇を恐れよ』 デビス姫『皇神と吾師の君の在す上は 何か恐れむ露の夜の宿も』 真純彦『いざ来れベルもバットも曲津見も 生言霊に服へて見む。 大空に輝く月の影見れば 吾心根の恥かしくなりぬ』 斯く互に歌ひ終り、蓑を敷き雑談に耽つた。 治道『拙者の部下に使つて居たベル、バット其外の連中が軍隊を放れて猛悪な泥坊となり、四方に放浪して数多の人間を苦しめるのを思へば、早や私は立ても居ても居られないやうな苦しい思ひが致します。どうしても人間は境遇に左右せらるるものと見えますなア。吾々は自分の罪は申すも更なり、部下一同の罪を贖ふために将軍職を廃し、治国別様の御教によりて三五教の教の子となり、比丘となりてビクトル山に根拠を構へ同僚三人と共に交る交る天下を遍歴して居ますが、思へば思へば神様に対し恥かしい事です。かう云ふ部下が出来たのも全く私の罪で厶います』 と述懐を述べ、吐息をついて涙に沈む。玉国別は気の毒さに堪へやらぬ面持にて言葉静かに、 『治道居士様、必ず御心配なさいますな。現在親子の間でも、体は生んでも魂は生みつけぬと云ふ譬が厶います。決して貴方の罪では厶いませぬ。其人々の心の垢によつて種々と迷ふのですよ。吾々人間の精神といふものは、いつも健全なものでは無い。時々一時的の変調異常が起るものでこの異常には五つの型があるやうです。 先づ 第一は利欲に迷ふた時だ。利欲に迷ふた時は誰人も冷静な判断と周密な考慮を失ひ易いものだから、利を以て釣らるる事が多いものだ。たとへば他人の物品を預かつて居るやうな場合にフト「是が自分のもので在つたらなア」と云ふやうな心が浮ぶと、責任観念などが無くなり、それを自分が使つた場合の状態などに眩惑されて自分のものに為たり、また平生から欲しい欲しいと思つて居るものが眼の前にあると前後を考へる暇がなくなつて万引をしたりするやうに成る、これは言ふまでも無く副守先生の発動で、利益のために理智を塞がれ健全なる働きをせないといふ事に原因するものです。 第二の型は、強い強い刺戟に接した時だ。単純な蔭口位ゐ聞いても心を乱さない様な人間でも、面と向つて手酷しく痛罵されると、吾身を忘れて予期しなかつた行為をしたり、また普通の異性に対しては普通の態度が保たれ得る人間が、美しく化粧した異性の誘惑的な嬌態に接すると日頃の平静を破られやすいと云ふ様に同じ刺戟でもその程度によつて精神に異常な影響を与へる事がある。無論是等はその人間の先天的性質や後天的教養によつて程度の差が在ることは云ふまでもないが、副守先生の活動に原因する事が最も多いのである。又異常なる強烈な刺戟が人間の精神を異常ならしむると云ふ事は間違ひの無い事実だ。 第三の型は、焦心したり狼狽した時に起る精神の状態だ。こんな時には精神の活動が安静を欠いで居るので精神的の作業にしても、又肉体的の作業にしても過失や失敗を招き易いものだ。少々許りの失策を隠さうと為たために却て、その失策を大きくしたり、又少々の損失に狼狽した結果、大損失を招くやうな事をした事実は、能く世にあることだ。こんな時には副守先生の最も煩悶を続けて居た際である。 第四の型は、失意の時と得意の時だ。失意の時には精神の能率が減退して因循になり、消極的になつて努力を厭ふやうな傾きになり、得意の時には其反対に精神の能率が増進して快活になり、積極的になつて努力を惜まぬやうになるものです。従つて事業の成功と身体の健康慰安のある時と無い時、名誉を得た時と恥を受けた時とは其精神に及ぼす影響は全く正反対だ。