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霊界物語 49_子_祠の森の物語1(高姫と妖幻坊) 01 地上天国 第一章地上天国〔一二七五〕 天地万有一切を愛の善と信の真に基いて、創造し玉ひし皇大神を奉斎したる宮殿の御舎を、地上の天国と云ふ。而して大神の仁慈と智慧の教を宣べ伝ふる聖場を霊国といふ。故に大本神諭にも、綾の聖地を地の高天原と名付けられたのである。 天国とは決して人間の想像する如き、宙空の世界ではない。大空に照り輝く日月星辰も皆地球を中心とし、根拠として創造されたものである以上は、所謂吾人の住居する大地は霊国天国でなければならぬ。人間は其肉体を地上において発育せしめ、且其精霊をも馴化し、薫陶し、発育せしむべきものである。而して高天原の真の密意を究むるならば最奥第一の天国も亦中間天国、下層天国も、霊国もすべて地上に実在する事は勿論である。只形体を脱出したる人の本体即ち精霊の住居する世界を霊界と云ひ、物質的形体を有する人間の住む所を現界といふに過ぎない。故に人間は一方に高天原を蔵すると共に一方に地獄を包有してゐるのである。而して霊界、現界即ち自然界の間に介在して、其精霊は善にもあらず、悪にもあらず、所謂中有界に居を定めてゐるものである。 すべての人間は、高天原に向上して霊的又は天的天人とならむが為に、神の造り玉ひしもので、大神よりする善の徳を具有する者は、即ち人間であつて、又天人なるべきものである。要するに天人とは、人間の至粋至純なる霊身にして、人間とは、天界地獄両方面に介在する一種の機関である。人間の天人と同様に有してゐるものは、其内分の斉しく天界の影像なることと、愛と信の徳に在る限り、人間は所謂高天原の小天国である。而して人間は天人の有せざる外分なるものを持つてゐる。其外分とは世間的影像である。人は神の善徳に住する限り、世間即ち自然的外分をして、天界の内分に隷属せしめ、天界の制役するままならしむる時は、大神は御自身が高天原にいます如くに其人間の内分に臨ませ玉ふ。故に大神は人間が天界的生涯の内にも、世間的生涯の中にも、現在し玉ふのである。故に神的順序ある所には必ず大神の御霊ましまさぬことはない。凡て神は順序にましますからである。此神的順序に逆らふ者は決して生き乍ら天人たることを得ないのである。 教祖の神諭に……十里四方は宮の内……と示されてあるのは、神界に於ける里数にして、至善至美至信至愛の大神のまします、最奥第一の天国たる神の御舎は殆ど想念の世界よりは、人間界の一百方里位に広いといふ意味である。吾々人間の目にて僅かに一坪か二坪位な神社の内陣や外陣も、神界即ち想念界の徳の延長に依つて、十里四方或は数百里数千里の天国となるのである。福知舞鶴外囲ひと云うてあるのは、所謂綾の聖地に接近せる地名を仮つて、現界人に分り易く示されたものであつて、決して現界的地名に特別の関係がある訳ではない。只小さき宮殿(人間の目より見て)の中でも……即ち宮の内でも神の愛と神の信に触れ、智慧証覚の全き者は、右の如く想念の延長に仍つて、際限もなく、聖く麗しく、且広く高く見得るものである。すべて自然界の事物を基礎として考ふる時は斯の如き説は実に空想に等しきものの如く見ゆるは当然である。併し乍ら霊的事物の目より考ふれば、決して不思議でも、不合理でもない。霊的事象の如何なるものなるかを、能く究め得るならば、遂に其真相を掴むことが出来るのである。併し自然界の法則に従つて肉体を保ち、且肉の目を以て見ることを得ざる霊界の消息は到底大神の直接内流を受入るるに非ざれば、容易に思考し得可らざるは、已むを得ない次第である。 故に、神界の密意は霊主体従的の真人にあらざれば、中魂下魂の人間に対し、いかに之を説明するも、容易に受け入るる能はざるは当然である。只人間は己が体内に存する内分に仍つて、自己の何者たるかを能く究めたる者に非ざれば、如何なる書籍をあさる共、如何なる智者の言を聞く共、如何に徹底したる微細なる学理に依る共、自然界を離れ得ざる以上は、容易に霊界の消息を窺ふことは出来ないものである。太古の黄金時代の人間は何事も、皆内的にして、自然界の諸事物は其結果に依つて現はれし事を悟つてゐた。夫れ故直様に大神の内流を受け、能く宇宙の真相を弁へ、一切を神に帰し、神のまにまに生涯を楽み送つたのである。然るに今日は最早白銀、赤銅、黒鉄時代を通過して、世は益々外的となり、今や善もなく真もなき暗黒無明の泥海世界となり、神に背くこと最遠く、何れも人の内分は外部に向ひ、神に反いて、地獄に臨んでゐる。それ故足許の暗黒なる地獄は直に目に付くが、空に輝く光明は之を背に負ふてゐるから、到底神の教を信ずることは出来ないのである。茲に天地の造主なる皇大神は、厳の御霊、瑞の御霊と顕現し玉ひ、地下のみに眼を注ぎ、少しも頭上の光明を悟り得ざりし、人間の眼を転じて、神の光明に向はしめむとして、予言者を通じ、救ひの道を宣べ伝へたまうたのである。 斯の如く地獄に向つて内分の開けてゐる人間を高天原に向はしめたる状態を、天地が覆ると宣らせ玉ふたのである。 要するに忌憚なく言へば、高天原とは大神や天人共の住所なる霊界を指し、霊国とは神の教を伝ふる宣伝使の集まる所を言ひ、又其教を聞く所を天国又は霊国といふのである。而して天国の天人団体に入りし者は、祭祀をのみ事とし、霊国の天人は神の教を伝ふるを以て神聖なる業務となすのである。故に最勝最貴の智慧証覚に仍つて、神教を伝ふる所を第一霊国と云ひ、又最高最妙の愛善と智慧証覚を得たる者の集まる霊場を最高天国といふのである。故に現幽一致と称へるのである。 人間の胸中に高天原を有する時は、其天界は人間が行為の至大なるもの、即ち全般的なるものに現はれるのみならず、其小なるもの即ち個々の行為にも現はるべきものなるを記憶すべきである。故に『道の大原』にも、大精神の体たるや至大無外至小無内とある所以である。抑も人間の人間たる所以は、自己に具有する愛其者にある。自然の主とする所の愛は即ち其人格なりといふ事に基因するものである。何故なれば、各人主とする所の愛は、其想念及行為の最も微細なる所にも流れ入つて之を按配し、至る所に於て、自分と相似せるものを誘出するからである。而して諸々の天界に於ては、大神に対する愛を以て第一の愛とするのである。高天原にては如何なる者も大神の如く愛せらるるものなき故である。故に高天原にては、大神を以て一切中の一切として之を愛し之を尊敬するのである。 大神は全般の上にも、個々の上にも流れ入り玉ひて、之を按配し之を導いて、大神自身の影像を其上に止めさせ玉ふを以て、大神の行きます所には悉く高天原が築かれるのである。故に天人は極めて小さき形式に於ける一個の天界であつて、其団体は之よりも大なる形式を有する天界である。而して諸団体を打つて一丸となせるものは高天原の最大形式をなすものである。 綾の聖地に於ける神の大本は大なる形式を有する高天原であつて、其教を宣伝する聖く正しき愛信の徹底したる各分所支部は、聖地に次ぐ一個の天界の団体であり又、自己の内分に天国を開きたる信徒は、小なる形式の高天原であることは勿論である。故に霊界に於けるすべての団体は、愛善の徳と信真の光と、智慧証覚の度の如何によつて、同気相求むる相応の理に仍り、各宗教に於ける一個の天国団体が形成され、又中有界地獄界が形成されてゐるのも、天界と同様、決して一定のものではない。され共大神は天界中有界地獄界をして一個人と見做し、之を単元として統一し玉ふ故に如何なる団体と雖も、厳の御霊瑞の御霊の神格の中より脱出することは出来ない、又之を他所にして自由の行動を取ることは許されないのである。 高天原の全体を統一して見る時は、一個人に類するものである。故に諸々の天人は其一切を挙げて、一個の人に類する事を知るが故に彼等は高天原を呼んで、大神人といふのである。綾の聖地を以て天地創造の大神の永久に鎮まります最奥天国の中心と覚り得る者は、死後必ず天国の住民となり得る身魂である。故に斯かる天的人間は聖地の安危と盛否を以て、吾身体と見做し、能く神界の為に、愛と信とを捧ぐるものである。 高天原の全体を一の大神人なる単元と悟りし上は、すべての信者は其神人の個体又は肢体の一部なることを知るが故である。霊的及天的事物に関して、右の如き正当なる観念を有せざる者は、右の事物が一個人の形式と影像とに従つて配列せられ和合せらるることを知らない。故に彼等は思ふやう、人間の外分をなせる世間的、自然的事物即ち是人格にして、人は之なくんば人の人たる実を失ふであらうと。故に大神人の一部分たる神の信者たる者が斯の如き自愛心に捉はれて、孤立的生涯を送るに至らば、外面神に従ふ如く見ゆると雖も、其内分は全く神を愛せず、神に反き、自愛の為の信仰にして、所謂虚偽と悪との捕虜となつたものである。斯の如き信仰の情態に在る者は決して神と和合し、天界と和合することは出来ない。恰も中有界の人間が、第一天国に上つて、其方向に迷ひ、一個の天人をも見ることを得ず、胸を苦め、目を眩して喜んで地獄界へ逃行く様なものである。 人間の人間たるは決して世間的物質的事物より成れる人格にあらずして、其能く真を知り、能く善に志す力量あるに仍ることを知るべきである。此等の霊的及び天的事物は即ち人格をなす所以のものである。而して人格の上下は、其人の智性と意思との如何に仍るものである。 大本神諭に……灯台下は真暗がり、結構な地の高天原に引寄せられ乍ら、肉体の欲に霊を曇らせ、折角宝の山に入り乍ら、裸跣足で怪我を致して帰る者が出来るぞよ。これは心に欲と慢心とがあるからであるぞよ。云々……と示されあるを考ふる時は、折角神の救ひの綱に引かれ乍ら、其偽善の度が余り深きため、心の眼開けず、光明赫灼たる大神人のゐます方向さへも、霊的に見ることを得ず、何事もすべて外部的観察を下し、おのが邪悪に充ちたる心より神人の言説や行為を批判せむとする偽善者や盲聾の多いのには大神も非常に迷惑さるる所である。凡て人間は、暗冥無智なる者なることを悟り、至善至美至仁至愛至智至正なる神の力に信従し、維れ命維れ従ふの善徳を積むに非ざれば、到底吾心内に天界を開き、神の光明を認むることは不可能である。吾身内に天国を啓き得ざる者は到底顕界幽界共に安楽なる生涯を送ることは出来ないのは当然である。故に現界にて同じ殿堂に集まり、神を讃美し、神を拝礼し、神の教を聴聞する、其状態を見れば、同じ五六七殿の内に行儀よく整列して居る様に見えてゐる、又物質界より見れば確実に整列してゐるのは、事実である。併し其想念界に入つて能く観察する時は、其霊身は霊国にあるもあり、又天国の団体にあつて聴聞せるもあり拝礼せるもあり、或は中有界に座を占めて聞き居るもあり、又全く神を背にし地獄に向つてゐるのもある。故に此物語を拝聴する人々に仍つて、或は天来の福音とも聞え、神の救ひの言葉とも聞え、或は寄席の落語とも聞え、或は拙劣な浪花節とも感じ、又中有界に彷徨ひたる偽善者の耳には不謹慎なる物語にして、決して神の言葉にあらず、瑞月王仁の滑稽洒脱の思想が映写して、物語となりしものの如く感じ、冷笑侮蔑の念を起し、之に対する者もあり、或は筆録者の放逸不覊の守護神に感じて、口述者の霊が神の言葉と自ら信じ、編纂せしものの如く感ずる者もあり、或は其言を怪乱狂妄悉皆汚穢に充ちたる醜言暴語となして耳を塞ぎ逸早く逃げ帰るものもある。之は霊界に身をおいて、各人が有する団体の位地より神を拝し、且物語を聴く人の状態である。故に此物語は上魂の人には実に救世の福音なれ共、途中の鼻高や下劣なる人間の耳には最も入り難きものである。又無垢なる小児と社会の物質欲に超越したる老人の耳には能く沁み渡り、且理解され易きものである。こは小児と老人は其心無垢の境涯に在つて、最奥の霊国及天国と和合し相応し居るが故である。 (大正一二・一・一六旧一一・一一・三〇松村真澄録)
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霊界物語 49_子_祠の森の物語1(高姫と妖幻坊) 02 大神人 第二章大神人〔一二七六〕 前節に述べたる如く、霊国や天国の諸団体に籍をおいたる天人及地上の天人即ち神を能く理解せし人間の精霊は、即ち地上の天人なるを以て、人間肉体の行為に留意することなく、其肉体を動作せしむる所の意思如何を観察するものである。故に人間の吾長上たると吾下僕たるとを問はず、其行為に就て善悪の批判を試むるが如き愚なことは、決してせない。天人の位地に進んだものは、其人格を以て意思に存し、決して行為其物にあらざる事を洞察するが故である。其智性も亦人格の一部分なれ共、意思と一致して活動する時に限つて人格と見なすのである。意思は愛の情動より起り、智性は信の真より発生するものである。故に愛のなき信仰は決して人格と見なすことは出来ない。愛は即ち第一に神を愛し、次に隣人を愛する正しき意思である。只神を信ずるのみにては到底神の愛に触れ、霊魂の幸福を得ることは不可能である。愛は愛と和合し、智は智と和合す。神に心限りの浄き宝を奉り、或は物品を奉納するは所謂愛の発露である。神は其愛に仍つて人間に必要なるものを常に与へ玉ふ。人間は其与へられたるものに仍つて生命を保ち、且人格を向上しつつあるのである。神は無形だとか、気体だとか、無形又は気体にましますが故に決して現界人の如き物質を要求し玉はず、金銭物品を神に献つて神の歓心を得むとするは迷妄の極なり、只神は信仰さへすればそれで可い、其信仰も科学的知識に仍つて認め得ない限りは、泡沫に等しきものだ。故に神を信ずるに先だち科学的原則の上に立脚して、而して後信ずべきものだ……などと唱ふる者は、すべて八衢人間にして、其大部分は神を背にし光明を恐れ、地獄に向つて内底の開けゐる妖怪である。 霊国天国の天人が天界を見て一個の形式となすのは、其全般に行わたつてのことではない。如何なる証覚の開けた天人の眼界と雖も、高天原の全般を測り知ることは出来ない。されど天人は数百又は数千の天人より成れる団体を遠隔の位地より見て、人間的形式をなせる一団と感ずる事がある位なものである。故に未だ中有界に迷へる八衢人間の分際としては到底、天人の善徳や信真や証覚に及ばないことは無論である。 斯の如く如何なる天人と雖も、高天原の全体を見極め、神の経綸を熟知し、且他の諸団体を詳しく見聞し能はざる位のものであるに、自然界の我利我欲にひたり、自愛と世間愛のみを以て最善の道徳律となし、善人面をさげ、漸く神の方向を認めたる位の八衢人間が到底神の意思の測知し得らるべき道理はないのである。天国の全般を総称して大神人と神界にては称へらるる理由は、天界の形式は凡て一個人として統御さるるからである。故に地の高天原は一個の大神人であり、其高天原を代表して愛善の徳と信真の光を照らし、暗に迷へる人間に智慧と証覚を与へむとする霊界の担当者は、即ち大神人である。神人の大本か大本の神人か……と云ふべき程のものである。之は現幽相応の理より見れば、決して架空の言でもない。又一般の信徒は所謂一個の大神人の体に有する心臓、肺臓、頭部、腰部、其他四肢の末端に至る迄の各個体である。 天界を大神は斯の如く一個人として、即ち単元として之を統御し玉ふのである。故に人間は宇宙の縮図といひ、小天地と云ひ、天地経綸の司宰者と云ふ。人間の身体は、其全分にあつても、其個体に在つても、千態万様の事物より組織されたるは、人の能く知る所である。即ち全分より見れば、肢節あり、気管あり、臓腑あり、個体の上より観れば、繊維あり、神経あり、血管あり、かくて肢体の内に肢体あり、部分の中に部分あれ共、一個人として活動する時は、単元として活動するものである。故に個体たる各信者は一個の単元体たる大神人の心を以て心となし、地上に天国を建設し、地獄界の片影をも留めざらしむる様、努力すべきものである。大神が高天原を統御し玉ふも亦之と同様である。故に地上の高天原たる綾の聖地には、大神の神格にみたされたる聖霊が予言者に来つて、神の神格に仍る愛善の徳を示し、信真の光を照らし、智慧証覚を与へて、地上の蒼生をして地的天人たらしめ、且又地上一切をして天国ならしめ、霊界に入りては、凡ての人を天国の歓喜と悦楽に永住せしめむが為に努力せしめ玉ふたのである。其単元なる神人を一個人の全般と見做し、各宣伝使信者は個体となつて、上下和合し、賢愚一致して此大神業に参加すべき使命を有つてゐるのである。 斯の如くして円満なる団体の形式を造り得る時は即ち全般は部分の如く、部分は全般の如くにて其両者の相違点は、只其分量の上にのみ存するばかりである。