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書籍 内容
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(181)
ひふみ神示 6_日月の巻 第8帖 ツギ、ウマシアシカビヒコヂノカミ、ミコトトナリナリテ アレイデタマイキ。瓜の蔓に茄子ならすでないぞ。茄子には茄子と申してあろがな。味噌も糞も一つにするでないぞ。皆がそれぞれに息する道あろがな。野見よ森見よ。神の経済よく見よ。神の政治よく見て、まことの政治つかへて呉れよ。すべてにまつろう事と申してあろがな。上に立つ番頭殿目開いて下されよ。間に合はん事出来ても神は知らんぞ。神急けるぞ。役員も気配れよ。旧九月八日、ひつ九のか三。
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(283)
ひふみ神示 10_水の巻 第9帖 富士は晴れたり日本晴れ、いよいよ岩戸開けるぞ。お山開きまこと結構。松の国松の御代となるぞ。旧九月八日から大祓ひのりとに天津祝詞の太のりと一二三のりとコト入れてのれよ。忘れずにのれよ。その日からいよいよ神は神、けものはけものとなるぞ。江戸道場やめるでないぞ、お山へ移してよいぞ、役員一度やめてよいぞ。またつとめてよいぞ。めぐりあるから心配あるのぞ。めぐり無くなれば心配なくなるぞ。心配ないのが富士は晴れたりぞ、富士晴れ結構ぞ。日津久の御民何時も富士晴れ心でおりて下されよ。肉体ちっとの間であるが、魂は限りなく栄へるのざぞ。金に難渋して負けぬ様にして下されよ。金馬鹿にしてはならんぞ。あせるでないぞ。あせると心配事出来るぞ。神が仕組みてあること、臣民がしようとて出来はせんぞ。細工はりうりう滅多に間違ひないのざぞ。見物して御座れ、見事して見せるぞ。不和の家、不調和の国のささげもの神は要らんぞ。喜びの捧げもの米一粒でもよいぞ。神はうれしいぞ。旧九月八日とどめぞ。六月二日、みづのひつ九のか三。
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(294)
ひふみ神示 11_松の巻 第3帖 神烈しく、人民静かにせよ。云ふた事必ず行はねばならんぞ。天から声あるぞ、地から声あるぞ。身魂磨けばよくわかるのざぞ。旧九月八日までにきれいに掃除しておけよ。残る心獣ぞ。神とならば、食ふ事も着る事も住む家も心配なくなるぞ。日本晴れとはその事ざぞ。六月十九日、あめのひつ九のかみ。
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(312)
ひふみ神示 11_松の巻 第21帖 旧九月八日からの祝詞は初めに、ひとふたみ唱え、終りに百千卍宣れよ。お神山作る時は、何方からでも拝める様にしておけよ。一方から拝むだけの宮は我れよしの宮ぞ。何もかも変へて仕舞ふと申してあろうが。神徳貰へば何事も判りて来るのざぞ。要らんもの灰にするのざぞ。息乱れん様にせよ。七月七日、アメのひつくのかみ。
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(323)
ひふみ神示 12_夜明けの巻 第3帖 天の異変気付けと申してあろが、冬の次が春とは限らんと申してあろが。夏雪降ることもあるのざぞ。神が降らすのでないぞ、人民降らすのざぞ。人民の邪気が凝りて、天にも地にも、わけの判らん虫わくぞ。訳の判らん病ひどくなって来るのざから、書かしてある御神名分けて取らせよ。旧九月八日までに何もかも始末しておけよ。心引かれる事残しておくと、詰らん事で詰らん事になるぞ。もう待たれんことにギリギリになってゐる事判るであろがな。七月二十四日の神示、あめのひつぐの神。