そして精神が極端に沮喪した時は余り消極的になる結果、次第々々に社会生活の敗残者となり、極端に精神を発揚した時は積極に進み過ぎた結果、実力以上に仕事をするやうに成つて冒険的や独断的に走るやうに成るものだ。これも副守先生の活動の結果と云つても良い位なものです。 第五は迷信に陥つた時に起る精神状態だ。不健全なる信仰を持て居る人間は其他の方面の事物に就ては普通の判断を誤ることが無いにも拘らず、信仰の方面になると著しい誤解を来たすものです。従つてそれが難病治癒に関する場合であつても又利欲に関して居る場合であつても、冷静な判断や、前後の考へも廻らす余裕がなくなつて遂に、幼者を誘拐したり、死体を発掘したり、或は七夕の夕に七軒の家から物を盗む様になるのです。以上の外に婦人が妊娠、月経などの生理的原因に基いて、一時的に精神に異常を来すことは言ふまでも無いことです。それだから凡ての人間は狂人の未製品だ予備品だ、と言つたのだ。伊都の教祖や美都の教主而己が突発性狂人では無い。本正副守護神さまの容器たる人間は実に不可思議なものです』 治道『有難う御座います。貴師の御説に由つて拙者も漸く安心致しました。人間と云ふものは実に困つたものですなア』 三千『治道様、貴方も先生のお説で御安心なさつたでせう。私も一寸得心致しました。併し乍ら突張の無い蒼雲の天井の下に寝るのですから、何時頭の上に月が落ちて来て目を醒ますか、ベル、バットがやつて来て、玉を取るか分りますまいが、そこは惟神にまかして寝みませうか。比丘さまは経が大事、拙者は明日が大事だ』 治道『アハヽヽヽ。然らば御免蒙つて寝みませう』 茲に一同はスダルマ山の峠の頂上に、河も無きに白河夜船を漕いで眠つて仕舞つた。一塊の黒雲天の一方に起るよと見るまに忽ち満天に急速力をもつて拡がり、今迄皎々と照り輝いて居た月も星も皆呑んで仕舞つた。かかる所へ峠をスタスタと登つて来た二人の覆面頭巾の男があつた。此男は云ふ迄もなく、ベル、バットの泥棒である。二人は鼾の声を聞きつけ小声になつて、 ベル『オイ、バット、何だか暗がりに、フゴフゴと云つたり、粥を炊くやうにグツグツグツグツと云ふやつがあるぢやないか、こんな所に畚売りも登つて来る筈もなし、お粥を炊く婆も居る道理が無い。一体何だらうな、余りバットせぬぢやないか』 バット『これや、ベル、大きな声でシヤーベルない、バットせないのが俺達の豊年だ。此奴はどうしても人間の鼾だよ。一つそつと枕探しでもやつてボロつたらどうだ。こんなよい機会は又とあるまいぞ』 ベル『枕探しと云つても、こんな山の上に枕をして寝て居る奴も無いぢやないか、探さうと云つても真暗で一寸先も分りやしない。どうしたらよからうかなア』 バット『真暗の中を探すからまつくら探しだ、暗がりに仕事が出来ないやうな泥棒が何になるかい』 治道居士は横になつた儘一目も寝ず、玉国別一行の保護の任に当つて居た。夫故ベル、バットの囁き声を残らず聞いて居る。そんな事とは知らぬ両人は声低に尚も囁きを続けて居る。 バット『オイ、鬼治別将軍も、随分耄碌したものぢやないか。あれだけ権要な地位を放り出して身窄しい比丘となり、昨夜も昨夜とて祠の森に寝て居たぢやないか。いい馬鹿だなア。大方彼奴は発狂したのかも知れないねえ』 ベル『そんな事は云ふだけ野暮だよ。喇叭を法螺貝にかへ三千の部下を棄て、只一人墨染の衣を身に纒ひ殊勝らしく乞食に廻ると云ふのだから大抵極つて居るわ。あいつは治国別と云ふ極道宣伝使に霊をぬかれ、呆けて仕舞つたのだよ』 治道居士は一つ喝かしてやろうと、法螺貝を口に当て、ブウブウと吹き立てた。