今日の聖地に於ける状態は、すべて個々分立して活躍し、全体は分体と和合せむとしてなす能はず、分体たる個人は各自の自然的観察を基点として、思ひ思ひに光に反き愛に遠ざかり、最も秀れたる者は中有界に迷ひ、劣れる者は地獄の団体に向つて秋波を送る者のみである。故に此等の人間は大神の聖場、地の高天原を汚す所の悪魔の影像であり、且個人としては偽善者である。偽善者なる者は時としては善を語り、又善を教へ、善を行へども、何事につけても自己の愛を先にするものである。大神の御神格及高天原の状態、愛の徳及信の道理並に高天原の将来などに付いて、人に語り伝ふること、最深く、天人の如く、聖人君子の如く、偶には見ゆるものあり、又其口にする所を心言行一致と云つて、行為に示さむとし、能く其行ひを飾つて、人の模範とならむとする者あれ共、其人間が実際に思惟する所のものは必ずや人に知られむ為、或は褒められむ為にする者が多い。此等は未だ偽善者の中でも今日の処では、余程上等の部分にして、俗眼より見れば真に神を理解し、言心行の一致の清き信者と見得る者である。次に今綾の聖地に於ける最上等の部分に属する人の心性を霊眼によつて即ち内的観察に仍つて見る時は、未だ天界の消息にも詳ならず、其自愛及世間愛と雖も、未だ徹底せず、天人の存在を半信半疑の態度を以て批判し、或は死後の生涯などに就て語る共、只真理に明き哲人と人に見られむが為に、真実に吾心に摂受せざる所を、能く知れるが如くに語り伝ふる位が上等の部分である。而して口には極めて立派なことを言つても、其手足を動かし、額に汗し、以て神に対する真心を実行せない者が大多数である。斯の如き人は神の教を伝へ、又は神に奉仕する祭官などは、俗事に鞅掌し或は田園を耕し、肥料などの汚穢物を手にするは、所謂神を汚すものと誤解してゐる八衢人間や、或は怠惰の為、筋肉労働を厭うて、宣伝使又は祭官の美名にかくるる横着者である。此等は何れも神の前にあつて、天人の一人をも霊的に認むることなく、又体的にも感ずる能はず、遂には神仏を種にして、自利を貪る地獄道の餓鬼となつてゐる者である。かくの如き心性を以て神の教を説き、神に近く奉仕するは、全く神を冒涜する罪人である。 斯くの如き人間は神の言葉を売薬の能書位に心得、何事をも信ぜず、又自己を外にして徳を行ふの念なく、人の見ざる所に於て善をなすことを忌み、悪を人の前に秘し、善は如何なる小さきことと雖も、必ず人の前に現はさむことを願ふ。故に彼等がもし万一善なる行ひをなしたりとせば、それは皆自己の為になす所あるによる。又他人の為に善を行ふことあれば、それは他人及世間より聖人或は仁者と見られむことを願ふに過ぎない。斯の如き人のなすことはすべて自愛の為である。自愛は所謂地獄の愛である。 心ならずも五六七殿に此物語を聞きに来てゐる偽善者も偶にはあるやうだ。それは折角昼夜艱苦して口述編纂した『霊界物語』を毎夜捧読して、霊界の消息を、迷へる人々に説き示さむとする口述者の意思を無視したと思はれてはならないから……といふ位な考へで、厭々聞きに来る人もあるのである。決して左様な御気遣は無用である。何程内底の天に向つて閉塞したる人々の身魂に流入し或は伝達せむとするも、到底駄目である。故にどうしても此物語の気にくはぬ人は、かかる偽善的行為を止めて、所主の愛に仍り、身魂相応の研究を自由にされむことを希望する。決して物語の聴聞や購読を強るものではない。 経の神諭は拝聴すると、涙が出る様だが、緯の物語を聞くと少しも真味な所がなく、可笑しくなつてドン・キホーテ式の物語か又は寄席気分のやうだと云つてゐる立派な人格者があるさうだ。之れも身魂相応の理に仍るものだから、如何ともすることは出来ない。併し乍ら悲しみの極は喜びであり、喜びの極は悲しみであることは自然界学者もよく称ふる所である。而して悲しみは天国を閉ぢ歓びは天国を開くものである。人間が他愛もなく笑ふ時は決して悲しみの時ではない、面白可笑しく歓喜に充ちた時である。神は歓喜を以て生命となし、愛の中に存在し玉ふものである。赤子が泣いた時は其母親が慌てて乳を呑ませ、其子の笑顔を見て喜ぶのは即ち愛である。吾子を泣かせ、又は悲しましめて快しと思ふ親はない。神の心はすべて一瞬の間も、人間を歓喜にみたしすべての事業を楽しんで営ましめむとし玉ふものである。此物語が真面目を欠いて笑はせるのが不快に感ずる人あらば、それは所謂精神上に欠陥のある人であつて、癲狂者か或は偽善者である。先代萩の千松の言つたやうに……お腹がすいてもひもじうない……といふ虚偽虚飾の態度である。かくの如き考へを捨てざる限り、人は何程神の前に礼拝し、神を讃美し、愛を説くと雖も、到底天国に入ることは出来ない。努めて地獄の門に押入らむとする痴呆者である。 凡て綾の聖地に、神の恵に仍つて引つけられたる人、及此教に信従する各地の信者は、すべて大神の神格の中にあるものである。然るに灯台下暗しとか云つて、之を認め得ざるものは天人(人間と同様の形態)の人格を保つことは出来ないものである。富士へ来て富士を尋ねつ富士詣で……と云ふ様に、富士山の中へ入つて了へば、他に秀れて尊き霊山たることを知らず、普通の山と見ゆるものである。併し遠くへだてて之を望む時は、実に其清き姿は雲表に屹立し、鮮岳清山を圧して立てる其崇高と偉大さを見ることを得る様に、却て遠く道をはなれ、教に入らざりし者が、色眼鏡を外して見る時は、其概要を知り全般を伺ふことが出来る様に、却て未だ一言も教を聞かず、一歩も圏内に足をふみ入れざる人の方が其真相を知る者である。又大神は時によつて一個の天人と天国にては現じ玉ひ、現界即ち地の高天原にては一個の神人と現じ玉ふ。されど斯の如く内分の塞がつた人間は神人に直接面接し且其教を聴き乍ら、之を普通の凡夫とみなし、或は自分に相当の人格者又は少しく秀れたる者となし、或は自分より劣りし者となして、之を遇するものである。かくの如き人間は八衢所か、已に地獄の大門に向つて、爪先を向けてゐるものである。真の智慧と証覚とを欠いた者は、総て地獄に没入するより道はない。故にかかる人間は天人又は神人の目より見る時は、何程形態は立派に飾り立て、何程人品骨格はよく見えても、殆ど其内分は人間の相好が備はつてゐないのである。彼等は罪悪と虚偽とに居るを以て、従つて神の智慧と証覚に反いてゐる。恰も妖怪の如く餓鬼の如く、其醜状目も当てられぬばかりである。斯の如き肉体の人間を称して、神界にては生命といはず、之を霊的死者と称ふるのである。又は娑婆亡者或は我利我利亡者ともいふ。 斯の如き大神の愛の徳に離れたる者は生命なるものはない。而して大神の愛又は神格に離れた時は、何事もなし能はざるものである。故に大本神諭にも……神の守護と許しがなければ、何事も成就せぬぞよ。九分九厘いつた所でクレンとかへるぞよ。人間がこれ程善はないと思ふて致して居ることが、神の許しなきものは皆悪になるぞよ。九分九厘で手の掌がかへり、アフンと致すぞよ……と示されてあるのを伺ひ奉つても、此間の消息が分るであらう。人間は自然界の自愛に仍つて、或程度までは妖怪的に、惰性的に出来得るものだが、決して有終の美をなすことは出来ない、今日自愛と世間愛より成れる、すべての銀行会社及其他の諸団体の実状を見れば、何れも最初の所期に反し、其内部には、魑魅魍魎の徘徊跳梁して、妖怪変化の巣窟となり、目もあてられぬ醜状を包蔵してゐる。そして強食弱肉優勝劣敗の地獄道が、遺憾なく現実してゐるではないか。 現代に於ても心の直なる者の胸中に見る所の神は、太古の人の形なれ共、自得提の智慧及罪悪の生涯に在つて天界よりの内流を裁断したる者は斯の如き本然の所証を滅却し了せるものである。斯かる盲目者は見る可らざる神を見むとし、又罪悪の生涯にて所証を滅却せし者は、神を決して求めない者である。故に現代の人間は神にすがる者と雖も、すべて天界よりの内流を裁断したる者多き故に、見る可らざる神を見むとし、又物質欲のみに齷齪して、本然の所証を滅却した地獄的人間は、神の存在を認めず、又神を大に嫌ふものである。すべて天界よりして先づ人間に流入する所の神格其者は実に此本来の所証である。何となれば、人の生れたるは、現界の為にあらず、其目的は天国の団体を円満ならしむる為である。故に何人も神格の概念なくしては天界に入ることは出来ないのである。 高天原及天国霊国の団体を成す所の神格の何者たるを知らざる者は、高天原の第一関門にさへも上ることを得ない。かくの如き外分のみ開けたる人間がもし誤つて天国の関門に近付かむとすれば、一種の反抗力と強き嫌悪の情を感ずるものである。そは天界を摂受すべき彼の内分が未だ高天原の形式中に入らざるを以て、すべての関門が閉鎖さるるに仍るからである。もし強て此関門を突破し、高天原に進み入らむとすれば、其内分はますます固く閉ざされて如何ともす可らざるに至るものである。信者の中には無理に地の高天原に近付き来り、神に近く仕へ親しく教を聞いてからますます其内分が固く閉ざされて、心身混惑し、信仰以前に劣りし精神状態となり、且又其行ひの上に非常な地獄的活動の現はるるものがあるのは此理に基くのである。大神を否み、大神の神格に充されたる神人を信ぜざる者は、凡てかくの如き運命に陥るものである。人間の中にある天界の生涯とは即ち神の真に従ひて、棲息せるものなることを知悉せる精神状態をいふのである。惟神霊幸倍坐世。 (大正一二・一・一六旧一一・一一・三〇松村真澄録)
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霊界物語 49_子_祠の森の物語1(高姫と妖幻坊) 05 復命 第五章復命〔一二七九〕 漸くにして石搗も済み、道公、晴公、伊太公、純公、其外一同は、前後百余日を費して立派なる宮を建て上げた。而して其遷宮式は節分の夜に行はるることとなつた。四方八方より信者が密集し来り、祠の森のふくらんだ広い谷も、立錐の地なき迄に信者が集まつて来て、此遷宮式に列することとなつた。沢山の供物が山の如く集まつてゐる。道公始めバラモン組のイル、イク、サール、ヨル、テル、ハルの連中も祭官の中に加はり、イソの館より下附された立派な新調の祭服を身にまとひ、神饌所に入つて、何百台とも知れぬ神饌の調理にかかつてゐる。 ヨル『オイ、今日の祭りは俺のお蔭だぞ。神様を拝むよりも先づさきに俺を拝むのだな』 とお神酒の盗み呑みに、顔を真赤にしてクダを巻いてゐる。 イル『コラ、ヨルの奴、貴様は何だ、エヽン、祭服をつけやがつて、神様にお供へもせぬ内からお神酒を戴くといふ事があるか、チツと心得ぬかい』 ヨル『コラ、イル、何を吐しやがるのだ。今夜は玉国別さまがヨルの祭だと仰有つただないか、イルの祭だないぞ。それだから俺が先づ毒味をして喉の神様に供へ、其上でヨルの神様をお祭りするのだ。ヤツパリ身魂がよいとみえて、こんな立派なお宮様にヨルの霊を祭つて頂くのだからなア、本当に偉いものだらう』 イク『併しこれ丈沢山の金銭物品を供へても、神様はお受取になるだらうかなア。却て御迷惑だらうも知れぬぞ、神様はすべて無形にましますのだから、この様な人間の食ふ有形的供物はおあがりになる筈はないだないか。その証拠にやいくら永く供へておいても果物一つ減つてゐないぢやないか、こんな沢山の物供へるよりも、代表的にお三方に二台か三台か供へておいて差支なささうだがな。丸で八百屋の店みたやうだ。エヽー、ヨル、貴様何う思ふ?』 ヨル『貴様はヤツパリまだ神の事が分らぬと見えるワイ。神様は地上に降り玉ふ時はヤツパリ人間の肉の宮を機関と遊ばすのだから、自然界の法則を基として、何事もお仕へせなくちやならぬぢやないか。信者の供物を受取り玉ふ神様は無形にましますが故に、物質的食物は不必要だと云つて、此結構な御祭典に金額物品を備へない奴は神様の愛に居らず又神の恵に浴する事も出来ない偽信者のなすべき事だ。祭典といふ事は祭る法式といふ事だ。祭るといふ事は、人を待つ事だ、所謂お客様を招待するも同じ事だ。善と真とを衡にかけ、人間の愛と神の愛とを和合する神事だ。それだから真釣りにまつるといふのだ。何程神様に供へたお供へものがへらないと云つても、肝腎要のお供物の霊は皆おあがりになつてゐるのだ。大根は大根の味、山葵は山葵の味、魚は魚の味と、各自に其味が変つてゐるのは皆神様から造られたものであつて、人間の所為でもなければ、大根山葵夫れ自身のなし得たる所でもない。同じ土地に同じ肥料をやつて作つても、唐辛を蒔けば辛くなる、水瓜を作れば甘くなる、山椒を作れば又辛くなる、そして其甘さにも辛さにも各特色がある。これ皆神徳の内流によつて出来るものだ。それだから地上の人間は神様に結構なものを与へられて、之を感謝せずには居られない。夫れ故神の御恵みを謝する為に心を尽してお供物をするのだ。此通り沢山なお供物の集まつたのも、仮令少しづつでも、これ丈の人間が各自に何なりと持つて来たのだから、塵つんで山をなしたのだ。神は人間の真心を受けさせ玉ふものだから、菜の葉一枚でも供へてくれと云つて持つて来た者は、皆お供へせなくちやすまないぞ。それが祭の祭たる所以だから、……』 テル『それでも賽銭一文持たず、菜の葉一枚お供へせずして、有難がつて喜んでゐるのもあるだないか。それは何うなるのだ』 ヨル『其奴は夢を見て喜んでる様なものだ。此ヨルさまはヨルの祭だから、供へてくれた人間は皆覚えてゐるが、空参りする奴は空霊だからお蔭はやらないよ。ヨルの守護の世の中だからなア。何なつと手形を持つて来ないとヨルの神様も信仰が分らないからな』 テル『お前の神様はヨルの神様でなうて、欲の神様だろ』 ヨル『馬鹿云ふな。神を愛し、神に従ひ、仮令菜の葉一枚でも、神様に上げたいといふ真心の人間をヨルの神様だ。即ちより分ける神様だ。選まれたる者は天国にゆくといふぢやないか。選むといふ事はヨル事だ。併しチツとは其時の都合にヨル神だから、マアなるべく酒でも何でも構はぬ、供へ玉へ運び玉へだ、アハヽヽヽ』 ハル『丸でバラモン教みたいな事を言ふぢやないか、神様に物をお供へすればお蔭がある、お供へせない奴ア神様が愛せないといふのは、チツと神としての神格に抵触するではないか』 ヨル『バラモン教だつて、三五教だつて、祭に二つはないだないか、別に神様は人間の乞食でもあるまいから、醵出したものを以て生命を保ち玉ふ様なお方ではないが、すべて愛の心が起れば、人間は神様に何なりと上げたくなるものだ。又神様は人間を愛し玉ふ時は田もやらう、畔もやらうといふお心にならせ玉ふものだ。年よりの親が息子や娘に土産を買ふて来て貰つたり、又孫が仮令少しの物でも、これをお爺さまお婆アさまに上げたいと思つて買つて来たと聞いた時は、其爺さま婆アさまは、仮令僅少なものでも、どれ丈喜ぶか知れぬだないか。せうもないものでも、息子が買ふて来てくれたものだとか、孫が遥々買ふて来てくれたとか、送つてくれたとか、会ふ人毎に話して喜ぶだろう。そして僅二三十銭の物を孫がくれると爺さま婆アさまは臍繰金の十円も出して、孫にソツとやるだないか。愛は愛と相応し、善は善と相応するものだ。それだから、祭を真釣合といふのだ。決して爺さま婆アさまは吾子や孫に、土産を買ふて来て貰はうと望まない……と同様に神様は決してお供へを望み遊ばさない。けれど其子や孫が土産をくれた時の心と、くれない時の心とは、其時の愛の情動の上に於て、非常な差等のあるものだ。それだから神の愛に触れむと思ふ者は神を愛さなくてはならぬのだ。人間として何程心を尽しても、神様に対する御恩報じは金額物品を以て、其真心を神に捧ぐるより、外に手段も方法もないだないか』 テル『それでも人間は精神を以て神の為に尽し、神を愛すれば可いのだよ。なア、イク、サール、貴様、そう思はせぬか』 サール『それも一理あるやうだが、ヤツパリ、ヨルの神様の、云ふやうに、愛の心が起つたならば、キツト中途に止まるものだない、終局点迄達するものだ。其終局点は所謂人間の実地の行ひだ。霊から始まつて体に落ち着くのが真理とすれば、ヤツパリ神様に山野河海の珍しき物や幣帛料を献納するのは所謂愛と誠の表はれだと思ふ』 ハル『成程夫れに間違ない。さうでなければ何うして玉国別さまや、五十子姫様が、こんな大層な祭を遊ばすものか』 と神饌所が賑つてゐる。そこへ伊太公、純公の二人現はれ来り、 伊太『サア、是から祓戸が初まる、お前たちも準備をしてゐなくちやならないぞ。併し大変な参詣者だないか』 ヨル『本当に立錐の余地なき迄、参拝者が集まりましたなア』 伊太『ヤア、今太鼓がなつた。サア、神饌の用意は出来たかなア』 イル『余り沢山な供へ物で、実は目をまはす許りの多忙を極めて居ります。併し大方準備が出来たやうです』 伊太『純公さま、私は之から祓戸を勤めねばなりませぬ。