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(407)
ひふみ神示 19_まつりの巻 第3帖 旧九月八日からの誓の言葉知らすぞ。 五三体の大神様五三体の大神様、 天之日月の大神様、 雨の神様、 風の神様、 岩の神様、 荒の神様、 地震の神様、 地の日月の大神様、 世の元からの生神様、 百々の神様の大前に、 日々弥栄の大息吹、御守護弥栄に御礼申し上げます。この度の三千世界の御神業、弥が上にも、千万弥栄の御働き祈り上げます。三千世界の神々様、臣民人民一時も早く改心いたし大神様の御心に添ひ奉り、地の日月の神と成りなりて、全き務め果たします様何卒御守護願ひ上げます。そがためこの身この霊はいか様にでも御使ひ下さいませ、何卒三千世界の神々様、臣民人民が知らず知らずに犯しました罪、穢、過は、神直日大直日に見直し聞き直し下さいます様、特にお願ひ申し上げます。元つ神えみためえみため。八月十日、一二
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(412)
ひふみ神示 19_まつりの巻 第8帖 旧九月八日で一切りぢゃ、これで一の御用は済みたぞ、八分通りは落第ぢゃぞ、次の御用改めて致さすから、今度は落第せん様心得なされよ。何も彼も神は見通しざぞ、神の仕組人民でおくれん様気付けて結構致し下されよ、二の仕組、御用は集団作りてよいぞ。大奥山はそのままにしておかなならんぞ、天明まだまだ神示の御用結構ぞ、アホ結構ぞ、リコウ出るとこわれるぞ。天明ばかりでないぞ、皆同様ぞ、皆リコウになったものぢゃナア、クドウ神にもの申さすでないぞ。八月十五日、一二
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(418)
ひふみ神示 19_まつりの巻 第14帖 旧九月八日から、まつり、礼拝、すっくり変へさすぞ、神代までにはまだまだ変るのぢゃぞ。祓は祓清めの神様にお願いして北、東、南、西、の順に柏手四つづつ打ちて祓ひ下されよ。神国の乱れ、こえキから。世界の戦争、天災、皆人民の心からなり。人民一人に一柱づつの守護神つけあるぞ、日本真中、ボタン一つで世界動くぞ。八月十九日、一二
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(419)
ひふみ神示 19_まつりの巻 第15帖 旧九月八日からの当分の礼拝の仕方書き知らすぞ、 大神様には、先づ神前に向って静座し、しばし目つむり、気しづめ、 一揖、 一拝二拝八拍手、 数歌三回、 終りてひふみ三回のりあげ、 天の日月の大神様、弥栄ましませ、弥栄ましませ、 地の日月の大神様、弥栄ましませ、弥栄ましませとのりあげ、 終って誓の言葉ちかへよ。終りて神のキ頂けよ、三回でよいぞ、 終りて八拍手、一拝、二拝、一揖せよ、 次に神々様には一揖、一拝二拝四拍手、 数歌三回のりて、 百々諸々の神様弥栄ましませ弥栄ましませ、と、宣りあげ、 終りてちかひの言葉ちかへよ。終りて四拍手、二拝一揖せよ。 霊の宮には一揖一拝二拍手、 数歌一回、 弥栄ましませ弥栄ましませと宣り、 二拍手、一拝一揖せよ、 各々の霊様には後でミタマのりとするもよいぞ。八月二十日、一二の
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(422)
ひふみ神示 19_まつりの巻 第18帖 何の身魂も我の強い身魂ばかり、よく集まったものぢゃと思ふであろが、その我の強い者がお互に我を折りて、解け合って物事成就するのぢゃぞ。旧九月八日迄にすっくりとまつりかへてくれよ。 真中に 御三体の大神様、 天之日月の大神々様、 地の日月の大神々様、 雨の神様、 風の神様、 岩の神様、 荒の神様、 地震の神様、弥栄祀り結構ぞ、 其の左に 仏の神様、 基の神様、 マホメットの神様、 世の元からの生神様、 百々の神様、 産土様、よきにまつり結構致し呉れよ、 その右に 地の日月の神々様、 霊の諸々の神様厚く祀り呉れよ。 八月二十九日、一二