寝耳に水の法螺の声に二人は驚きドスンと其場に尻餅をつき慄い戦いて居る。治道居士は闇の中から細い作り声をしながら、 『諸行無常是生滅法、生滅滅已寂滅為楽』 と称へてみた。 バット『オイ、ベル彼奴は法螺の化者だ、俺達にわざをしようと思うてあんな事を吐きやがる。一つ此方にも武器があるのぢやから対抗せなくてはなるまい。かう云ふ時には悪事災難除けに大自在天大国彦命様のお助けを蒙るために陀羅尼を称へるに限つて居る』 ベル『泥棒が陀羅尼を称へても神様は聞いて呉れるだらうかなア』 バット『きまつた事だ。是から俺が化物に対抗して見るつもりだ。 イテイメーイテイメーイテイメー イテイメーイテイメーニメー ニメーニメーニメー ニメールヘールヘー ルヘールヘースッヘー スッヘースッヘースッヘー スッヘースヷーハー』 ベル『そりや何と云ふことだい。妙なことを吐くぢやないか。痛いわい痛いわい痛いわいなアんて』 バット『これは陀羅尼品の文言だ。是を義訳すれば、「是に於て斯に於て爾に於て氏に於て極甚に我無く吾無く身も無く所無し倶に同じくす己に興し己に生じ己に成じ而して住し而して立ち亦住す嗟嘆亦非ず消頭大疾加害を得る無し」と謂つて有難い御経だ。大病にも罹らず一切の難を受けないと云ふ呪文だ。今の比丘比丘尼どもは、「いでいび、いでいびん、いでいび、あでいび、いでいび、でび、でび、でび、でび、でび、ろけい、ろけい、ろけい、ろけい、たけい、たけい、たけい、とけい、とけい」と囀つて居るのだ。恰度油蝉が樹上に鳴いて居る様に聞こえるから、サンスクリットで唱えたのだ。アハヽヽヽ』 附記註解 陀羅尼品 経語義訳梵語 伊提履(於是)イテイメー 伊提泯(於斯)イテイメー 伊提履(於爾)イテイメー 阿提履(於氏)イテイメー 伊提履(極甚)イテイメー 泥履(無我)ニメー 泥履(無吾)ニメー 泥履(無身)ニメー 泥履(無所)ニメー 泥履(倶同)ニメー 楼醘(己興)ルヘー 楼醘(己生)ルヘー 楼醘(己成)ルヘー 楼醘(而住)ルヘー 多醘(而立)スッヘー 多醘(亦住)スッヘー 多醘(嗟嘆)スッヘー 兜醘(亦非)スッヘー №兜(消頭大疾無得加害)スッヘースヷハー ○ 法螺貝の声は益々高くなつて来る。玉国別外一同は直に夢を破られバットが称ふる陀羅尼の声を興味をもつて聞いて居た。治道居士頓に大きな声で、 『拙者は月の国ハルナの都に名も高き、バラモン教の神司、大黒主の神の幕下、鬼春別将軍のなれの果、今は三五教の信者治道居士と申す比丘であるぞよ。汝ベル、バットの両人早く心を入れ替へ、神の正道につけ』 と厳かに呼ばはれば、二人何となく其言霊に打たれて、『ハイ』と僅かに云つたきり其場に跼んで仕舞つた。黒雲の帳をやぶつて大空の月はパツと覗かせたまふた。一同の姿は昼の如く見えて来た。 治道『黒雲に包まれたまひし月影も 誠の光あらはしたまひぬ。 ベルバット心の雲を押し除けて 玉の光を研き照らせよ』 と詠みかけた。二人は恐る恐る慄ひ声にて、 バット『村肝の心の闇を照らすため 神の恵の燈火ともさむ。 今迄の深き罪咎赦せかし 元津御霊にかへる吾身を』 ベル『盗みする心は露もなけれども 醜の鬼奴に使はれけるかな。 鬼春別軍の君の御前に 拝む吾を赦させたまへ。 三五の清き教の神司 吾を許せよ神のまにまに』 治道『村肝の心の暗の晴れぬれば その身も明かく清まりぬべし』 玉国別『ベル、バット二人の男子に言告げむ 神は誠の恵なるぞや』 バット『有難し司の君の御言葉に 胸は晴れけり心澄みけり。 吾心バット明るくなりにけり 神の教の燈火に遇ひて』 ベル『大空の月に心を照らされて 心恥かしくなりにけるかな。 