貴方はどうか神饌長になつて下さい』 純公『ハイ承知しました』 伊太公は『皆さま宜しく、抜目のないやうに頼みます』と云ひすて、祓戸の館を指して急いで行く。 祓戸式、神饌伝供もすみ、玉国別の遷宮祝詞の奏上も了り、それより餅撒きの行事に移つた。祓戸主の祝詞や遷宮式の祝詞は略しておく。 昼夜を分たずポンポンと搗いた小餅は五石六斗七升と称へられた。而して其大部分は五十子姫今子姫の手に固められたものであつた。神饌係のイル、イク、サール、ヨル、テル、ハルを始め、神饌長の純公は高台の上に登り、一生懸命に四方八方へ餅を撒きつけた。数多の老若男女は波打つ様に餅の落ちる方へ雪崩を打つて、人を踏み越え、つき倒しなどして、一個でも多く拾はむ事を努めた。平素は神の教を聴き、人間は人に譲り、謙らねばならぬと云ふ事を心に承知し且人にも偉相に宣伝し乍ら、かかる場合にはスツカリ獣性を遺憾なく発揮するものである。丁度犬の子がさも親密相にじやれあふたり、ねぶり合ふて遊んでゐる所へ、腐つた肉を放りこんだやうな物である。之を思へば人間は肉体を有する限り、どうしても我慢と欲には離れ得ないものと見える。一つでも此餅を戴き家に帰つて家族や近所の者に分け与へて神徳を分たむとすれば、おとなしくして、後の方へ控へて居つても、半分の餅も拾ふ事は出来ない。始めの間はさういふ態度を取つて居つた信者も沢山あつたがグヅグヅしてると、押し倒され、踏み躙られ、餅は拾ふ事が出来ないので、群集心理とやらに襲はれて、さしも謙遜にして従順なりし男も、ソロソロ鉢巻をしめ出し、手に唾をつけ、邪魔になる奴を押し倒し、そして一つでも余計に拾ふて懐に捻ぢ込まねば損だといふ気になり、一時にあばれ出したからたまらない。彼方の端にもキヤアキヤア、此方の隅にもアンアンと子供の泣く声、俄に修羅道の浅ましき場面と変じて了つた。餅撒きも漸くすみ、餅の争奪戦も休戦のラツパが鳴つた。それより各信徒は立派に建て上つた新しき宮を伏拝み、欣々として河鹿峠を下り、各家路に日を暮し乍ら、帰つて行く。あとには宣伝使や祭典係の連中と熱心なる信者が十数人残つて居た。 因に神殿は三社建てられ、中央には国治立尊、日の大神、月の大神が斎られ、左の脇には大自在天大国彦命、並に盤古大神塩長彦神を鎮祭し、右側には山口の神を始め、八百万の神々を鎮祭された。此祭典がすむと同時に玉国別の眼病は全快し、顔の少しく、形まで変つて居たのが、以前にまして益々円満の相となり、俄に神格が備はつて来た様に思はれた。茲に玉国別は直会の宴を、社務所の広間に於て開く事となつた。而してこの席に並んだ者は、此祭典に与つた役員全部と十数名の熱心な信者とであつた。玉国別は鎮祭無事終了を祝する為、神酒を頂き乍ら、歌ひ出した。 玉国別『神が表に現はれて善と悪とを立て分ける 此世を造りし神直日心も広き大直日 只何事も人の世は直日に見直し聞直し 身の過ちは宣り直す三五教の大御神 聖き教を四方の国開き伝ふる身を以て 少しの心の油断より天津御空の日月に 譬ふべらなる両眼を獣の為に破られて 痛さに悩み皇神が依さし玉ひし神業を いかにかなして果さむと思ひ悩める折もあれ 皇大神の御心に深き仕組のゐましてや 祠の森に止められ皇大神の御舎を 大宮柱太しりて仕へまつらせ玉ひたる 其御心は今となり初めて思ひ知られける これを思へば吾々が二つの眼を山猿に 掻きむしられし経緯は全く神の御心に 出でさせ玉ふものなりと悟るも嬉し今日の宵 今迄痛みし吾眼拭ふが如く癒えわたり 眼の霞もよく冴えて今は全く元の如 清き光を放ちけりあゝ惟神々々 神の守らす神の世は一切万事神界の 御教に服ひ奉り卑しき人の心もて 何くれとなく一々に争論うべきものならず 天地の間は一切を只神様の御心に 任せまつりて従順に吾天職を守るより 道なきものと悟りけり五十子の姫よ今子姫 最早吾身は斯くの如眼の悩み癒えぬれば 汝が命と何時迄も一つとなりて神の前 仕ふる事は叶ふまじわれは是より珍彦に これの館を守らせて神の依さしの神業に 立ち出で行かむ汝は又イソの館へ立ち帰り 今子の姫と諸共に皇大神の御前に 心を浄め身を清め朝な夕なに仕へかし 珍彦静子晴公よ汝は吾れに成り変り 祠の森の神殿に朝な夕なに仕へつつ 神の教を受けむとて参来集へる信徒を 完全に詳細に説き諭し神の御国の福音を 普く附近にかがやかし曲津身魂の往来を いよいよ茲にせきとめてイソの館に一歩も 進入させじと村肝の心を尽して守るべし 夜が明けぬれば吾々はこれの館を立出でて ハルナの都に蟠まる八岐大蛇の征服に 神の恵を浴び乍ら進みて行かむ惟神 神の守りを願ぎまつる』 と歌ひ了り、神殿に向つて合掌する。 五十子姫は長袖淑かに舞ひ乍ら、静に歌ひ出したり。 五十子姫『神素盞嗚大神の神言畏み背の君は 玉国別と名乗りまし獅子狼の吠えたける 荒野を別けて河鹿山風の悩みや山猿の 為に眼を失ひつ漸く茲に来りまし 悩みし眼を癒やす内如何なる神の御恵か 尊き神業を任けられて百日百夜を事もなく 過ごさせ玉ひ皇神の瑞の御舎仕へまし 祭も無事に相済みて神の恵も灼然に 眼の悩みなをりまし感謝の涙諸共に 今直会の宴席に列なり玉ひ珍彦や 其他の司に御社の守りの役を任けさせつ 只の一日も休まずに又もや猛き荒野原 雪踏み分けてフサの野を渡らせ玉ひ月の国 遠き都に出で玉ふ其功績は皇神の 御稜威に比べまつるべしさはさり乍ら五十子姫 漸く茲に尋ね来て夫の命の笑顔をば 拝む間もなくイソ館神の御前に帰るべく 宣らせ玉ひし言の葉は実にも雄々しき限りぞと 勇みに勇む胸の内今子の姫もさぞやさぞ 嬉しみ玉ふ事ならむ伊太公さまよ純公よ 其外百の司たち吾背の君に従ひて 一日も早く月の国ハルナの都に蟠まる 八岐大蛇や醜神を言向和し大神の 依さし玉ひし神業を完全に委曲に尽し了へ 一日も早く復命申させ玉へ惟神 神の御前に祈ぎまつる旭は照る共曇るとも 月は盈つ共虧くるとも仮令大地は沈むとも 誠の力は世を救ふ誠一つは神界の 唯一の宝生命ぞ皇大神を能く愛し 其神格を理解して神の御前に善徳を 積む傍に世の人を普く愛し導きて 神の司の本分を遂げさせ玉へ五十子姫 イソの館に勤めつつ吾背の君や汝が命 其一行の成功を身もたなしらに祈るべし いざいざさらばいざさらば勇み進んで出でませよ 妾はこれより河鹿山雪踏み分けてやうやうに イソの館に立ち帰り皇大神に此さまを 完全に委曲に奏上し百の司の真心を 洩らさず落さず大前に申し上げなむいざさらば 明日はお別れ申します何れも無事でお達者で 神の恵の幸あれや偏に祈り奉る あゝ惟神々々御霊幸はひましませよ』 今子姫は又歌ふ。 今子姫『旭は照る共曇るとも月は盈つ共虧くる共 仮令大地は沈む共神の恵は永久に 変らせ玉ふ事あらじ抑も神が世の中を 造り玉ひし目的は地上に住める蒼生を 一人も残さず天国に救はむ為の御仕組 天国浄土の団体をますます浄く円満に 開かせ玉ひ神国を永遠無窮に建設し 百の神人喜びて常世の春の栄えをば 来さむ為の御経綸吾等は人と生れ来て 深甚美妙の神徳にひたり乍らも体欲に いつとはなしに晦され至粋至純の神霊を 汚しゐるこそはかなけれ皇大神は吾々の 曇れる霊を憐れみて高天原より降りまし ウブスナ山や其外の聖地を選りて神柱 立てさせ玉ひ現そ身の暗黒無明の世界をば 照らさせ玉ふ有難さ皇大神の神言もて 五十子の姫の侍女となりメソポタミヤの天恩郷 其外百の国々を経めぐり神の福音を 余り大した過ちも来さず漸く使命をへ イソの館に相召され尊き神の大前に 仕ふる身とはなりにけりハルナの都の曲津身を 征服せむと出でましし玉国別の遭難を 介抱せむと神勅を辱なみて五十子姫 みあとに従ひ来て見れば思ひ掛けなき御負傷に 一時は胸も轟きて憂へ悩みゐたりしが 神の仕組のいや深くかかる案じもあら涙 流せし事の恥かしさ百日百夜を無事に経て 茲に尊き皇神の瑞の御舎建て了り 国治立の大神や月の大神日の御神 大国彦の神様や其外百の神々を 斎きまつりて三五の教の道の御光を 照らさせ玉ふ今日の宵あくれば立春初春の 天津光をうけ乍ら玉国別は道の為 南を指して鹿島立ち妾は君と諸共に 雪踏み分けて河鹿山風に吹かれつ春の日を 頭にいただきいそいそと勇みて帰るイソ館 皇大神の御前に此有様をまつぶさに 復命する楽しさよ旭は照るとも曇る共 月は盈つとも虧くる共皇大神の御恵は 千代も八千代も永久に変らせ玉ふ事あらじ 玉国別よ百人よ勇み進んで月の国 ハルナの都は云ふも更七千余国の国々に 蟠まりたる曲神を厳の言霊打出だし 言向和し神国を此地の上に永久に 建てさせ玉へ惟神神の御前に今子姫 謹み敬ひ願ぎまつるあゝ惟神々々 御霊幸はひましませよ』 道公は又歌ふ。 道公『祠の森に宮柱太しく建てて永久に 鎮まりいます皇神の御前に謹み願ぎ奉る 皇大神の御道を四方に伝ふる道公は 玉国別の師の君に従ひまつり月の国 其外百の国々に威猛り狂ふ曲神を 神の力を蒙りて言向和し神国の 聖き教を世に布きて神の御前に復命 仕へ奉らむ吾心諾ひ玉ひ惟神 神の御前に道公が真心こめて願ぎまつる 五十子の姫よ今子姫汝が命はイソ館 いと安々と帰りまし皇大神の御前に 此有様を詳細に宣らせ給ひて師の君や 吾等が一行の身の上を深く守らせ玉ふべく 祈らせ玉へ道公は吾師の君に従ひて 吾身を砕き吾骨を粉にするとも厭ひなく 守り奉らむ心安く帰らせ玉へ惟神 神の御前に願ぎまつる』 と歌つて五十子姫に別れを告げた。五十子姫は忽ち神懸状態となつた。かからせ玉ふ神は国照姫命なりけり。 国照姫『皇神の神言畏み御舎を 仕へ奉りし人ぞ尊き。 玉国別神の命の悩みたる 目のはれたるも神の恵ぞ。 大神に尽す誠の顕はれて 再元の眼とぞなれる。 道公は名を道彦と改めて 玉国別に従ひて行け。 伊太公は伊太彦司と名を賜ひ 曲きたへむと月に出でませ。 純公は真純の彦と改めて 神の教を四方に伝へよ。 晴公は道晴別と名を替へて 治国別の後を追ひ行け』 玉国別『有難し、国照姫の詔 項にうけて進み行かなむ』 道彦『身も魂も曇りはてたる道公に 名を賜ひたる事の嬉しさ。 大神の恵はいつか忘るべき 心も身をも捧げ尽さむ』 伊太彦『暗の世にいたけり狂ふ曲神を 言向和さむ伊太彦司は』 道晴別『治国別神の命に従ひて 帰りて見れば道晴別となりぬ』 今子姫『国照姫、かからせ玉ふ五十子姫 汝は誠の神にいませし。 美はしき尊き神の生宮に 仕へ奉りしわれぞ嬉しき』 珍彦『皇神の瑞の御舎側近く 仕ふる吾れを守らせ玉へ』 静子『背の君は宮の司となりましぬ 守らせ玉へ国照姫の神』 楓『父は今、神の司となりましぬ 母と吾等を守らせ玉へ。 国照姫神の命の御教を 固く守りて仕へまつらむ』 国照姫『いざさらば、神の宮居も恙なく 成りたる上は天に帰らむ』 と歌ひ玉ひ、神上がり玉へば、五十子姫は元の肉体に復りける。 五十子姫『いざさらば吾背の君よ恙なく 神の仰せをとげさせ玉へ。 五十子姫イソの館にあるとても 霊は清き君が御側に』 玉国別『玉国別神の命の真心を 力となして神に仕へよ』 かく互に歌をよみかはし乍ら、大神の御前に恭しく拝礼し、前途の光明を祈り乍ら珍彦、静子、楓其外バラモン組の六人の役員や熱心な信者に後事を托し、玉国別は道晴別、真純彦、伊太彦、道彦と共に宣伝歌を歌ひ乍ら、潔く河鹿峠を、初春の日の光を浴びて下り行く。 (大正一二・一・一六旧一一・一一・三〇松村真澄録)
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霊界物語 50_丑_祠の森の物語2 01 至善至悪 第一章至善至悪〔一二九五〕 本巻物語の主人公たる初稚姫及び高姫の霊魂上の位置及び其情態を略舒して参考に供することとする。 初稚姫は清浄無垢の若き妙齢の娘である。而して別に現代の如く学校教育を受けたのではない。只幼少より母を失ひ、父と共に各地の霊山霊場に参拝し、或は神霊に感じて、三五教の宣伝使と共に種々雑多の神的苦行を経たるため、純粋無垢なる霊魂の光は益々其光輝を増し、玲瓏玉の如く、黒鉄時代に生れながら、其本体即ち内分的生涯は、黄金時代の天的天人と向上して居た。故に宣伝使としても又地上の天人としても、実に優秀な神格者であつた。大神の神善と神真とを能く体得し、無限の力を与へられ、神の直接内流を其精霊及び肉身に充せ、其容貌並に皮膚の光沢、柔軟さなどは殆どエンゼルの如くであつた。故に初稚姫は大神の許しある時は、一声天地を震撼し、一音風雨雷霆を叱咤し、地震雷海嘯その外風水火の災をも自由に鎮定し得る神力を備へてゐた。されど初稚姫は愛善の徳全く身に備はり、謙譲なるを以て処世上の第一となしゐたれば、容易に神力を現はす事を好まなかつた。而して姫の精霊は大神の直接神格の内流に充され、霊肉共に一見して凡人ならざるを悟り得らるるのであつた。姫は能く天人と語り、或は大神の御声を聞き、真の善よりする智慧証覚を具備したる点は、三五教きつての出藍のほまれを恣にしてゐた。それ故八岐大蛇の跋扈する月の御国へ神軍として出征するにも、只一人の従者もつれず、真に神を親とし主人とし、師匠とし、愛善の徳と信真の徳を杖となし或は糧となし、天上天下に恐るるものなく、猛獣毒蛇の荒れ狂ふ深山幽谷曠野をも、天国の花園を過ぐるが如き心地し、目に触るるもの、身に接近するもの、悉く之を親しき友となし、且此等の同士となつて和合帰順悦服等の神力を発揮しつつ進むことを得たのである。故に如何なる現界的智者学者に会ひて談話を交ふる時も、一度として相手方に嫌悪の情を起さしめたる事なく、其説く所は何れも霊的神的にして、愛と信とに充されざるはなく、草野を風の行過ぎるが如く風靡し、帰順し、和合せしめねばおかなかつた。天稟の美貌と智慧証覚は何れも愛善の徳と真善の光なる大神より来るが故に、姫が面前に来る者は、何れも歓喜悦服せざるはなかつたのである。且又理性的にしてものに偏せず、中庸、中和、大中などの真理を超越してゐた。 抑も此理性は神愛と神真の和合より来る所の円満なる情動によつて獲得し、此情動よりして真理に透徹するものである。さて真理には三つの階級がある。而して人間は此三階級の真理にをらなければ、到底神人合一の境に入る事は不可能である。法律、政治の大本を過たず能く現界に処し、最善を尽し得るを称して、低級の真理に居るものと言ひ、又君臣夫婦父子兄弟朋友並に社会に対し、五倫五常の完全なる実を挙げ得る時は、これを中程の真理に居る者といふのである。併しながら如何に法律を解し政治を説き、或は五倫五常を詳細に説示し了得すると雖も、之を実践躬行し得ざる者は所謂偽善者にして、無智の賤人にも劣るものと霊界に於て定めらるるのである。又愛の善と信の真に居り、大神の直接内流を受け、神と和合し、外的観念を去り、万事内的に住し得るものを称して最高の真理に居る者と云ふのである。故に現代に於て聖人君子と称へられ或は智者識者と称せられ、高位高官と崇めらるる人物と雖も、最高の真理に居らざる者は、霊界に於ては実に賤しく醜く、且中有界又は地獄界に群居せざるを得ざる者である。霊界に行つて現界に時めく智者学者又は有力者といはるる者の精霊に出会し、其情況を見れば、何れも魯鈍痴呆の相を現はし、身体の動作全く不正にして四肢戦き慄ひ、少しの風にも吹き散りさうになつてゐるものである。是凡てが理性的ならざるが故である。現代の人間が理性的とか理智的とか、物知り顔に云つてゐる其言説や又は博士学士等の著書を見るも、一として理性的なるものはない。何れも自然界を基礎とせる不完全なる先賢先哲と言はれたる学者の所説や教義を基礎とし、古今東西の書籍をあさり、之を記憶に存し、其記憶を基として種々の自然的知識を発育せしめたるものである。故に只記憶のみにして、決して理性的知識ではない。現代の総ての学者は主神大神の直接又は間接の内流を受入るる事能はず、何れも地獄界より来る自愛及び世間愛に基く詐りの知識に依つて薫陶されたるものなれば、彼等は霊体分離の関門を経て精霊界に至る時は、生前に於る虚偽的知識や学問の記憶は全部剥奪され、残るは只恐怖と悲哀と暗黒とのみである。凡て自愛より出づる学識智能は何れも暗黒面に向つてゐるが故に、神のまします天界の光明に日に夜に遠ざかりゐたれば、精霊界に入りし時は霊的及び神的生涯の準備一もなく、否却つて魯鈍無智の人間に劣ること数等である。魯鈍無智なる者は、常に朧気ながらも霊界を信じ且つ恐るるが故に、驕慢の心なく、心中常に従順の徳に居りしが故に、霊界に入りし後は神の光明に浴し、神の愛を受くるものである。 又現界に在りては、到底人間の其真相は分らないものである。されど初稚姫の如く肉体其儘にて天人の列に加はりたる神人は、よく其人の面貌及び言語動作に一度触るれば、其生涯を知り、其人格の如何をも洞破し得るのである。