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(486)
ひふみ神示 22_青葉の巻 第17帖 悪く云はれるとめぐり取って貰へるぞ、悪く云ふとめぐりつくるのぢゃ。今度の建替へは人間智恵の建替へとは大分違ふ大層ざぞ、見当とれんのざぞ、日の神ばかりでは世は持ちては行かれんなり、月の神ばかりでもならず、そこで月の神、日の神が御一体となりなされてミロク様となりなされるなり、日月の神と現はれなさるなり。みろく様が日月の大神様なり、日月の大神様がみろくの大神様なり、千の御先祖様九二の御先祖様と御一体となりなされて大日月の大神様と現はれなさるなり、旧九月八日からは大日月の大神様とおろがみまつれよ。八月五日、一二
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(650)
ひふみ神示 26_黒金の巻 第32帖 祈りとは意が乗ることぞ。霊の霊と霊と体と合流して一つの生命となることぞ。実力であるぞ。想念は魂。魂は霊であり、霊の世界に属し、霊に生きるのであるぞ。ものは霊につけられたもの、霊の霊は、霊につけられたものであるぞ。ものにはものの生命しかない。真の生命は霊であるぞ。生命のもとの喜びは霊の霊であるぞ。霊の霊が主ざと申してあらう。奥の奥の奥のは大神に通ずる であるぞ。喜びであるぞ。ある為に人間となり、人間なるが故に神となり、神なるが故に喜びであるぞ。他のいきものにも はあれど、外のであるぞ。旧九月八日
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(651)
ひふみ神示 26_黒金の巻 第33帖 神がうつらぬと申してゐるが、心をやはらかくしてマカセ切れば刻まれるぞ。平かにすれば正しく写り、凸凹すれば曲ってうつる。神の前に固くなってはならぬ。人間は肉体をもってゐる間でも、その霊は、霊の国に住んで居り、霊の霊は、霊の霊の世界に住んでゐるのであるぞ。この道理よくわきまへよ。愛は脈うってゐるぞ。真は呼吸してゐるぞ。肉体にあっては肺臓は呼吸し、心臓は脈うつ、この二つが一つであって、肉体を生命する。喜びと三つが一つであるのぞ。霊にあっては霊の心臓、霊の肺臓、よろこびあるぞ。旧九月八日
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ひふみ神示 26_黒金の巻 第34帖 祈りは弥栄であり、限りない生活であるぞ。生命のイキであるぞ。祈りから総てのもの生れるぞ。誠の喜びの祈りからはが生命し、かげの祈りからはが生命するぞ。人祈れば神祈り、人為せば神なる道理ぢゃ。禁慾は神の御旨でないぞ。慾を浄化して、生めよ。産めよ。今の人民、慾の聖化を忘れて御座るぞ。慾は無限に拡がり、次々に新しきもの生み出すぞ。慾を導けよ。自分だけならば五尺の身体、五十年の生命であるが、霊を知り、宇宙の意志を知り、神にとけ入ったならば、無限大の身体、無限の生命となるぞ。マコトの嬉し嬉しのよろこびとなるのであるぞ。旧九月八日
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(653)
ひふみ神示 26_黒金の巻 第35帖 キが到ればモノが到る。モノを求める前にキを求めよ。めあてなしに歩いたとて、くたびれもうけばかり。人生のめあて、行く先の見当つけずに、その日暮しの、われよしの世となり下がってゐるぞ。めあてはでないか。に向かないでウロウロ。草木より、なり下がってゐるでないか。為すとはイノること。人の為にイノるは、己の為にイノること。今の人民、イノり足らん。旧九月八日