今迄は醜の曲霊にさやられて 黒白も分かず踏み迷ひけり』 治道『大空に輝く月の御姿を 心となして世を渡れかし』 三千彦『スダルマの山の尾上に仮寝して 今日はうれしき夢を見しかな』 真純彦『村肝の心の空は真純彦 かかるくもなき今宵の嬉しさ』 デビス姫『あら尊月の恵の輝きて 二人の御子の蘇生りぬる』 斯く話す所へ天空に嚠喨たる音楽聞え、月を笠に被りながら一行が前に雲押し分けて悠々と下りたまうた大神人がある。玉国別一同はこの神姿を見るより忽ち大地に平伏し感涙に咽んで居る。この神人は月の御国の大神に在しまして産土山の神館に跡を垂れたまひし、三千世界の救世主、神素盞嗚の大神であつた。大神は一同の前に四柱の従神と共に輝きたまひ、声も涼しく神訓を垂れたまうた。一同は拝跪して感謝の涙に暮れながら一言も漏らさじと謹聴して居た。 神素盞嗚の大神が山上の神訓 一、無限絶対無始無終に坐しまして霊力体の大元霊と現はれたまふ真の神は只一柱在す而已。之を真の神又は宇宙の主神と云ふ。 汝等、この大神を真の父となし母と為して敬愛し奉るべし。天之御中主大神と奉称し、又大国常立大神と奉称す。 一、厳の御霊日の大神、瑞の御魂月の大神は、主の神即ち大国常立大神の神霊の御顕現にして、高天原の天国にては日の大神と顕はれ給ひ、高天原の霊国にては月の大神と顕はれ給ふ。 一、愛善の徳に住するものは天国に昇り、信真の光徳に住するものは霊国に昇るものぞ。 一、此外天津神八百万坐しませども、皆天使と知るべし。真の神は大国常立大神、又の名は天照皇大神、只一柱坐します而己ぞ。 一、国津神八百万坐しませども皆現界に於ける宣伝使や正しき誠の司と知るべし。 一、真の神は、天之御中主大神只一柱のみ。故に幽の幽と称え奉る。 一、真の神の変現したまひし神を、幽の顕と称へ奉る、天国に於ける日の大神、霊国に於ける月の大神は何れも幽の顕神なり。 一、一旦人の肉体を保ちて霊界に入り給ひし神を顕の幽と称え奉る。大国主之大神及び諸々の天使及び天人の類を云ふ。 一、顕界に肉体を保ちて、神の大道を伝え、又現界諸種の事業を司宰する人間を称して顕の顕神と称へ奉る。 而して真に敬愛し尊敬し依信すべき根本の大神は幽の幽に坐します一柱の大神而已。其他の八百万の神々は、主神の命に依りて各その神務を分掌し給ふものぞ。 一、愛善の徳に住し信真の光に住し、神を愛し神を信じ神の為に尽すものは天界の住民となり、悪と虚偽とに浸りて魂を曇らすものは地獄に自ら堕落するものぞ。 斯く宣り終へたまひて以前の従神を率ゐて紫の雲に乗り大空高く月と共に昇らせたまふた。 玉国別『素盞嗚の瑞の御霊の御恵に 教の泉湧き出でにけり。 昔よりためしも聞かぬ御教を 居ながらに聞く事の尊さ』 治道『水火の中をかい潜り求ぎて往くべき道芝の 恵の露に濡れながらスダルマ山の頂上に 聞くも嬉しき御教あゝ惟神々々 神の恵を赤心に留めて感謝し奉る』 三千彦『大空ゆ瑞の御霊の下りまして 生命の清水与へたまひぬ』 デビス『夜の露うけて寝らう身の上に 注がせたまひし恵の御露』 真純彦『大空の雲押し分けて輝きつ 真澄の水の教を賜ひぬ』 治道『あら尊誠の神の御姿に 謁見まつりし吾ぞ嬉しき』 ベル『村肝の心の闇の晴れ往きて 誠の神の光に遇ひぬ』 バット『限りなき神の恵を悟りけり 悔改めて正道に入らむ』 茲にベル、バットの両人は心の底より悔改め、玉国別一行に従ひて聖地エルサレムを指して進む事となつた。あゝ惟神霊幸倍坐世。 (大正一二・五・一八旧四・三於教主殿二階加藤明子録)