如何に現代人が法律をよく守り、或は大政治家と賞められ、智者仁者と云はるる事あるとも、肉体の表衣に包まれ居るを以て、暗冥なる人間はこれが真相を悟り得ることは出来ない。肉体人は其交際に際し、心に思はざる所を言ふことあり、或は思はざる所、欲せざる所を為さねばならぬことがある。怒るべき時に怒らず、或は少々無理なことでも、何とかして表面を装ひ、世人をして却つて之を聖者仁者と思はしめてゐる事が多い。又肉体人は如何なる偽善者も虚飾も判別するの力なければ、賢者と看做し、聖人と看做して、大いに賞揚することは沢山な例がある。故に瑞の御霊の神諭にも……人の見て善となす所、必ずしも善ならず、人の見て悪となす所、必ずしも悪ならず、善人と云ひ悪人と云ふも、只頑迷無智なる盲目世間の目に映じたる幻像に外ならない……と示してあるのは此理由である。瑞月嘗つて高熊山に修業の折、神の許しを受けて霊界を見聞したる時、わが記憶に残れる古人又は現代に肉体を有せる英雄豪傑、智者賢者といはるる人々の精霊に会ひ、其状態を見聞して意外の感にうたれたことが屡々あつた。彼等の総ては自愛と世間愛に在世中惑溺し、自尊心強く且神の存在を認めざりし者のみなれば、霊界に在りては実に弱き者、貧しき者、賤しき者として遇せられつつあつたのである。之を思へば現代に於ける政治家又は智者学者などの身の上を思ふにつけ、実に憐愍の情に堪へない思ひがするのである。如何にもして大神の愛善の徳と信真の光に、彼等迷へる憐れな地獄の住人を、せめて精霊界にまで救ひ上げ、無限の永苦を免れしめむと焦慮すれども、彼等の霊性は其内分に於て神に向つて閉され、脚底の地獄に向つて開かれあれば、之を光明に導くは容易の業でない。又如何なる神人の愛と智に充てる大声叱呼の福音も、霊的盲目者、聾者となり果てたるを以て、如何なる雷鳴の轟きも警鐘乱打の響も、恬として鼓膜に感じないのである。吁憐れむべき哉、虚偽と罪悪に充てる地獄道の蒼生よ。ここに初稚姫の神霊は再び大神の意思を奉戴し、地上に降臨し、大予言者となつて綾の聖地に現はれ、其純朴無垢なる記憶と想念を通じて、天来の福音を或は筆に或は口に伝達し、地上の地獄を化して五六七の天国に順化せしめむと計らせ給ふこと、殆ど三十年に及んだ。されど頑迷不霊の有苗的人間は之を恐れ忌むこと甚だしく、恰も仇敵の如くに嫉視し、憎悪するに至つたのである。ああ斯くも尊き大神の遣はし給ふ聖霊又は予言者の言を無視し、軽侮し、益々虚偽罪悪を改めざるに於ては、百の天人は大神の命を奉じ、如何なる快挙に出で給ふやも計り難いのである。 次に高姫の霊界上の地位に就いて少しく述ぶる必要がある。宇宙には天界、精霊界、地獄界の三界あることは屡々述べた所である。而して精霊界は霊界現界の又中間に介在せりと云つてもいい位なものである。故に精霊界には自然的即ち肉体的精霊なるものが団体を作つて、現界人を邪道に導かむとするものある事を知らねばならぬ。肉体的精霊とは、色々の種類あれども、其形は人間に似て人間にあらざるあり、或は天狗あり、狐狸あり、大蛇あり、一種の妖魅ありて、暗黒なる現界に跋扈跳梁しつつあり。此等は地獄界にも非ず、一種の妖魅界又は兇党界と称し、人間に譬ふれば、所謂不浪の徒である。彼等は人間の山窩の群の如く、山の入口や川の堤や池の畔、墓場の附近等に群居し、暗冥にして頑固なる妄想家の虚を窺ひ、其人間が抱持せる欲望に附け入つて虚隙を索めて入り来るものである。此肉体的精霊も亦人間の想念と和合せずして其体中に侵入し来り、其諸感官を占有し、其口舌を用ひて語り、其手足を以て動作するものである。而して此等の精霊は其憑依せる人間の物を以てすべて吾物とのみ思ふてゐる。或時は人間の記憶と想念に入つて大神と自称し、或は予言者をまね、遂に自ら真の予言者と信ずるに至るものである。されど此等の精霊は少しも先見の明なく、一息先の事は探知し得ないものである。何故なれば其心性は無明暗黒の境域に居るが故である。憑依された人間が、例へば開祖の神諭を読み耽り、之を記憶に止め想念中に蓄へおく時は、侵入し来りし悪霊即ち妖魅は、之を基礎として種々の予言的言辞を弄し、且又筆先などと称して、似たり八合なことを書き示し、頑迷無智なる世人を籠絡し、遂に邪道に引き入れむとするものである。開祖の神諭に……先の見えぬ神は誠の神でないぞよ……と示されたるは此間の消息を洩らされたものである。又熱狂なる人間は吾記憶を基礎として、其想念を働かせて入り来りし精霊の吾記憶に反けることを口走り、或は書き示す時は、忽ち審神的態度となり……汝は大神の真似を致す邪神にはあらざるか、サ早く吾肉体を去れ……などと反抗的態度に出づるものもある。併し乍ら遂には其悪霊の為に説伏せられ、或はいろいろの肉体上に苦痛を与へられ、遂にその妖魅の言に感服するに至るものである。サア斯うなつた時は、最早上げも下しも出来なくなつて、如何なる神の光明も説示も承認するの力なく、只単に……われは天下唯一の予言者なり、無上の神人なり、吾なくば此蒼生は如何せむ……と狂的態度に出づるものである。此物語の主人公たる高姫は即ち此好適例である。故に彼れ高姫は自己の記憶と想念と、憑霊の言葉の外には一切を否定し、且熱狂的に数多の人間を吾説に悦服せしめむと焦慮するのである。其熱誠は火の如く暴風の如く又洪水の如し。如何なる神人も有徳者も之を説得し帰順せしめ、善霊に帰正せしむることは天下の難事である。故に高姫は一旦改心の境に入りし如く見えたれども、再びつきまとへる兇霊は彼が肉体の虚隙を見すまし、又もや潮の如く体内に侵入し来り、大狂態を演ずるに至つたのである。 斯かる狂的憑霊者の弁舌と行為は最も執拗にして、昼夜間断なくつき纏ひ、吾所説に帰服せしめねば止まない底の勇猛心を抱持してゐる。斯かる兇霊の憑依せる偽予言者に魅入られたる人間は、如何なる善人と雖も、稍常識ありと称へられてゐる紳士でも、又奸智に長けたる人間でも、思索力を相当に有する人物でも、遂には其術中に巻込まれて了ふものである。かかる例は三十五万年前の神代のみではない、現に大本の中に於ても斯かる標本が示されてある。これも大本の神示に依れば、神の御心にして、善と悪との立別けを示し、信仰の試金石と現はし給ふものたることを感謝せなくてはならぬ。一旦迷はされたる精霊や人間は、容易に目の醒めるものでない。併しながら斯の如き渦中に陥る人間は、霊相応の理によつて、已むを得ずここに没入するのである。されど神は飽くまでも至仁至愛にましますが故に、弥勒胎蔵の神鍵を以て宝庫を開き、天国の光明なる智慧証覚を授け、愛善の徳に包んで、之をせめて中有界までなりと救ひ上げ、ここに霊的教育を施し、一人にても多く天国の生涯を送らしめむとなし給ひ、仁愛に富める聖霊を充して、予言者に来り、口舌を以て天国の福音を宣り伝へ給ふこととなつたのである。吁されど頑迷不霊の妖怪、人獣合一の境域に墜落せる精霊及び人間は、天国に救ふこと恰も針の穴へ駱駝を通すよりも難きを熟々感ずる次第である。大本の神諭にも……神と人民とに気をつけるぞよ……とあるは即ち精霊と肉体人とに対しての御言葉である。吁如何にせむ、迷へる精霊よ、人間よ、殊に肉体的兇霊に其身魂を占領されたる妖怪的偽予言者の身魂をや。 序に祠の森に於て杢助と現はれたる妖怪は、兇悪なる自然的精霊即ち形体的兇霊にして高姫の心性に相似し、接近しやすき便宜ありしを以て、互に相慕ひ相求め、風車の如く、廻り灯籠の如く、終生逐ひまはりなどして狂態を演出し、現界は云ふに及ばず霊界の悪魔となりて神業の妨害をなし、遂には神律に照され、神怒に触れ、根底の国の最底に投下さるるまで其狂的暴動を止めないものである。吁憐れむべきかな、肉体的兇霊よ、其機関となりし人間の肉体よ、精霊よ。思うても肌に粟を生ずるやうである。ああ惟神霊幸倍坐世。 (大正一二・一・二〇旧一一・一二・四松村真澄録)
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霊界物語 50_丑_祠の森の物語2 08 常世闇 第八章常世闇〔一三〇二〕 大抵の人間は、高天原に向つて其内分が完全に開けてゐない。それ故に大神は精霊を経て人間を統制し給ふのが普通である。何となれば、人間は自然愛と地獄愛とより生み出す所の地獄界の諸々の罪悪の間に生れ出でて、惟神即ち神的順序に背反せる情態に居るが故である。されど一旦人間と生れた者は、何うしても惟神の順序の内に復活帰正すべき必要がある。而して此復活帰正の道は、間接に精霊を通さなくては到底成就し難いものである。併しながら此物語の主人公たる初稚姫の如き神人ならば、最初より高天原の神的順序に依る所の諸々の善徳の中に生れ出でたるが故に、決して精霊を経て復活帰正するの必要はない。神人和合の妙境に達したる場合の人間は、精霊なるものを経て大神の統制し給ふ所とならず、順序即ち惟神の摂理により、大神の直接内流に統制さるるのである。 大神より来る直接内流は、神の神的人格より発して人間の意性中に入り、之より其智性に入り、斯くて其善に入り又其善を経て真に入る。真に入るとは要するに愛に入るといふ事である。此愛を経て後聖き信に入る。故にこの内流の愛なき信に入り、又善のなき真に入り、又意思よりせざる所の智性に入ることはないものである。故に初稚姫の如きは清浄無垢の神的人格者とも云ふべき者なれば、その思ふ所、云ふ所、行ふ所は、一として神の大御心に合一せないものはないのである。斯かる神人を称して真の生神と云ふのである。 天人及び精霊は何故に人間と和合する事斯の如く密接にして、人間に所属せる一切のものを、彼等自身の物の如く思ふ理由は、人間なるものは霊界と現界との和合機関にして頗る密着の間に居り、殆ど両者を一つの物と看做し得べきが故である。されど現代の人間は高天原より物欲の為に自然に其内分を閉し、大神のまします高天原と遠く離るるに至つたが故に、大神は茲に一つの経綸を行はせ給ひ、天人と精霊とをして各個の人間と共に居らしめ給ひ、天人即ち本守護神及び精霊正守護神を経て人間を統制する方法を執らせ給ふ事となつたのである。 高姫の身体に侵入したる精霊、中にも最も兇悪なる彼兇霊は、常に高姫と言語を交換してゐるものの、その実高姫が人間なる事を実際に信じてゐないのである。高姫の身体は即ち自分の肉体と固く信じてゐるのである。故に高姫が精霊に対して色々と談判をすると雖も、其実精霊の意思では他に目には見えないけれども、高姫なる精霊があつて、外部より自分に向つて談話の交換をしてゐる様に思つて居るのである。又精霊の方に於ては、高姫の肉体は決して何も知つて居ない、知つてゐるのは只精霊自身の知識によるものと思ひ、従つて高姫が知つてゐる所の一切の事物は、皆自分の所為と信じ居るものである。併しながら高姫が余りに……俺の肉体にお前は巣喰つて居るのだ……と、精霊に向つて屡告ぐるによつて、彼に憑依せる精霊即ち兇霊は、うすうすながら自分以外に高姫といふ一種異様の動物の肉体に這入つて居るのではあるまいか……位に感じだしたのである。高姫は又精霊の言ふ所、知る所を、自分の言ふ所、知る所と思惟し、而して精霊が、自分の肉体は神界経綸の因縁のある機関として特別に造られたのだから、正守護神や副守護神が宿を借りに来て居るものと信じて居るのである。而して面白い事には、高姫の体内に居る精霊は、高姫の記憶と想念を基としていろいろと支離滅裂な予言をしたり、筆先を書いたりしながら、其不合理にして虚偽に充てる事を自覚せず、凡てを善と信じ、真理と固く信じてゐるのだから、自分が悪神だと云つたり、或は悪を企まうなどと言つてゐながらも、決して真の悪ではない、実は自分が或自己以外の何物かと揶揄つて居るやうな気でゐるのだから不思議である。又高姫自身も、少し許り悪の行り方ではあるまいかと思うて見たり、或時は……イヤイヤ決して自分の思ふ事、行ふ所は微塵も悪がない、只訳の分らぬ人間の目から、神格に充されたる吾々の言行を観察するのだから悪に見えるだらう。真の神は必ず自分が神の為道の為に千騎一騎の活動してゐる事をキツトお褒め遊ばすだらう。神に叶へるものとして、神柱とお使ひ遊ばしてゐられるのであらう。訳の分らぬ現界の人間が、仮令悪魔と言はうとも、そんな事は構つてゐられない、吾がなす業は神のみぞ知り給ふ……といふ様な冷静な態度を構へ、如何なる真の教示も、真理も、自己以外に説くものはない、又行ふ真の人間もないのだから、至善至愛の標本を天下に示し、千座の置戸を負うて万民の罪悪を救うてやらねばならぬ。自分は神の遣はし給ふ犠牲者、救世主だと信じて居るのだから始末に了へぬのである。高姫のみならず、世の中に雨後の筍の如く、ムクムクと簇生する自称予言者、自称救世主なども、すべては高姫に類したものなることは言ふ迄もない事である。 又動物は、精霊界よりする所の一般の内流の統制する所となるものである、蓋し彼等動物の生涯は宇宙本来の順序中に住する者なるが故に、動物はすべて理性を有せないものである。理性なきが故に神的順序に背戻し、又之を破壊することをなし得ないのである。人間と動物の異なる処は此処にあるのである。併しスマートの如き鋭敏なる霊獣は其精霊が殆ど人間の如く、且本来の純朴なる精神に人間と同様に理性をも有するが故に、よく神人の意思を洞察し、忠僕の如くに仕ふる事を得たのである。動物はすべて人間の有する精霊の内流を受けて活動することがある。されども普通の動物は其霊魂に理性を欠くが故に、初稚姫の如き地上の天人の内流を受くることは出来得ないものである。併し此スマートは肉体は動物なれども、神より特別の方法に依つて、即ち化相の法によつて、初稚姫の身辺を守るに必要なるべく現じ給うたからである。初稚姫も此消息をよく感知してゐるから、決して普通の犬として遇せないのである。只神が化相に仍つて、其神格の一部を現はし給ひしものなることを知るが故に、姉妹の如く下僕の如く、或時は朋友の如くに和睦親愛し得るのである。普通の人間が動物と和合した時は、全く畜生道に堕落した場合である。又人間が霊肉脱離の後、地獄界及び精霊界に在る時、現世に在る吾敵人に対し、危害を加へむとするの念慮強き時は、動物の精霊に和合して其怨恨を晴さむとするものである。故に生霊又は死霊に憑依された人間には、必ず動物の霊が相伴うてゐるものである。是は或大病に苦しんでゐる人間を鎮魂し、又は神言を奏上して之を調べる時、必ず人間の生霊又は死霊の姓名を名乗るものである。而して熟練したる審神者が之を厳しく責立つる時は、遂に人霊と動物霊と和合して其人霊の先駆者となつたことを自白するものである。狐狸や蛇、蟇、犬、猫其他の動物の霊が人間に来る時は、人間の記憶及び想念中に入つて其肉体の口舌を使用し、或は自分が駆使され合一されてゐる人霊の想念をかつて、人間の如く言語を発するに至るものである。霊界の消息に暗き学者は、狐狸其他の動物が人間に憑つて、人語を用ふるなどはあり得べからざる事である、斯の如き事を信ずる者は太古未開の野蛮人である、斯の如く人文の発達したる現代に於て尚動物が人間に憑依して人語を発するなどの不合理を信ずるは実に癲狂痴呆の極みであると嘲笑するは、現代の半可通的学者の言説である。何ぞ知らむ、彼等こそ霊界より見て実に憐れむべき頑愚者にして、且癲狂者となつてゐるのである。自分の眼が自分で見られ又自分の頭部や頸部、背部などが自身に於て見ることを得ない人間が、何うして霊界の幽玄微妙なる真理真相が分るべき道理があらう。須らく人間は神の前に拝跪し、其迂愚と不明と驕慢とを鳴謝すべきものである。 ○ 動物例へば犬、猫、鹿、牛、馬などは、惟神即ち神的順序に従つて交尾期なども一定し、決して人間の如く、何時なしに発情をするなどの自堕落な事はないものである。又植物なども霊界と自然界の順序に順応して、惟神的に時を定めて花開き実を結び、嫩芽を生じ落葉するものであつて、実に其順序を誤らない事は吾々人間の到底足許へもよれない程、秩序整然たるものである。而して犬は犬、猫は猫、馬は馬と各天稟の特性を発揮し、よく其境遇に適応せる本性を発揮するものである。又植物などは各其特性を備へ、自己特有の甘さ、辛さ、酸さ、苦さ等の本能を発揮し、幾万年の昔より其味を変へないのである。要するに芋は茄子の味に代る事を得ない、又唐辛は蜜柑の味に決してなるものでない。又同じ畑に植付けられ、同じ地味を吸収しながらも、依然として西瓜は西瓜の味、唐辛は唐辛の味、栗は栗、柿は柿の特有の形体及び味を有つて居るものである。而して、此特有性はすべて霊的より来り、其成長繁茂の度合は自然界の光熱や土地の肥痩等に依るものである。然るに人間は理性なるものを有するが故に少々土地が変つた時又は気候の激変したる土地に移住する時は、忽ち其意思を変移し、十年も外国へ行つて来た者は、其思想全く外人と同様になつて了ふものである。