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(654)
ひふみ神示 26_黒金の巻 第36帖 天界に行く門は輝き、幽界に行く門は闇であるぞ。闇の門はとざされ、光の門は開かれてゐるぞ。天界は昇り易く、幽界にはおちにくいぞ。神と金と二つに仕へることは出来ん、そのどちらかに仕へねばならんと、今迄は説かしてゐたのであるが、それは段階の低い信仰であるぞ。影しか判らんから、時節が来て居らんから、さう説かしてゐたのであるが、この度、時節到来したので、マコトの道理説いてきかすのぢゃ。神と金と共に仕へまつるとは、肉と霊と共に栄えて嬉し嬉しとなることぞ。嬉し嬉しとはそのことであるぞ。神と金と二つとも得ること嬉しいであろうがな。その次には霊の霊とも共に仕へまつれよ。まつれるのであるぞ。これが、まことの正しき理であるぞ。今迄の信仰は何処かにさびしき、もの足りなさかあったであらうが。片親がなかったからぞ。天に仕へるか、地に仕へるかであったからぞ。この道はアメツチの道ざと知らしてあらうがな。清くして富むのがまことぢゃ。地に富まねばならんのぢゃと申してあらうが。これから先は金もうけばかりも出来ん。今迄のやうな神信心ばかりも出来ん。神の理を進むものは嫌でも金がたまるのぢゃ。金がたまらねば深く省みよ。理に外れて御座るぞ。人は罪の子でない、喜びの子ぞ。 旧九月八日
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(655)
ひふみ神示 26_黒金の巻 第37帖 宇宙は人間の心のままと申してあらうが。宇宙は未完成のものと申してあらうが。永遠に未完成であり、弥栄であるぞ。そこに生命あり、喜びあるのぢゃ。大神の中で、宇宙はなりなりてゐるのであるから、ナリ、永遠になるのであるぞ。不変の中に千変万化、自由自在の存在を与へてあるのぢゃ。旧九月八日
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(656)
ひふみ神示 26_黒金の巻 第38帖 人間の死後、自分の命の最も相応しい状態におかれるのであるそ。悪好きなら悪の、善好きなら善の状態におかれるのであるぞ。皆々、極楽行きぢゃ。極楽にもピンからキリまであるぞ。神の旨に添ふ極楽を天国と云ひ、添はぬ極楽を幽界と申すのぢゃ。心の世界を整理せよ。そこには無限のものが、無限にあるのであるぞ。神の理が判れば、判っただけ自分がわかる。めでたさの九月八日の九のしぐみ、とけて流れて世界一つぢゃ。白銀、鉄、これで終り。旧九月八日
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(1050)
霊界物語 02_丑_常世姫の陰謀/シオン山攻防戦 序 本書は王仁が明治三十一年旧如月九日より、同月十五日にいたる前後一週間の荒行を神界より命ぜられ、帰宅後また一週間床縛りの修業を命ぜられ、その間に王仁の霊魂は霊界に遊び、種々幽界神界の消息を実見せしめられたる物語であります。すべて霊界にては時間空間を超越し、遠近大小明暗の区別なく、古今東西の霊界の出来事はいづれも平面的に霊眼に映じますので、その糸口を見付け、なるべく読者の了解し易からむことを主眼として口述いたしました。 霊界の消息に通ぜざる人士は、私の『霊界物語』を読んで、子供だましのおとぎ話と笑はれるでせう。ドンキホーテ式の滑稽な物語と嘲る方もありませう。中には一篇の夢物語として顧みない方もあるでせう。また偶意的教訓談と思ふ方もありませう。