これが人間と動物又は植物と異なる点である。斯の如く人間は理性によつて自由に思想並に身体の色迄も多少変ずる便宜あると共に、又悪に移り易く堕落し易きものである。故に動物植物に対しては大神は決して教を垂れ給ふ面倒もなく、極めて安心遊ばし給へども、人間は到底動植物の如く神的順序を守らない悪の性を帯びてゐるが故に、特に予言者を下し、天的順序に従ふ事を教へ給うたのである。併しながら人間に善悪両方面の世界が開かれてあるが故に、又一方から言へば神の機関たる事を得るのである。願はくは吾々人間は神を愛し神を信じ、而して神に愛せられ、神の生宮として大神の天地創造の御用に立ちたいものである。 却説高姫が玉茸を採らむとしてソツと大杉の枝に登り、梟にクワンクワンと鋭き嘴にて両眼をコツかれ、アツと叫んで地上に盲猿の如く顛落し、腰骨を打つて堪へ難き苦痛に呻吟しながら、イル、イク、サールなどに介抱され、漸くにして其居間に運ばれた。されど高姫は元来剛の者なれば少々腰骨の歪んだ位は苦にする様な女ではなかつた。そして容易に痛いとか苦しいとか云ふ様な事は、其性質上絶対に口外せない。併しながら両眼をこつかれ、眼瞼忽ち充血して腫れ塞がり、光明を見る事を得ざるに至りしには、流石の高姫も余程迷惑をしたのである。 イルは、 イル『サア、高姫さま、此処が貴女のお居間ですよ。マアゆつくり本復するまでお休みなさいませ。イル、イク、サール、ハル、テルのやうな屈強な男も居りますから、どこ迄もお世話を致します、どうぞ安心して使つて下さいや』 高姫『お前はイルかな、イヤ御親切に有難う。モウ斯うなつては目が腫上つて、一寸も見えないのだから、お前達のお世話になるより仕方がない。やがて此腫が引いたら目も見えるだらうから、どうぞすまないが二三日介抱して下さい。あああ何とした不仕合せな事だらうなア。折も折とて杢助さまは躓いて倒れ、眉間を破つて苦しむで厶るなり、其痛みを直したさに、玉茸を採りに上つて、又もや私は大杉に棲んで居つた天狗の奴に両眼をコツかれ、木からおちた猿のやうなみじめな目に遇ふとは……ああ神様も何うして厶つたのだらうかな、義理天上さまも余りだ……』 と慨然として悲痛の涙をこぼしてゐる。 サール『高姫さま、本当に不思議な事ですな。玉国別さまも此河鹿峠で猿の奴に両眼を破られて、永らく御難儀を遊ばしましたが、到頭御神徳を頂いて全快遊ばし、機嫌よく宣伝の旅に出られた後へ貴女がお出でになり、又もや天狗に目をこつかれて同じ眼病に悩むとは、何といふ不思議な事で厶いませう。何か神様にお気障でもあるのぢや厶いますまいかな』 高姫『ああさうだなア。玉国別さまと云ひ、高姫と云ひ、頭にタの字のつく者は能く目に祟られるとみえる。これから神様にお詫を申して、一日も早く此目を直して頂かぬ事には、かう世の中が真暗闇では仕方がない。一時も早く天の岩戸開きをして、元の如く明るい光明世界に捻ぢ直したいものだなア、ああ惟神霊幸はへませ』 イクは、 イク『高姫さま、あなた今、暗い世界と云ひましたね、ソラ貴女の目が塞がつてるからですよ。日天様が嚇々として輝いてゐらつしやるのですから、決して御心配にや及びませぬ。のうハルよ、さうぢやないか』 高姫『ホホホホ、お前も分らぬ男だなア。此世の中が暗がりだと言つたのは人間の心が真暗がりだと云つたのだよ。決して肉体で見る世界が暗くなつたと云ふのぢやない』 イク『それでも、何ですよ、肉体で見る世界でも、時々真暗になりますからなア』 高姫『きまつた事だよ。夜になれば真暗になるのは当前だ、お前も割とは馬鹿だなア』 イク『何とマア目も見えぬ態をして居つて、剛情な婆アさまだな。まだ悪口をついてゐる。コレ高姫さま、私は夜もある代り、又新しい日天様を毎日拝んで光明世界もありますよ。お前さまはモウ斯うなつちや、常夜行く暗の世界に彷徨うてゐるやうなものだ。夜ばかりだなア』 サールはしたり顔に、 サール『ソラさうだとも、ヨルの受付を邪魔物扱ひにして厶つたのぢやもの、其報いが忽ち到来して、自分が、ヨルの世界へお這入りなさつたのだ。どうも自業自得だから仕方がないワ。何程お気の毒でも、吾々が如何ともする訳には行かないワ』 テルは、 テル『高姫さま、貴女は日出神の義理天上さまが御守護して厶るのだから、夜でも決して暗いこたアありますまい。何と云つても義理天上日出神様の生宮だ、つまりいへば日出神御自身だから、見えるでせうなア。今日は殊更に、トコギリ、天上の日出神さまは御機嫌よく嚇々の光明を輝かしてゐられますからなア』 高姫『ソラさうだとも、肉の目が何程塞がつて居つたとて、日出神の生宮だもの……なん……にもかもよく見えすいてゐるのだ。本当に神様の御神力といふものは偉いものだらう』 テルは、 テル『高姫さま、そんなら吾々は心配する必要はありませぬな。私は又お目が見えないと思つて、何くれとお世話をして上げねばなるまいと思うてゐたが、お目が見えるとあらば殊更に気をつけて、お世話をして上げる心要も厶いますまい。おい、イク、イル、ハル、サール、お前等も安心せい。流石は高姫さまだ、目をふさいで居つても、よく見えるといのう、イツヒヒヒヒヒ』 と小さく笑ひ、腮をしやくり、肩をゆすつて見せる。四人は一度にふき出し、 (イク、イル、ハル、サール)『プツプツプツクワツハハハハハ』 高姫『これ、お前等は私がこれ程負傷をして困つてゐるのに、それ程面白いのかなア。不人情者奴が。待つてゐなさい、今に初稚姫が帰つて来たら、告げて上げるから……』 テル『オイ、形勢不穏になつて来たぞ。地震雷火の雨の勃発せない間に退却々々、全体進め、一二三』 と云ひながら、ドヤドヤと長廊下を伝ひ、受付の方面を指して走り行く。 イルは只一人次の間に身をかくし、高姫の容子を考へて居た。これは決して悪意ではない。もしも高姫が一人で困つた時には助けてやらうといふ親切な考へからであつた。忽ちウーといふ唸り声が聞えて来た。イルは何物ならむとソツと襖を開けて高姫の居間を覗き込んだ。どこから来たか締め切つてある座敷へ、スマートがヌツと現はれ、高姫の前三尺許り隔てて、チヨコナンと坐つてゐる。カラコロと下駄の足音が近づいて来る。これは云ふ迄もなく初稚姫が森林内を暫く逍遥して帰つて来たのである。初稚姫は元より杢助の妖幻坊なることを知つてゐたから、高姫の依頼によつて、正直に杢助を探しに行くやうな馬鹿ではない。されど高姫の気休めの為に暫くの間、森林内を逍遥して帰つて来たのである。 (大正一二・一・二一旧一一・一二・五松村真澄録)
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霊界物語 52_卯_小北山の文助の改心物語 01 真と偽 第一章真と偽〔一三三七〕 人間の内底に潜在せる霊魂を、本守護神又は正副守護神と云ふ。そして本守護神とは、神の神格の内流を直接に受けたる精霊の謂であり、正守護神とは一方は内底神の善に向ひ、真に対し、外部は自愛及び世間愛に対し、之をよく按配調和して広く人類愛に及ぶ所の精霊である。又副守護神とは其内底神に反き、只物質的躯殻即ち肉体に関する欲望のみに向つて蠢動する精霊である。優勝劣敗、弱肉強食を以て最大の真理となし、人生の避く可からざる径路とし、生存競争を以て唯一の真理と看做す精霊である。而して人間の霊魂には、我神典の示す所に依れば荒魂、和魂、奇魂、幸魂の四性に区分されてゐる。四魂の解説は已に既に述べたれば茲には省略する。荒魂は勇、奇魂は智、幸魂は愛、和魂は親であり、而して此勇智愛親を完全に活躍せしむるものは神の真愛と真智とである。今述べた幸魂の愛なるものは人類愛にして、自愛及び世間愛等に住する普通愛である。神の愛は万物発生の根源力であつて、又人生に於ける最大深刻の活気力となるものである。此神愛は大神と天人とを和合せしめ、又天人各自の間をも親和せしむる神力である。斯の如き最高なる神愛は、如何なる人間も其真の生命をなせる所の実在である。此神愛あるが故に、天人も人間も皆能く其生命を保持する事を得るのである。又大神より出で来る所の御神格そのものを神真と云ふ。此神真は大神の神愛に依つて、高天原へ流れ入る所の神機である。神の愛と之より来る神真とは、現実世界に於ける太陽の熱と其熱より出づる所の光とに譬ふべきものである。而して神愛なるものは太陽の熱に相似し、神真は太陽の光に相似してゐる。又火は神愛そのものを表し、光は神愛より来る神真を表はしてゐる。大神の神愛より出で来る神真とは、其実性に於て神善の神真と相和合したものである。斯の如き和合あるが故に、高天原に於ける一切の万物を通じて生命あらしむるのである。 愛には二種の区別があつて、其一は神に対する愛であり、一は隣人に対する愛である。又最高第一の天国には大神に対する愛あり、第二即ち中間天国には隣人に対する愛がある。隣人に対する愛とは仁そのものである。此愛と仁とは、何れも大神の神格より出で来つて天国の全体を成就するものである。高天原に在つて大神を愛し奉るといふ事は、人格の上から見て大神を愛するの謂ではない、大神より来る所の善そのものを愛するの意義である。又善を愛するといふ事は、其善に志し、其善を行ふや、皆愛に依つてなすの意味である。故に愛を離れたる善は、決して如何なる美事と雖も、善行と雖も、皆地獄の善にして所謂悪である。地獄界に於て善となす所のものは、高天原に於ては大抵悪となる。高天原に於て悪となす所のものは、すべて地獄界には之を善とさるるのである。それ故に神の直接内流によつて、天国の福音を現界の人類に伝達するとも、地獄界に籍をおける人間の心には、最も悪しく映じ且感ずるものである。故に何れの世にも、至善至愛の教を伝へ、至真至智の道を唱ふる者は、必ず之を異端邪説となし、或は敵視され、所在迫害を蒙るものである。併し斯の如き神人にして、地獄界の如何なる迫害を受け、或は身肉を亡ぼさるる事ありとも、其人格は依然として死後の生涯に入りし時、最も聖きもの、尊きものとして、天国に尊敬され且愛さるるものである。次に隣人を愛する仁そのものは、人格より見て其朋友知己等を愛するの謂ではない。要するに大神の聖言即ち神諭より来る所の神真を愛するの意義である。又神真を愛するといふ事は、其真に志し、真を行ふの意義である。以上両種の愛は善と真との如くに分立し、善と真との如くに和合する。 此物語の主人公なる初稚姫は、即ち二種の愛、善と真との完全に具足したる天人にして、言はば大神の化身でもあり又分身でもあり、或時は代表者として其神格を肉体を通して発揮し給ふが故に、能く善に処し、真に居り、如何なる妖魅に出会するとも、少しも汚されず犯されずして、己が天職を自由自在に発揮し得らるるのである。之に反して高姫は総て愛善と信真とを口にすれども、其内底は神に向つて閉塞され、地獄に向つて開放されてゐるが故に、其称ふる所の善は残らず偽善である。偽善とは表面より見て、即ち神を知らざる人の目に至善至徳のものと見ゆる事がある。又至真至誠の言語と見ゆるも、それは総て地獄界に向つてゐる精霊の迷ひより来るものなるが故に、一切虚偽であり狂妄である。例へば雪隠の虫は糞尿の中を至上の天国となし、楽園となし、吾肉体の安住所とし、且此上なき清きもの美はしきものとなすが如く、地獄界に向つて内底の開けたる者は、至醜至穢なる泥濘塵芥及び屍の累々たる所、臭気紛々たる所を以て、此上なき結構な所と看做すものである。併しながら高姫の肉体としては、矢張肉の目を以て善悪美醜を判別する能力は欠いでゐない。それ故に或時は殆ど善に近き行ひをなし、又真に相似せる言語を用ふることがある。けれども肝心の内底が地獄界に向つてゐるのと、外部より来る自愛心と肉体的兇霊界の襲来とによつて、常に其良心を誑惑さるるを以て一定の善と真とに居る事は出来ない。又純然たる悪に居る事も出来得ないのである。併し高姫の善と信ずる所、真と思ふ所は、以上述べた如く、皆偽善なる事は言ふまでもない。 初稚姫は、愛より来る所の大神の神格より帰来する天人の薫陶を、其至粋至純なる霊性に摂受してゐたのである。総て高天原を成就する者は、何れも愛と仁とによらぬ者はない。故に初稚姫の人格そのものは所謂高天原の移写であり、大神の縮図である。故に其美はしき事は到底言語に絶し、形容す可からざる底のものである。其面貌言語乃至一挙手一投足の中にも、悉く愛善の徳を表はし、信真の光を現じ給ふのである。故に初稚姫の如き地上の天人より溢れ出づる円満具足の相は、愛そのものによつて充されてあるが故に、何人と雖も、姫の前に来り、姫の教を受け、其善言美詞に接し、席を交へ交際する時は、衷心よりして自然に動かさるるに至るのである。されども悲しいかな、高姫は普通の人間と異なり、天国、地獄の両界の中に介在する所の中有界に身をおきながら、尚も肉体的精霊即ち兇党界、妖魅界に和合せるが為に、初稚姫の前に出づる時は、忽ち癲狂となり痴呆となり、其美貌を見る時は、何処ともなく直に恐怖心を起し、且嫉妬し、善言美詞に接すれば、忽ち頭痛み、胸つかへ、嫌忌の情を起すに至るを以て、如何に初稚姫が神力を尽し、愛と善と真を以て是に対し、あく迄も和合せむとすれども、之を畏れて受入れないのみならず、陰に陽に排斥し、且滅尽せしめむことを望むのである。而して或時は初稚姫を非常に尊敬する時もあるのである。実に名状す可からざる不可思議なる状態に身を置いてゐるものといふべきである。 斯くの如く時々刻々に其思想感情の、姫に対してのみならず、一般の人に対して変転するは、彼れが自ら称ふるヘグレのヘグレのヘグレ武者たる珍思怪想を遺憾なく暴露してゐるのである。而して高姫はヘグレのヘグレのヘグレ武者を以て唯一の善となし、徳となし、愛の極致となし、信の真と確信してゐるのである。高姫の思想は神出鬼没、動揺常なく、機に臨み変に応じて神業に参加する事を以て、最第一の良法と確信してゐるのだから、如何なる愛を以てするも、信を以て説くも、之を感化する事が出来ない、精神的の不治の難病者である。 総て人間各自の生命に属する所の霊的円相なるものがあつて、此円相は一切の天人や一切の精霊より発し来り、人間各自の身体を囲繞してゐるものである。各人の情動的生涯、従つて思索的生涯の中より溢れ出づるものである。情動的生涯とは愛的生涯の事であり、思索的生涯とは信仰的生涯の事である。総て天人なるものは愛によつて其生命を保つが故に、愛そのものは天人の全体であり、且天人は善徳の全部であると云つても可いのである。愛の善と信の真との権化たるべき初稚姫は、其霊的円相は益々円満具足して、智慧証覚の目より見る時は、其全身の周囲より五色の霊光が常住不断に放射しつつあるのである。之に反して、高姫はすべて虚偽と世間愛的悪に居るを以て、霊的円相即ち霊衣は殆ど絶滅し、灰色の雲の如き三角形の霊衣が僅かに其肉身を囲繞してゐるに過ぎない。之を神界にては霊的死者と名付けてゐる。霊的円相の具足せる神人には、如何なる兇霊も罪悪も近寄ることは出来ない。若し強ひて接近せむとすれば、其光に打たれ眼眩み、四肢五体戦慄し、殆ど瀕死の状態に陥るものである。之に反して円相の欠除せる高姫の身辺には、一切の兇霊が臭きものに蠅が群がる如く、容易に且喜んで集合するものである。現界の愚眛なる人間は、斯の如き悪霊の旅宿否駐屯所たる人間を見て、信仰強き真人と看做し、或は其妖言に誑惑されて、虚偽を真となし、悪を善と認め、随喜渇仰しておかざるものである。実にかかる人間は、神の目より見ては精神上の不具者であり、且地獄の門戸を競うて開かむとする妖怪変化と見得るものである。 人間は其愛の善悪の如何によつて、其面を向ける所を各異にしてゐる。初稚姫の如き天人は、大神及隣人に対して、真の愛を持つてゐるが故に常に其面は大神に向つてゐる。故に何となく威厳備はり、且形容し難き美貌を保つ事を得たのである。又高姫は自愛の心即ち愛の悪強きが故に、其面を常に神に背け、暗黒の中に呻吟しながら思ふやう……かくの如き暗黒無明の世界を、吾々は看過するに忍びない。故に自分は此暗黒時代に処し、天下万民救済の為に、いろいろ雑多に身を変じ、ヘグレ武者となつて、天の岩戸を開き、真の光明に世界を照らし、万民を助けねばならない。天国も浄土もなく、すべて三界は暗黒界と化し去れり。故に吾は神の命を受けて、常暗の世を日の出の御代に捻ぢ戻さねばおかないと、兇霊の言に誤られて蠢動してゐるのである。それ故常に心中に安心する事なく、如何にして自己の向上をなさむか、三界の万霊を救はむかと、狂熱的に蠢動するのである。何ぞ知らむ、開闢の始めより天界の光明は赫灼として輝き給ひ、数多の天人は各団体に住して、其光輝ある生涯を送りつつある事を。併し茲に一言注意すべき事は、大本開祖の神諭に……此世は暗雲になつてゐるから、日の出の守護に致すが為に因縁の身魂が表はれて、五六七成就の御用に尽す……とあるのは、これは決して高姫の言ふ如く三界皆暗しといふ意義ではない。大神より地獄道に陥れる此現界をして、天国浄土の楽土となし、一人も地獄界に堕さざらしめむが為である。要するに霊界現界を問はず、地獄なるものを一切亡ぼし、その痕跡をも留めざらしめむと計らせ給ふ仁慈の大御心より出でさせ給うたのである。然らば人或は云はむ、三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ……とあるではないか、三千世界とは天界、現界、地獄界のことである。天界は已に光明赫々として無限に開け居るにも拘らず、何をもつて三千世界と言はるるか、果してこの言を信ずるならば、天界もまた暗黒界と堕落せるものなりと断定せざるを得ないではないかといはねばならぬ……と。かくの如きは其一を知つて其二を知らざる迂愚者の論旨である。三千世界一度に開くといふは、現界も地獄界も天界も一度に……即ち同様に光明赫々たる至喜至楽の楽園となし、中有界だの、地獄界だの、天界だの、或は兇霊界だのいふ、いまはしき区別を取除き、打つて一丸となし、一個の人体に於けるが如く、単元として統治し給はむが為の御神策を示されたるものたることを悟るべきである。一度に開く梅の花とか、須弥仙山に腰をかけとか云ふ聖言は、要するに神に向はしむるといふ意義である。如何なる無風流な人間でも、梅の花の咲きみち、馥郁たる香気を放つを見れば、喜んで之に接吻せむとするは、人間に特有の情である。また須弥仙山とは宇宙唯一の至聖至美にして崇高雄大なる山の意味である。何人と雖も、雲表に屹立せる富士の姿を見る時は、其雄姿にうたれ、荘厳に憧がれ、之を仰がないものはない。又俯いては決して富士を見る事は出来ない。故に神は所在人間及精霊をして其雄大崇高なる姿を仰がしめ、以て神格に向上せしめ、神の善に向はしめむが為である。併し神に向ひ、或は須弥仙山を仰ぐといふは、現界に於ける富士山そのものを望む時の如く、身体の動作によつて向背をなすものでない。何となれば空間の位地は其人間の内分の情態如何によつて定まるが故に、方位の如きも現界とは相違してゐるのは勿論である。人間の内底の現はれなる面貌の如何によつて其方位が定まるのである。故に霊界にては吾面の向ふ所即ち太陽の現はるる所である。現界にては太陽は東に昇りつつある時と雖も、西を向けば其太陽は背に負うてゐるが、霊界にては総て想念の世界なるが故に、身体の動作如何に関せず、神に向つて内底の開けた者は、いつも太陽に向つてゐるのである。併しながら斯くの如き天人の境遇にある人格者は霊界に在つて、自分より大神即ち太陽と現じ給ふ光熱に向ふにあらず、大神より来る所の一切の事物を喜んで実践躬行するが故に、神より自ら向はしめ給ふ事となるのである。平和と智慧と証覚と幸福とを容るるものは高天原の器である。之を称して神宮壺の内といふ。此壺は愛であつて、大小となく神と相和する所のものを容るる器である。現界に於て、智慧証覚の劣りし者、又は愛善の徳薄く、信真の光暗かりし者が、天界の天人又は地上の天人やエンゼルと相伍して遂に聖き信仰に入り、愛善の徳を養ひ、信真の光を現はし、遂に智慧証覚を得、高天原の景福を得るに至らしむべく、ここに神は精霊に其神格を充して予言者に来らしめ、地上の高天原即ちエルサレムの宮屋敷に於て、天国の福音を宣べ伝へさせ給うたのは、実に至仁至愛の大御心に出でさせ給うたからである。善の為に善を愛し、真の為に真を愛し、之を一生涯深く心に植ゑ付け、実践躬行したるにより、終に罪悪に充ちたる人間も天国に救はれて、其不可説なる微妙の想を悉く摂受し得べき聖場を開かせ給うた。之を神界にては地の高天原と称へられたのである。 かくも尊き神界の御経綸をも弁へず、且つ信ずること能はずして、自己と世間とのみを愛する者は、仮令膝元に居つても之を摂受することは到底出来ない。自己を愛し、世間のみを愛する者は、却て此等の御経綸地を否定し、或は之を避け、之を拒み、甚しきは神界の経綸場を破壊せむとするに至るものである。されども神は飽く迄も天人の養成器たる人間を愛し給ふが故に、可成く彼等に接近し、彼等の心の中に流入せむとし給へども、彼等は却て之を恐れ、雲霞と逃去つて、忽ち地獄界に飛び入り、又彼等と相似たる自愛を有する者と相交はらむとするものである。……灯台下暗し、足許から鳥が立つても分らぬ盲聾ばかりであるぞよ。神は一人なりとも助けたさに、いろいろと諭せども、こはがりて皆逃げて帰ぬ者ばかりで、助けやうはないぞよ。神は可哀相なれども、余り人民が欲に呆けて、霊を悪神に曇らされてゐるから、真の事が耳へ入らぬぞよ。神も助けやうがないぞよ……と歎声をもらされてあるは、かかる人間に対して愛憐の涙を注ぎ給うた聖言である。 初稚姫の御再誕なる大本開祖は、神命を奉じて地の高天原に降り、万民を救はむと焦慮し給ふに引替へ、其肉身より生れ出でたる肉体に正反対のものあるは、実に不可説の深遠微妙なる御神策のおはします事であつて、大本神諭に……吾児に約まらぬ御用がさして善悪の鏡が見せてあるぞよ云々と。信者たる者は此善悪両方面の実地を観察して、其信仰を誤らない様にせなくてはならぬのである。ああ惟神霊幸倍坐世。 (大正一二・一・二九旧一一・一二・一三松村真澄録)
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霊界物語 56_未_テルモン山の神館1 03 仇花 第三章仇花〔一四三三〕 さつき待つ花橘の香を嗅げば 昔の人の袖の香ぞする 夢にも結ぶ恋しき吾背の君は如何なしつらむと、恋路も深き思ひ草。 花いろいろのブラックリストを経て咲き出づる卯の花や、燕子花、紫に染る山吹の色香に愛でて唯一人トボトボと青野ケ原を辿り行く。花は吾身の進み行く道の辺に笑へども、唯一声の訪れもせず、其足音さへも聞えず、百鳥は四辺の山林に啼き叫べども、吾涙未だ尽きず。実にも尽きざる恋の色、百花の種子、緑、紅、白、赤、黄、爛漫と咲き出づる恨は深し深百合や、神の恵の深見草、心を寄せて進む身の、恋しき吾が夫は妾の心を白露の、梢に霜はおくとても、尚常磐なれや、橘の目覚草のいと清し、君の御身には何事も恙在せ玉ふ事は無くとも、何方に坐しますか、昔の恋を忍ぶ草、春めき渡りて花霞、立上り行く空を見すてて行く雁は、花無き里に住みや習へるかと、心空なる疑ひに満ちぬ。テルモン山の神苑に咲き誇りたる若芽の花を見捨ててはや一年、顧み玉はぬ夫の情無さ。仮令此身は屍を野辺に晒すとも、思ひつめたる恋の意地、足乳根の父母の許さぬ恋に焦れし身は、款冬誤つて晩春の風に綻び、躑躅は夜遊の人の折を得て、驚く春の夢の中、胡蝶の戯れ色香に愛でしも、今となり思ひ廻せば心の仇花なりしか。今や吾が身は夏草の、湿茸に交る姫百合の、手折る人なき身の浅間しさ。アア恋しき鎌彦の君は、何れにましますか、唯一目会はまほしやと、吹来る風の響にも、とつおひつ心を悩ませ乍ら、北へ北へと進み行く。 斯る処へ前方より、 とぼとぼ来る一人の男、 女を見るより佇みて、 いぶかし気にも眺め入る。 女は見るより驚きの声を張り上げて、 ケリナ『アア貴方は恋しき鎌彦さまぢや厶いませぬか、何うしてマアこんな処に居られましたか。妾は貴方がエルシナ谷の庵を出て、些とばかり商売をして金を儲けて来るからと仰有つて、駱駝を引つれ御出でになつた其後は、訪ふ人も無き一人住居、晨夕の一人寝も猛獣の声に驚[※ルビは「おどろ」ではなく「おど」]かされ、秋の夕の虫の音を聞いては哀傷の涙にくれ、憂重つて心は益々感傷的となり身も世もあられぬ思ひに世を果敢なみて、エルシナ川に身を投げたと思ひきや、名も知らぬ斯様な処へ迷つて参りました。さても嬉しや斯様な処で貴方に御目に掛らうとは夢にも存じませなんだ、お懐しう厶います』 と抱きつけば鎌彦は振り放し、 鎌彦『ケリナ姫、お前も定めて苦労をしたであらう、誠にすまなかつた。併し乍ら私はお前には未だ隠して云はなかつたが、お前と結婚する前に、恋の仇と思ひ込み、ベルジーと云ふ男をうまくチヨロマカして淵に投げ込み、生命をとつた其のお蔭で、お前と嬉しい仲となり、両親の目を忍んでエルシナ谷に庵を結び、偕老同穴を契る折しも夜な夜なベルジーの怨霊現はれ、恐ろしい顔をして睨みつけるのでお前の側に居る事も出来ず、又お前の顔がベルジーに見えて来て怖ろしくて仕方が無いので、行商に事寄せ、駱駝を引連れて、お前に別れ、彼方此方と彷徨ふうち三人組の泥坊に出逢ひ、持物一切を掠奪され赤裸の儘、ライオン河に投げこまれ、罪の報ひで今は冥途の八衢に彷徨ふて居るのだ。何卒私の事は思ひ切つてくれぬと何時迄も天国へ行く事が出来ないのだ。お前は未だ此処へ来る精霊ではないやうだ。何とかして早く引返し、御両親様に御詫をなし、相当の夫を持ち一生を送つてくれ。それが私の頼みだ』 と掌を合し涙と共に拝んでゐる。 ケリナは鎌彦の言葉に不審の胸を抱き乍ら頭を傾けて、寸時思案に沈んでゐた。暫くあつて顔を上げ、 ケリナ『モシ鎌彦さま、今初めて貴方の御言葉を聞いて驚きました。お前は彼の愛らしいベルジーさまを殺したのですか。何故そんな悪い事をして下さいました。あのベルジーさまは実の所は妾の兄で厶います。お父さまが内証女を孕ませて母に隠して首陀の家へやつたので厶いますよ。妾は其事を父から聞いて居りましたから、是迄ベルジーさまが私を妹と知らず幾度も言ひ寄り遊ばした事が厶いますが、そこは体よく断つて居りました。思へば思へば恋しき夫は兄の仇であつたか。其お話を聞くにつけ、貴方が憎らしいやら、恋しいやら吾乍ら吾心が怪しうなつて参りました』 鎌彦『私は一度ベルジーさまに御目に掛つてお詫をせなくてはなりませぬ。夫故霊界へ来てから所々方々と其所在を探し一言御許しを頂きたいとあせつて居りますが、噂に聞けば、何うやら天国にお出でになつたさうで御目にかかる事も出来ず、実に困り切つて居ります。貴方が兄妹とあれば御兄さまに代つて何卒一言許すと言つて下さいませ。さうすれば此鎌彦も罪が解けて天国の生涯が送れるでせう。何卒今迄の厚誼に一言許すとの御言葉を頂き度う厶います』 ケリナ『妾が貴方を許すといふ資格は厶いませぬ。又妾も兄の仇と知らずに夫婦になつた罪は中々容易なものでは厶いますまい。屹度地獄のドン底に堕ちねばならぬ此霊魂、どうして左様な事が出来ませうか。アア残念で厶います』 と泣き倒れる。 鎌彦は双手を組み草生茂る地上にドツカと坐し、悔悟の涙に暮れてゐる。斯る処ヘスタスタとベル、シャル、ヘルの三人、覆面頭巾の黒装束、長い剣を腰にぶら下げ乍ら、ドシドシとやつて来た。ベルは鎌彦の姿を見るより驚いて、 ベル『ヤア、お前はライオン河の川縁に於て駱駝を率ゐ行商にやつて来た旅人ではなかつたか』 鎌彦『ウン、さうだ。あの時の泥坊はお前等三人であつたなア。到頭天命尽きてお前も冥途へ送られたのだな』 ベル『馬鹿をいふない。貴様は気が違ふたのか。此処は冥途ぢやないぞ。俺達は今テルモン山の麓を通り、泥坊稼ぎに歩いて居る最中だ。ライオン河の激流へ落し込んでやつた以上は其方は最早冥途へ行つたと思ひしに、さてもさても生命冥加の奴ぢや。何処かの奴に助けられ、こんな処へ彷徨うてゐやがるのだな。アハハハハ、……アツお前はケリナとかいふナイスぢやないか。何時の間にこんな処へ出て来たのぢや。サア、此処で見つけたを幸ひ俺の女房になるのだぞ』 ケリナ『ホホホホホ、これはこれは泥坊の親方様、貴方はエルシナ川に落ち込んで妾等と一緒に冥途へ彷徨ひ来り乍ら、未だ泥坊をやらうとなさるのか。好加減に改心をなさいませ』 ベル『ハテナ、さう聞くと、エー、此奴等二人の奴とお前の取合ひから格闘を始め、深淵へ落込んだと思つたら、其時に矢張り死んだのかなア。ハテ、合点の行かぬ事ぢやワイ。俺が殺したと思ふ男は此処に立つている。又ナイスも此処にゐる。さうして四辺の景色も別に変つてゐないやうだし、合点の行かぬ事だ。オイ、ヘル、シャル、貴様は此処を何と思ふか』 ヘル『ウン、どうも俺達には現界とも幽界とも見当はつかないわ』 シャル『夢でも見てゐるのぢやなからうかなア』 鎌彦『決して此処は現界ぢやありませぬよ。モウ少し向ふへ行つて見なさい。伊吹戸主神様のお関所が厶います。さうしたらスツカリとお前は死んでゐるか、生きてゐるか判るでせう。私もお前の御蔭で生命をとられ、霊界へ来たので生前に人を殺した罪に苦しめられてゐるよりは、少し許り苦しさが薄らいだやうに思ふ。併し乍ら人を殺した罪は何処迄も消ゆるものではない。お前も又私の肉体を殺したのだから、屹度其罪は除れまい。併し乍ら神様は吾々を地獄へ堕さうとはなさらぬ。此中有界へ彷徨はして天晴れ誠の霊身になり、神の光を身に浴び天国の生涯を送る日を待たせ玉ふのだ。これからお前もモウ斯うなつては仕方がないから悔い改めて善道へ立帰り、天国の生涯を送つたがよからう』 ベル『ハーテ、訳の分らぬ事ばかり言ふ奴が現はれたものだなア』 鎌彦『サア、皆さま、これから私が案内を致しませう』 と先に立つ。男女四人は後に従ひ、草茫々と生え、種々の花咲き匂ふ青芝道を心欣々進み行く。 漸くにして八衢の関所に着いた。白と赤との守衛は例の如く儼然として控へてゐる。鎌彦は何時の間にやら姿は見えなくなつてゐた。赤の守衛は四人の姿を見て、まづ第一にベルを呼び出し、一々生前の罪状を取り調べ、 赤『アアお前は何うしても地獄行きだなア。可愛相だけれど、自分が造つた地獄だから、アア仕方がないわ』 ベル『成る程、私は仰せの如くよからぬ事を致して来ました。併し乍らコレも不知不識の過ちで厶いますから、何卒許して頂きたう厶います。神様は愛を以て御本体となさるぢやありませぬか。何処迄も悪人を悪人として罰せず、地獄の苦しみを課せず、天国に救つて下さるが神様だと思ひます。悪人を罰するのならそれは決して愛とは申されますまい。愛の欠けた神は最早神ではありますまい』 赤『お前は直に地獄へ行くべきものだが、今此処でエンゼルが御説教をなさるから、夫に依つて悔改め、エンゼルの御言葉が耳に入り、心に浸潤したならば屹度天国へ救はれるだらう。併し乍らお前の造つた悪業では、エンゼルの御言葉は耳に入るまい。人間が霊肉脱離して霊界に来り八衢の関所を越えて伊吹戸主の館に導き入れられた時には、エンゼルが冥官の調べる以前に一応接見して、大神様や高天原及び天人的生涯の事をお知らせになり、諸々の善や、真実を教へて下さるやうになつてゐる。併し乍らお前の精霊が世に在つた時に、神は屹度八衢に於て善悪の教をなし其心の向けやうに由つて或は天国へ、或は地獄へ自ら行くと云ふ事は生前より既に承知し乍らも心の中に之を否んだり、或は之を軽く見てゐたから、何うしてもエンゼルの言葉を苦しくて聞く事は出来まい。エンゼルの御面が怖ろしくなり胸は痛み、居堪たまらず悦んで自分の向ふ地獄へ自ら飛び込むであらう。神は決して世界の人間の精霊を一人も地獄へ堕さうとは御考へなさるのではない。其人が自ら神様に背を向け光に反き地獄に向ふのである。其地獄はお前が現世に居つた時既に和合した所のもので、悪と虚偽とを愛する心の集まり場所である。大神様はエンゼルの手を経たり、且高天原の内流に依つて各精霊を自分の方へ引寄せむと遊ばすけれども、素より悪と虚偽とに染み切つたお前達の精霊は、仁慈無限の神様の御取計らひを忌嫌ひ、力限り之に抵抗し、自分の方から神様を振り棄て離れ行くものである。自分が所有する処の悪と虚偽は鉄の鎖を以て地獄へ自ら引入るるが如きものである。謂はばお前等が自由の意志を以て自ら地獄へ堕落するものだから神様は之を見て愛と善と真との力を与へ、一人も地獄へ堕そまいと焦せつて厶るのだ。どうぢやこれからエンゼルの御話を聞いて、神様に反いた悪と虚偽とをスツカリと払拭し天国の生涯を送る気はないか』 ベル『ハイ、兎も角人間は意志の自由を束縛される位苦しい事は厶いませぬ。天国へ行つて自分の意志に合はぬ苦しい生活をするよりも、一層の事地獄へ行つて力一杯活動して見たう厶います』 赤『ウン、さうだらう。お前はどうしても地獄代物だ。各所主の愛に依つて精霊の籍が定まるものだから、どうしても助けやうがないワ。併し乍ら此生死簿には未だお前は此処へ来る精霊ぢやないから、此関所は越ゆる事は出来ない』 ベル『ハテ、合点が行かぬ事だなア。生きて居るのか、死んで居るのか、自分には少しも合点が行かぬ。どうも死んだやうな覚えもなし、だと云ふてエルシナ川へ飛び込んだ事は確だし、其間に人に救はれて生きてゐるのか、或は死んでからも残つて居る意志がハツキリしてゐるのか、どうも其点が私には分りませぬがなア』 赤『ウン、そらさうだ、わかるまい。仮令肉体は亡ぶるとも、人間の本体たる精霊は意志想念を継続してゐるなり、又生前と同様の肉体を保つて居るのだから、合点の行かぬのは無理もない。併し乍ら此処は幽冥界だ。霊肉脱離後の人間(即ち精霊)の来る処だ。サア、早く此処を立去れ。やがて誰かが迎へに来るだらう。モシ迎へに来なかつたならば、お前の好きな地獄へ行くだらう。サア早く立てツ』 と金棒を以て突出せば、ベルはヨロヨロとし乍ら、傍の茫々たる草の中に倒れて了つた。 (大正一二・三・一四旧一・二七於竜宮館二階外山豊二録)