しかし私は何と批判されてもよろしい。要は一度でも読んでいただきまして、霊界の一部の消息を窺ひ、神々の活動を幾分なりと了解して下されば、それで私の口述の目的は達するのであります。 本書の述ぶるところは概してシオン山攻撃の神戦であつて、国祖の大神が天地の律法を制定したまひ、第一に稚桜姫命の天則違反の罪を犯し幽界に神退ひに退はれたまへる、経緯を述べたのであります。本書を信用されない方は、一つのおとぎ話か拙い小説として読んで下さい。これを読んで幾分なりとも、精神上の立替立直しのできる方々があれば、王仁としては望外の幸であります。 『三千世界一度に開く梅の花。艮の金神の世になりたぞよ。須弥仙山に腰を掛け、鬼門の金神、守るぞよ』との神示は、神世開基の身魂ともいふべき教祖に帰神された最初の艮の金神様が、救世のための一大獅子吼であつた。アゝ何たる雄大にして、荘厳なる神言でありませうか。『三千世界一度に開く』とは、宇宙万有一切の物に活生命を与へ、世界のあらゆる生物に、安心立命の神鍵を授けたまへる一大慈言でありますまいか。 口述者はいつも此の神言を読む度ごとに、無限絶対、無始無終の大原因神の洪大なる御経綸と、その抱負の雄偉にして、なんとなく吾人が心の海面に、真如の月の光り輝き、慈悲の太陽の宇内を一斉に公平に照臨したまひ、万界の暗を晴らしたまふやうな心持になるのであります。 そして、『三千世界一度に開く』と宇宙の経綸を竪に、しかと完全に言ひ表はし、句の終りにいたつて『梅の花』とつづめたるところ、あたかも白扇を拡げて涼風を起し、梅の花の小さき要をもつて之を統一したる、至大無外、至小無内の神権発動の真相を説明したまひしところ、到底智者、学者などの企て及ぶべきところではない。 またその次に『須弥仙山に腰をかけ、艮の金神守るぞよ』との神示がある。アゝこれまたなんたる偉大なる神格の表現であらうか。なんたる大名文であらうか。到底人心小智の企及すべきところではない。そのほか、大神の帰神の産物としては、三千世界いはゆる神界、幽界、現界にたいし、神祇はさらなり、諸仏、各人類にいたるまで大慈の神心をもつて警告を与へ、将来を顕示して、懇切いたらざるはなく、実に古今にその類例を絶つてゐる。 かかる尊き大神の神示は、俗人の容易に解し難きはむしろ当然の理にして、したがつて誤解を生じ易きところ、口述者は常にこれを患ひ、おほけなくも神諭の一端をも解釈をほどこし、大神の大御心の、那辺に存するやを明らかに示したく、思ひ煩ふことほとんど前後二十三年間の久しきにわたつた。されど神界にては、その発表を許したまはざりしため、今日まで御神諭の文章の意義については、一言半句も説明したことは無かつたのであります。 しかるに本年の旧九月八日にいたつて、突然神命は口述者の身魂に降り、いよいよ明治三十一年の如月に、『神より開示しおきたる霊界の消息を発表せよ』との神教に接しましたので、二十四年間わが胸中に蓄蔵せる霊界の物語を発表する決心を定めました。しかるに口述者は、本春以来眼を病み、頭脳を痛めてより、執筆の自由を有せず、かつ強て執筆せむとすれば、たちまち眼と頭部に痛苦を覚え如何ともすること能はず、殆んどその取扱ひについて非常に心神を悩めてゐたのであります。その神教降下ありて後、十日を過ぎし十八日の朝にいたり、神教ありて『汝は執筆するを要せず、神は汝の口を藉りて口述すべければ、外山豊二、加藤明子、桜井重雄、谷口正治の四人を招き、汝の口より出づるところの神言を筆録せしめよ』とのことでありました。 そこで自分はいよいよ意を決し、並松の松雲閣に隠棲して霊媒者となり、神示を口伝へすることになつたのであります。二十四年間心に秘めたる霊界の消息も、いよいよ開く時津風、三千世界の梅の花、薫る常磐の松の代の、神の経綸の開け口、開いた口が閉まらぬやうな、不思議な物語り、夢かうつつか幻か、神のしらせか、白瀬川、下は音無瀬由良の川、和知川、上林川の清流静かに流れ、その中央の小雲川、並木の老松川の辺に影を浸して立ならぶ、流れも清く、風清く、本宮山の麓なる、並松に、新に建ちし松雲閣書斎の間にて五人連れ、口から語る、筆を執る、五人が活気凛々として、神示のままを口述発表することとなつたのであります。 大正十年十一月旧十月九日 於松雲閣瑞月出口王仁三郎誌