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霊界物語 57_申_テルモン山の神館2 01 大山 第一章大山〔一四五一〕 金輪奈落の地底から風輪、水輪、地輪をば 貫き出でたる大高峰伯耆の国の大山は 日本大地の要なり白扇空に逆様に 懸りて沈む日本海八岐大蛇の憑依せる 大黒主の曲津見が簸の川上に割拠して 風雨を起し洪水おこし狭田や長田に生ひ立ちし 稲田の姫を年々に悩ませ人の命をば 取らむとせしぞ歎てけれ大正十二癸の 亥年の春や如月の日光輝く夜見ケ浜 小松林の中央に堅磐常磐に築きたる 神の恵みの温泉場浜屋旅館の二階の間 いつもの通り横に臥し真善美愛第九巻 波斯と月の国境朝日もきらきらテルモンの 山の館に住まひたる小国別が物語 三千年の末迄もその功を残したる 三五教の三千彦が難行苦行の経緯を いよいよカータルブラバーサマハーダルマ・タダアガタ 唯一言も漏らさじと東の窓に向ひつつ 万年筆を走らせる夜見の浜風颯々と 吹き来る度にカーテンがバタリバタリと拍子取り 言霊車押し来るアヽ惟神々々 御霊幸倍ましまして五十と七つの物語 完全に委曲に述べ終へて綾の聖地の家苞に なさしめ給へと大神の御前に謹み願ぎまつる 朝日は照るとも曇るとも月は盈つとも虧くるとも 仮令大地は沈むとも誠一つの三五の 教の主意を一通り写さにやならぬ神の法 湯にあてられて瑞月が腹をガラガラ下らせつ 下らぬ理窟を交ぜて浜辺で取れた法螺貝の 止度もなしに吹き立てる ○ 三五教は大神の直接内流を受け、愛の善と、信の真をもつて唯一の教理となし、智愛勇親の四魂を活用させ、善の為に善を行ひ、用の為に用を勤め、真の為に真を励む。故に其言行心は常に神に向ひ、神と共にあり、所謂神の生宮にして天地経綸の主宰者たるの実を挙げ、生き乍ら天国に籍を置き、恰も黄金時代の天人の如く、神の意志其儘を地上の蒼生に宣伝し実行し、以て衆生一切を済度するをもつて唯一の務めとして居たのである。故にバラモン教ウラル教其他数多の教派の如く、自愛又は世間愛に堕して知らず識らずに神に背き、虚偽を真理と信じ、悪を善と誤解するが如き行動は取らなかつたのである。神より来れる愛及び善並に信真の光に浴し、惟神の儘に其実を示すが故に、麻柱の教と神から称へられたのである。自愛及び世間愛に堕落せる教は所謂外道である。外道とは天地惟神の大道に外れたる教を云ふ。これ皆邪神界に精霊を蹂躙され、知らず知らずに地獄界及び兇党界に堕落したものである。外道には九十五の種類があつて、其重なるものは、カビラ・マハールシといふ。このカビラ・マハールシは、即ち大黒主の事であり、三五教の真善美の言霊に追ひ捲られて自転倒島の要と湧出したる伯耆の国のマハールシ(大山)に八岐大蛇の霊と共に割拠し、六師外道と云つて外道の中にても最も勝れたる悪魔を引き率れ天下を攪乱し、遂に素盞嗚尊のために言向け和されたのである。六師外道とは、ブランナーカーシャバ、マスカリー・ガーシャリーブトラ、サンジャイーヴィ・ラチャーブトラ、アザタケー・シャカムバラ、カクダカー・トヤーヤナ、ニルケラントー・ヂニヤー・ヂブトラの六大外道である。此外道は古今東西の区別なく今日と雖も尚天下を横行濶歩し、暴威を逞しうして居るのである。 ブランナーカーシャバとは君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友等の道を軽んじ、現界の一切を無視し、生存競争、優勝劣敗をもつて人生の本義となし、軽死重生の主義を盛に主張し、宇宙一切は総て空なり、無なり、人間の肉体は死滅するや否や煙の如く消え果て、死後の霊魂等は決して残るものでない。果して死後に霊魂ありとすれば、例へば唐辛子を焼いて灰となし、尚ほ其後にも唐辛子の辛味存するや、決して存在せざるべし。是を思へば人間死後の生活を論ずるは迂愚の骨頂なり、迷妄の極みなりと断案を下す唯物論者の如きものである。次に、 マスカリー・ガーシャリーブトラは、一切衆生の苦悩も歓楽も決して人間の行因に依るものではない。何れも自然に苦楽が来るものである。例へば茲に一つの種子を蒔くに、其種子は肥えた土の日当りよき所に蒔かれたのは、他に勝れて発達し、枚葉繁茂し、麗しき花を咲かせ、麗しき実を結び、人に愛せらるるに引き替へ、同じ種子でありながら、痩せた土地に蒔かれ、或は陰裏に蒔かれた時は十分の光線を受くる事能はず其発育も悪しく花も小さく、満足な実も結ばないやうなものである。然るに其種子に善悪は決してない。同じ木から取つた同じ種である。又其種には決して善の行ひも悪の行ひもない。唯蒔かれた所の場所即ち境遇によつて、或は歓喜に浴し、或は苦悩に浸るのである。故に人間は、蒔かれた所が悪ければ、何程気張つてもよき場所に蒔かれた種に勝つ事は出来ない。故に人間の苦楽には決して行因はないものだ、と主張する無因外道である。又是を自然外道とも云ふ。次に、 サンジャイーヴィ・ラチャーブトラと云ふのは、人間は決して修業なんかする必要がない。天地の草木を見ても春が来れば自然に花が咲き、秋が来れば自然に実が生り、冬が来れば自然に葉が散る如く、八万劫が来れば自然に人間の苦は尽きて道を得るとなすものである。要するに自暴自棄、惟神中毒の外道であつて、是を無因外道の一種となすのである。二十世紀の三五教には此の種の人が随分混入して居るやうである。次に、 アザタケー・シャカムバラ、此外道は現世に於て、何でも構はぬ、苦しみさへして置けば、きつと他生に於て、天国に生れ、無限の歓楽に浴し、百味の飲食を与へられ、栄耀栄華に平和の生活を永遠無限に送られるものとなし、人間として営むべき事業も為さず深山幽谷に身を潜め、火物断をしたり、穀食を避け、松葉を噛み、芋などを掘り、空気を吸ひ、寒中真裸、真裸足となりて寒さを耐へ、夏は蚊に刺されて所有苦しみをなし、其苦の報いを来世に得むとする所謂苦行外道である。此外道も亦今日は随分彼方此方に現はれて居る。さうして真理に暗き現在の人間はかかる苦行外道を指して真人となし、聖人と尊び神仏の如く尊敬するものである。斯かる苦行外道を尊敬する人間も亦、同気相求むるの理によつて知らず識らずに地獄道に籍を置いて居る小外道である。次に、 カクダカー・トヤーヤナ、この外道はバンロギズム(汎理論)、スピリチュアリスチック・バンセイズム(唯心的汎神論)だとか、バンフシギズム(汎心論)だとか、アーセイズム(無神論)だとか、ブルラリズム(多元論)だとか、モニズム(一元論)だとか或はソシアリズム(社会主義)アナーキズム(無政府主義)だとか、ニヒリズム(虚無主義)だとか、コンミュニズム(共産主義)だとか、種々雑多の利己的、形体的、自然的、世界的愛に対して意見を盛に主張し、無形の霊界に対して一瞥も呉れず、且霊界や神仏を無視しながらも、現界に於ても徹底する能はず、霊界に於ては等閑ながらも、或時は些しく霊界の存在を認めて見たり、或時は現界計りに執着したり、精神の帰着点を失ふたり、二途不摂の異見外道である。次に、 ニルケラントー・ヂニヤー・ヂブトラ、此外道は、人間の苦楽と云ふものは素から因縁が定つて居るものだ。例へば三碧の星はどうだとか、九紫の星はどうだとか、子の年に生れたからどうの、丑の年に生れたからどうだとか、身魂の因縁が好いとか悪いとか、宿命説に堕落した宿命外道である。斯る宿命外道は如何程神仏を信仰するとも、自分の定まつた運命を転換する事は出来ない。何事も運命と諦めて其道に殉ずるより外はない。オタマ杓子は鯰に似てゐるが、少し大きくなると手足が生へて蛙になつて了ふ。どうしても鯰になる事は出来ない。それ故因縁の悪いものが神を信じた所で誠を尽した所で決して立派なものになれさうな事はない。何も前世の因縁性来だと断定をくだす無明暗黒なる常見外道であるが、斯の如き外道は、何れも神或は仏以外の所見にして、各一派の学説を立て、科学に立脚したる霊魂研究でなければ駄目だとか、或は神仏の名を標榜する事を忌み嫌ひ、太霊道だとか、二灯園だとか、或は何々会だとか、勝手な名を附して霊界を研究せむとする所謂常見外道である。現代は此外道最も蔓延し神仏の名を称ふるよりも霊智学とか、神霊研究だとか、霊学研究会だとか云ふ科学的名称に隠るるを以て文明人の態度らしく装ひ、蟻の甘きに集ふが如く集まり来つて、雲の彼方の星を探らふとする如き外道である。斯の如きニルケラントー・ヂニヤー・ヂブトラは三五教の中からも折々発生したものである。何れも自尊主義の慢心から、斯る外道に知らず識らず堕落するのである。 序に十二因縁を略解して置く、人間には、 一、無明、アヸドヤー 二、行、サンスカーラ 三、識、ボヂニヤーナ 四、名色、ナーマルーバ 五、六入、サダーヤタナ 六、触、スバルシャ 七、愛、エータナー 八、愛、ツルシューナー 九、取、ウバーダーナ 十、有、バヷ 十一、生、ヂャーチ 十二、老死、ヂャラー・マラナ の十二因縁がある。 無明とは、過去一切の煩悩を云ひ、行とは過去煩悩の造作を云ひ、識とは現世母の体中に托する陰妄の意識を云ふ。名色の名とは心の四蘊であり、色とは形質の一蘊である。六入とは、母の体中にある中に於て六根を成ずるを云ふ。触とは三四才迄に外的の塵埃の根元に触るるを覚ゆる状態を云ふ。愛とは生れて五六才より十二三才迄の間に強く外部の塵埃を受けて、好悪の識別を起すを云ふ。愛とは十四五才より十八九才までの間に外塵を貪り愛する念慮を起すを云ふ。取とは二十才以後一層強く、外塵に執着の念を生ずるを云ふ。有とは、未来三有の果を招くべき種々の業因を造作し、積集するを云ふ。生とは未来六道又は八衢の中に生ずるを云ふ。老死とは未来愛生の身体、又遂に朽壊するを云ふ。この十二因縁はどうしても人間として避くべからざる事である。併し乍ら、此十二因縁の関門を通過して初めて人間は神の生涯に入り、永遠無窮の真の生命に入つて、天人的生活を送るべきものである。然るに総ての多くの人間は九十五種外道のために身心を曇らされ忽ち地獄道に進み入り、宇宙の大元霊たる神に背き、無限の苦を嘗むるに至るものが多い。故に神は、厳瑞二霊を地上に下し天国の福音を普く宣伝せしめ、一人も残らず天国の住民たらしめむと、聖霊を充して予言者に来らせ給ふたのである。如何に現世に於て聖人賢人、有徳者と称へらるる共、霊界の消息に通ぜず、神の恩恵を無みするものは、其心既に神に背けるが故に、到底天国の生涯を送る事は出来難いものである。約束なき救ひは決して求められないものである。故に神は前にシャキャームニ・タダーガタを下して霊界の消息を世人に示し給ひ、又ハリストスやマホメット其他の真人を予言者として地上に下し、万民を天国に救ふ約束を垂れさせられた。されど九十五種外道の跋扈甚だしく、神の約束を信ずるもの殆ど無きに至つた。それ故世は益々暗黒となり、餓鬼、畜生、修羅の巷となつて仕舞つた。茲に至仁至愛なる皇大神は、この惨状を救はむが為に、厳瑞二霊を地上に下し、万民に神約を垂れ給ふたのである。ああされど無明暗黒の中に沈める一切の衆生は救世の慈音に耳を傾くる者は少い。実に思うて見れば悲惨の極みである。ああ惟神霊幸倍坐世。 (大正一二・三・二四旧二・八於伯耆国皆生温泉浜屋加藤明子録)
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霊界物語 58_酉_イヅミの国1(猩々島) 19 舞踏 第一九章舞踏〔一四九四〕 酷熱の太陽は、脳天から火を浴びせるやうに照りつける。スマの浜辺の小芝草は、暑熱に堪へ兼ねて喉を乾かし、何れの葉もキリキリと渦を巻ひて、針のやうになつて居る。アキス、カールの二人はサーベル姫の命令に依つて炎天の太陽を浴びながら、朝から晩迄沖を眺めて当もなき主の帰り来るを夢路を辿る心地で待つて居る。 遙の沖合に白帆が、ポツと目に映つた。二人はこれこそ主人の帰り来る船であらうか、但しは他人の航海船だらうかと、半信半疑ながらも稍望を属して居た。白帆は刻々に近より来る。二人は手を繋いで磯辺の芝草の上に、まだ分らぬ主人の帰国を、喜びながらダンスをやつて居る。心のせいか頭上に飛ぶ諸鳥も二人のダンスに和して、主人の帰国を祝する如く思はれ、上下一致抃舞雀躍の光景を誰憚らず呈して居る。 二人は汗塗になつて息を喘ませ、少時息をやすめて沖を見て居る。忽ち沖合より七八艘の船、垢染だ帆を上げ、見る見る内に白帆の船を前後左右より取り囲んでしまつた。茶色の帆は七ツ八ツ、白帆は一ツ互に追つ追はれつ浪静かなる湖上に蝶の舞ふ如く活動を初めて居る。 アキス『おイ、カールもう駄目だ、又違つたやうだ。あの白帆をあげたのは何うやら三五教の宣伝使が乗つて居る船らしいぞ。さうして垢染だ帆を上げて居る船はバラモンの捕吏の船だ。旦那様がお乗り遊ばして居る船ならばバラモン信者だから、滅多に追ひかける筈がない。お前どう思ふか』 カール『どうも合点が行かぬぢやないか、折角ながらもう諦めて暫く、アヅモス山の木蔭へでも這入つて暑さを凌がうぢやないか。いつ迄もこんな所に居つては日射病に罹つて仕舞ふよ。アアあれ見よ、白帆が見えなくなつたぢやないか、まさか沈没したのぢやあるまいなア。暑いから帰らうぢやないか、アヅモス山の木蔭迄』 アキス『それでも主命に背く訳には行かない。「心頭を滅すれば火も亦自ら涼し」と云ふぢやないか。一つ此処で歌でも詠んで心を練り直し、元気をつけて見ようかい。先づ兼題として夏の歌で、先づ俺から初めて見よう』 アキス『夏は 人間にとりて 休むべき時ではない むしろ一層強く 働くべき時だ 見よ 日は天に輝き 雷霆轟き 人間の周囲にある 草も木も 此時に孳々として 盛んに生長し繁茂しあるに 人間のみ安閑として ひとり 徒然として 避暑に耽り 遊惰にこの好日を 銷過することが出来やうか 国祖の大神は 開闢の太初より今日に至る迄 一日も 片時も秒間も 休養せずに吾人のために 働きたまふではないか 真に 天地の間に流行する この孟然たる 至大霊活の一気を 感得するものにありては 労働こそ 却て無上唯一の安息である 蓋し 真の安息は 彼の臍帯によりて 母体と気息を通同する 胎児のそれの如く 自然法界の霊運に 順応する生活 活動の中に存する而已である』 カール『成程そいつは面白い、万木万草のせつせつと繁茂する夏はよいシーズンだ。人間は夏が来れば冬の来る事を望み、冬が来れば又夏の来る事を希望する、勝手な厄介な代物だ。俺も一つ夏の歌を詠んで見よう、 夏の日は 決して暑いものではない またしてもまたしても 吾人の心に燃えつく 名利肉楽の欲火が熱いのだ 生れながら 吾人の心中に燃えてゐる 貪瞋痴愛の 毒燄があついのだ 四時永久に 吹わたる 聖霊の涼風を納れて かの欲火と 毒炎とを 消すことを礙ぐる 密に 鎖された 心の頑壁そのものが 清涼なるべき夏を さながら焦熱地獄と 感ぜしむるのだ 吾人は聖霊の涼風に 吹かれて 天国の春に進むべきのみだ』 アキス『アハハハハ、如何にも夏らしいなつかしき歌だ。併し乍ら口では強い事を云つて居るものの、矢張り暑い時は暑いなア。この芝草もたうとう屁古垂れたと見えて、錐のやうに縮かんだぢやないか。旗を捲き矛を納めて、炎熱軍に追撃され、山寨に立て籠つたと云ふ体裁だ。ほんたうに夏草の先生、このアキスも同情致しますよ。俺も何だか俄に急性退屈炎が勃発しさうだ。エ、気分直しに秋の歌でも詠んで見よう。 