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(1325)
霊界物語 07_午_日の出神のアフリカ物語 総説 総説 神界の示教は、到底現代人のごとく、数理的頭脳の活力を以て窺知することは出来ないものである。神は言霊即ち道である。言葉を主として解すべきものである。神諭の三月三日五月五日の数字についても、現代の物質かぶれをした人士は、非常な論議の花を咲かして居られるさうです。出口教祖の直筆の文句には『明治三十年で世の立替云々』と、明治三十三年ごろになつても、依然として記されてあるのを見ても、神界の示教の現代的解釈に合致せないことは明瞭であります。 また教祖の直筆は所謂お筆先であり、そのお筆先を神示に随つて、取捨按配して発表したのが大本神諭である。之を経の筆先と称して、変性女子の緯の筆先と区別し、経は信ずるが、緯は信じないと謂つてゐる人々が、処々に散見される様ですが、経緯不二の真相を知らんと思へば、教祖の直筆をお読みに成つたら判然するでせう。お筆先そのままの発表は、随分断片的に語句が列べられ、かつ一見して矛盾撞着せし文句があるやうに浅い信者は採るやうなことが沢山ある。また教祖が明治二十五年より、大正五年旧九月八日まで筆先を書かれたのは、全部御修行時代の産物であり、矛盾のあることは、教祖自筆の同年九月九日の御筆先を見れば判然します。 変性女子のやり方について、今日まで誤解して居たといふ意味を書いて居られる。その未成品の御筆先しかも変性女子みづから取捨按配した神諭を見て、かれこれ批評するのは、批評する人が根本の緯緯を知らないからの誤りであります。私はもはや止むに止まれない場合に立到つたので、露骨に事実を告白しておきます。要するに教祖は、明治二十五年より大正五年まで前後二十五年間、未見真実の境遇にありて神務に奉仕し、神政成就の基本的神業の先駆を勤められたのである。女子は入道は明治三十一年であるが、未見真実の神業は、同三十三年まで全二ケ年間で、その後は見真実の神業である。霊的に言ふならば教祖よりも十八年魁けて、見真実の境域に進ンでゐたのは、お筆先の直筆を熟読さるれば判りませう。 三千年と五十一年、三四月、八九月、正月三日、三月三日、五月五日なぞの数字に囚はれてゐた、いはゆる○○派、○○派の説明に誤られてはならぬ。五十一年の五は、厳の意味であり、十は火水[※「火水」は御校正本にルビなし]、または神の意、一年は始めの年の意味である。要するに三千年(無限の年数)の間の、大神の御艱苦が出現して、神徳の発揮さるる最初の年が、明治二十五年正月からと云ふ意義である。九月八日の九はツクシであり、月はミロクであり、八は開く、日は輝くの意味で、梅で開いて松で治めるといふ意義である。九月とは松で治める意義、八日とは梅で開く意義である。また正月三日の正は、一と止と合した意味であり、月は月光、三は瑞または栄え、日は輝くことで、神徳の完全に発揮されることを、正月三日といふのである。故に神諭の解釈は容易にできない。また筆先と神諭の区別も弁へて読ンで貰はねばなりませぬ。 この霊界物語も、人智を以て判断することは出来ませぬ。たとへ編輯人、筆録者の解説といへども、肯定しては成りませぬ。ただ単に文句のまま、素直に読むのが、第一安全でありますから、一寸書加へておきます。 大正十一年瑞月祥日 於瑞祥閣王仁識