涼しい秋が来た そして何処ともなしに もの寂しい 遠き近き四方の山野に 錦を織出した佐保姫の姿は 満目光耀として 心の駒も いやに落付く 紅や萌黄の色あでやかな 楓は 日夜に其美を発揮し 万丈の衣を晒すに似たり 山奥に妻呼ぶ 小男鹿の声は 偕老々々と聞ゆれど 何となく悲調あり 小夜砧の音もまばらになりて 霜の夜を艱つか 日鶏の謳ふ声も いとど憐れを催し 四方の田の面は 黄金の波を漂え 御代の富貴を誇りつ 鍬取りし農夫の 書き入れ時期とはなりぬ アア去れど 自然界の太陽は 光り益々強くして その愛熱衰へ 秋霜烈日の輝き 斜に万木万草を 悩ませしへたげ滅尽し了へねば 休止せない勢である アア地上の草木は 熱に遠ざかり 光りに害はれ 枯れ朽つることありとも 夕の虫の数々は 声を揃へて果敢なげに 世を歎くとも 尊き大神の 愛善と神熱と 温みの籠もれる 神光を十二分に与えられた 吾人は所謂 万物の霊長だ 天地の花だ果実だ 永遠に咲き匂ふ 天界と地上の花だ 神の生宮 天人の前身だ 否な天人の霊身と 自然界の肉身の相応神たる 吾人には 秋も無ければ 冬さえも来らない 只永遠に花咲き匂ひ 鳥謳ひ蝶舞ひ遊ぶ 春の日と 万木万草の繁り栄行く 天恵的の夏と計りだ 去れば吾人は 秋も冬も苦にはならない 主の神の内流的神格に 恵まれた生ける身魂たる以上は 永遠無窮に 天国地上の花だ 剣をかざして万有に迫る霜柱も 冷たき空の残月に照る恐ろしさ 吾はこの惨憺たる光景を見て 天人の白き柔かき 温情の籠る 肌と感ずるのだ 又ピユウピユウと吹き荒ぶ けたたましい木枯の音も 天津乙女の奏づる 笙の音とぞ聞く アア面白きかな 天国の春よ 人間の世界の秋よ』 カール『成程、偉い馬力だ。甘い事を云ふなア。併しお前にそれだけの覚悟があるのか、ちつと怪しいものだなア』 アキス『アキスだから、兎も角秋の歌を詠んで見たまでだ。総て詩人と云ふものは空想を描いたり、上手に嘘をつくもの、三十五万年未来の桃中軒雲右衛門だつて、武士道鼓吹だとか、勧善懲悪だとか聖人らしい事を云つて居るが、其内実はお師匠さまの女房を横領して平気で演台に立つて居るのだからなア、近頃雨後の筍のやうに、ムクムク頭を上げだした道学先生だつて、バラモンの宣伝使だつて、皆裏面に這入つて見ればよい加減なものだよ。却て俗人の方がどの位正しいか分らぬからなア。偽善者や悪人の尊まれる闇の世の中だもの、俺だつて腹の底を叩けば矢張偽善者の仲間かも知れないよ』 カール『ウンさうすると俺も矢張り偽善者かなア。何だか自分の心が憎らしうなつて来た』 アキス『オイ、あれを見よ、何時の間にか沢山の船が見えなくなり、唯一艘此方に向つて慌しく漕いで来るぢやないか。矢張りあれは、旦那様の御船かも知れぬぞ。 来るか来るかと浜へ出て見れば 心嬉しき船が来る』 カール『沖の浪間に白帆が見えるヨー あれは主人の居ます船。ア、コラコラ』 と頓に元気回復して、二人は又もやダンスを初めかけた。船は八挺櫓を漕いで船首に白浪を立て乍ら宣伝歌の声と共に近より来る。 (大正一二・三・三〇旧二・一四於皆生温泉浜屋加藤明子録)
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霊界物語 58_酉_イヅミの国1(猩々島) 24 礼祭 第二四章礼祭〔一四九九〕 愈祭典の準備にとりかかるべく三千彦、デビス姫、バーチル、サーベルの二夫婦は下男にも下女にも構はさず、せつせと神饌物の調理に熱中して居る。 三千『もし、バーチルさま、私はお察しの通り三五教のヘボ宣伝使ですが、バラモンの大神様の神饌を拵へるのは今が初めてで厶いますよ。何だか奥歯に物が、こまつた[※「つまつた」の誤字か?]様な気分が致しますわ。ハハハハハ』 バーチル『うつかりして居ましたが如何にも吾々は三五教の宣伝使に助けられ、又三五教の大神様の御神徳を感謝してる者で厶いますから、どうしても三五の神様の祭典を第一に致さねばなりませぬ。如何でせうか』 三千『さうですな。神様はもとは一株ですから、どちらにしても同じ様なものの神代からの歴史を考へて見ますと、三五教は国治立の大神様、其外諸々の神様から押籠められた方の神様で、大自在天様とは、人間同士なら敵同志の様な者ですが、然し神様のお心は人間の心と違つて寛大なもので、少しも左様な事に御頓着なく、大自在天様をお助け遊ばさうと思つて、バラモン教を言向和す為に吾々をお遣はしになるのですからね。然し私では到底決断がつきませぬから、一寸之からお師匠様に伺つて参ります』 バーチル『はい、それは有難う厶います。序に先祖様の霊も三五教で祭つて頂き度う厶いますが、之も差支がないか伺つて来て下さいませぬか』 三千彦は『承知致しました』と此場を立つて玉国別の居間に打通り、バーチルがバラモン教を脱退し、三五教に入信し、三五の大神を祭つて貰ひ度い事、並に祖霊祭を三五教にて営み度い事等の願を告げ、玉国別に対し先づ第一に祖霊祭に就いて教示を乞ふた。 三千『先生、人間は現世を去つて霊界へ行つた時は、極善者の霊身は直ちに天国に上りて天人と相伍し天国の生活を営み、現界との連絡が切れるとすれば、現界にある子孫は父祖の霊祭などをする必要は無いものの様に思はれますが、それでも祖霊祭を為なくてはならないのでせうか。吾々の考へでは真に無益な無意義なことの様に感じられますがなア』 玉国『何程天国へ往つて地上現人との連絡が断たれたと言つても、愛の善と信の真とは天地に貫通して少しも遅滞せないものである。子孫が孝のためにする愛善と信真の籠もつた正しき清き祭典が届かないと云ふ道理は決して無い。天国にあつても矢張り衣食住の必要がある。子孫の真心よりする供物や祭典は、霊界にあるものをして歓喜せしめ、且つその子孫の幸福を守らしむるものである』 三千『中有界にある精霊は何程遅くても三十年以上居ないといふ教を聞きましたが、その精霊が現世に再生して人間と生れた以上は、祖霊祭の必要は無いやうですが、斯ういふ場合でも矢張り祖霊祭の必要があるのですか』 玉国『顕幽一致の神律に由つて、例へその精霊が現界に再生して人間となり霊界に居らなくても、矢張り祭典は立派に執行するのが祖先に対する子孫の勤めである。祭祀を厚くされた人の霊は霊界現界の区別なく、その供物を歓喜して受けるものである。現世に生れて居ながら猶且つ依然として霊祭を厳重に行ふて貰ふて居る現人は日々の生活上においても、大変な幸福を味はふことになるのである。故に祖霊の祭祀は三十年どころか、相成るべくは千年も万年の祖霊も、子孫たるものは厳粛に勤むべきものである。地獄に落ちた祖霊などは子孫の祭祀の善徳に由つて、忽ち中有界に昇り進んで天国に上ることを得るものである。又子孫が祭祀を厚くして呉れる天人は、天国に於ても極めて安逸な生涯を送り得られ、その天人が歓喜の余波は必ず子孫に自然に伝はり子孫の繁栄を守るものである。何んとなれば愛の善と信の真は天人の神格と現人(子孫)の人格とに内流して何処迄も断絶せないからである』 三千『ウラル教や波羅門教の儀式に由つて祖霊を祭つたものは、各自その所主の天国へ行つて居るでせう。夫れを三五教に改式した時はその祖霊は何うなるものでせうか』 玉国『人の精霊や又は天人なるものは、霊界に在つて絶えず智慧と証覚と善真を了得して向上せむことをのみ望んで居るものです。故に現界に在る子孫が最も善と真とに透徹した宗教を信じて、その教に準拠して祭祀を行つて呉れることを非常に歓喜するものである。天人と雖も元は人間から向上したものだから人間の祖先たる以上は、仮令天国に安住するとも愛と真との情動は内流的に連絡して居るものだから、子孫が証覚の最も優れた宗教に入り、その宗の儀式に由つて、自分等の霊を祭り慰めて呉れることは、天人及び精霊又は地獄に落ちた霊身に取つても、最善の救ひと成り、歓喜となるものである。天国の天人にも善と真との向上を望んで居るのだから、現在地上人が最善と思惟する宗教を信じ、且つ又祖先の奉じて居た宗教を止めて三五教に入信した所で、別に祖霊に対して迷惑をかけるものでない。又祖霊が光明に向つて進むのだから決して迷ふやうな事は無いのだ。否却て祖霊は之を歓喜し、天国に在つて其地位を高め得るものである。故に吾々現身人は祖先に対して孝養のために最善と認めた宗教に信仰を進め、その教に由つて祖先の霊に満足を与へ、子孫たるの勤めを大切に遵守せなくてはならぬのである。アア惟神霊幸倍坐世』 三千『はい、有難う厶いました。当家の主人も、それで安心致しませう。それから、も一つお尋ねが厶いますが、バラモンの神様を如何いたしたら宜しいでせう』 玉国『祠の森の聖場でさへも御三体の大神様を初め大自在天様を祀つてあるのだから、別に排斥するに及ばぬぢやないか。今迄此家もバラモン神の神徳を享けて来たのだから、そんな薄情な事も出来まい』 三千『アヅモス山の聖地にはバラモン大自在天様のお宮が建つて居るさうですが、此際主人に吩咐けて祠の森の様にお宮を建てさせ、あの式に大自在天様を脇に祀つたら如何で厶いませうか』 玉国『一度主人を呼んで来て呉れ。宮を建てるとなると、さう軽々しくは行かぬから一応意見を聞いて見る積りだ』 三千『はい、承知致しました。直様呼んで参ります』 と、もとの神饌調理室に引返し、祖霊祭に関する玉国別の教示を伝へ、且……神霊奉斎に就いて師匠様がお尋ねし度いと仰有るから一寸来て下さい……とバーチルを誘ひ、玉国別等の居間に帰つて来た。 玉国『あ、バーチルさま、貴方はアヅモスの森の天王様のお宮を、如何なさるお考へで厶いますか』 バーチル『はい、先祖代々お祀りして来たお宮様なり、又私の精霊が眷族として仕へて居つたのですから、今俄に三五教に這入つたと云つて直に祀り変へる事は如何かと考へます。これに就いては貴方様にゆるゆるお尋ね致し度いと思つてゐました。先生のお考へは如何で厶いませうか』 玉国『私の考へとしてはアヅモス山の森林に新にお宮を二棟建造し、一方は三五の大神様、一方は今の天王様を奉斎し、さうして猩々ケ島に残つて居る小猿を、数十艘の船を用意して迎へ来り、序にバラモン組の三人も助けて帰る様にし度いもので厶います。それが神様に対しても、貴方の守護神に対しても最善の方法だと考へます』 バーチル『有難う厶います。実の所は最前から何卒さう願ひ度いものだと、家内とひそびそ話をして居りました。あの小猿共は皆猩々姫の子で厶いますから、如何しても自分の手近に引寄せ度いのは当然で厶います。私も何だか猩々の親になつた様な、妙な気分が致します。何卒さうして下さらば、これに越したる喜びは厶いませぬ』 玉国『貴方の決心が定れば直様、その準備にかかる事に致しませう。併し乍ら今日は只大神様へ感謝の祭典をする許りですから、三五の大神とバラモンの大神を並べて祭り、下男下女の端に至る迄参拝させておやりなさるが宜しう厶いませう』 バーチル『はい、何から何迄御親切なお気付け、有難う厶います。 人の親は猿より出でしと聞きつるに 猿の親とぞなりにけるかな。 さる昔遠き神代の古より きれぬ縁につながれし吾』 玉国別『天王の森に長らく仕へたる その神徳で人の宿かる。 肉体はよし猩々と生るとも 霊魂は清し神の御使』 バーチル『有難し宣り直したる師の君の 言葉に妻も嘸勇むらむ。 人猿と仮令世人は笑ふとも 罪をとりさる神となりなむ』 かく歌ひ慌ただしく神饌所に引返し、用意万端整へて茲に芽出度く感謝祭を執行する事となつた。玉国別は主人の乞に依つて祭主となり、天津祝詞を奏上し、終つて感謝の歌を奉つた。 玉国別『朝日刺す夕日の照らすアヅモスの、常磐堅磐の森の辺に、弥永久に鎮まり玉ふ、大国彦の大神の、珍の使と仕へたる、猩々彦の精霊の、懸り玉へる館の主人、バーチル司に代り玉国別の神司、三五教の大御神、バラモン教の大神の、珍の御前に慎みて、吾々一行は云ふも更、バーチル初めアンチーが、三年の憂きを凌ぎつつ、漸くここに帰りけるは、皇大神のお計らひと、喜び敬ひ大御恵みの、千重の一重にも報い奉らむとして、山海河野種々の珍味を、八足の机代に、所狭き迄置き並べ、神酒は甕の瓶甕の腹充て並べて、御水堅塩大御饌奉る事の由を、完全に委曲に聞召し、これの館の人々を初め、三五教の神司、スマの里の人々を、厚く守らせ玉へかしと、大御前に摺伏して、畏み畏み仕へ奉る惟神霊幸倍坐世』 と歌ひ終り、感謝祭も無事に終了した。玉国別一行は美はしき閑静な離れ座敷を与へられ、海上の疲労を癒やすべく、師弟五人は足を伸ばして休養する事となつた。 (大正一二・三・三〇旧二・一四於皆生温泉浜屋北村隆光録)
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霊界物語 63_寅_伊太彦の物語 03 伊猛彦 第三章伊猛彦〔一六一〇〕 玉国別は三人の話を聞いて双手を組み何か思案に暮れてゐる。伊太彦は気をいらち、 『もし先生、千騎一騎の此場合、何を御思案して厶るのですか。貴方も玉国別と名を頂いた以上は、今お聞きでせうが夜光の玉を、も一つ伊太彦にお取らせになるのも、お名前から云つても普通の事だと考へます。私も諦めて居りましたが、又俄に何だか勇気が勃々として参りました。諺にも「聞かざるは之を聞くに如かず、之を聞くは之を見るに如かず、之を見るは之を知るに如かず、之を知るは之を行ふに如かず」と云ふ事が厶いますから、玉の所在を聞いた以上は、何処迄も実否をつきとめ、果して玉在りとせば、之を竜王の手より預つて帰らうと思ひます。そして竜王に三五の道を説き聞かせてやり度う厶いますが、どうか私を特命全権公使に任命して下さいますまいかな』 玉国『「来りて学ぶを聞く、未だ行きて教ふるを聞かず」と聖人も云つて居る。又お前の様に余り強ばると失策をやらうまいものでもないから、些とジツクリしたら宜からう。ウバナンダ竜王に教をするのは宜いが、ここへ言霊を以て招き寄せて教へてやつたらどうだ。こちらから行く必要はあるまい。諺にも「兵強ければ即ち滅び、木強ければ即ち折れる」と云ふ事がある。人間は控目にすることが肝腎だからな』 伊太『先生、貴方は卑怯な事を仰せられますな。「危きは疑ひに任すより危きはなし、危きものは其安を保ち、亡ぶるものは其存を保つ」と云ひますぜ』 玉国別は儼然として容を改め、徐に口を開いて、 『伊太彦さま、貴方は夜光の玉夜光の玉と頻りに熱望して居られますが、形態ある玉は或は毀損し或は紛失する虞れが伴ふものですよ。夫れよりも貴方御自身が所持して居らるる内在の宝玉を穢さないやうに為さいませ』 伊太『内在の玉とは何ですか。拙者はそんなものは持ちませぬがナア。貴師は夜光の玉をお持ちになつたものだから、ソンナ平気なことを謂つて居られるでせうが、苟くも三五教の宣伝使たるもの玉の一つ位有形的に所持せなくては、巾が利かないぢや有りませぬか。現に、イク、サールの両君さへも結構な水晶魂を神界より与へられて居られるでせう。拙者は如何しても、今回はお許しを戴いて大蛇の窟に飛び込み、一箇だけ手に入れて見たいものです。言依別命様も国依別様も琉と球との宝玉の威光によつて、アンナ立派な御神業を遊ばしたぢや有りませぬか。現にこの霊山に宝玉ありと聞いた以上は、実否は兎も角も、一度探険と出かけたいものですなア』 玉国『伊太彦さま、御説は御尤もだが俺の話も一つ聞いて貰ひたい。先づ第一に僕が玉を所持して居るのは貴方の手を通して徳叉伽竜王から預かり、之を大神様に奉納せなくては成らぬ宝玉だ。この御用も僕から決して希望したのでは無い、惟神の摂理によつて自然に僕があづからなくてはならない様になつたのだ。天の命ずる所だから、之を拒むことは出来ない。要するに竜王が帰順の至誠を表白する一つの証拠品だ。之を僕が預かつて大神様に献つて上げねば、竜王さまの解脱が出来ないからだよ。お前の様に自分の方から求めて宝玉を得ようとするのは、余り面白くないと思ふがなア。伊太彦さま、僕が何時ぞやら比喩話を聞いたことを今思ひ出したから聞いて下さい。エヽと或る処に一人の男があつて、友人の所へ訪問した。そして大変に振舞酒に泥酔してグタグタに前後も知らず酔ひ潰れて了つた。その時にその親友は、或る官用のために急に出掛けることと成つたので酔ひ潰れて居る友人を色々と揺り起して見た所が、容易に目が醒めないので止むを得ず、眠つてゐる友人の衣服の裏へ非常に高価な玉をソツと繋いで出掛た。其後になつて酒に酔ひ潰れてゐた男は眼を醒まし、友人の繋いで置いて呉れた球のことは一向に気が附かずに、親友のゐないのに驚き家を立出で、懐中無一物のため仕方がないので放浪して他国へ出かけて行つた。何と云つても無銭旅行をやつてゐるため衣食と住居に就て具さに艱難辛苦を嘗めた。然しその男は例の親友が自分の衣服の裏に、貴重なる宝玉を繋いで置いて呉れたことは夢にも知らず、依然として衣食に窮し所々方々と放浪し苦辛を嘗めた。所が余程経つてから後のこと、偶然にも昔の親友に出会した。そこで今まで艱難苦労したことの一部始終を涙と共に物語ると、友人は吃驚して、「君はマア何といふ馬鹿な真似をしたのだらう。何もそれ程迄に苦まなくてもよかつたのだ。昔君と僕と酒を呑んだ際に君は大変に酔つてゐたので知らなかつたけれ共、君に将来不自由なく安楽に暮させようと思つて、態々高価な宝珠を、君の衣服の裏に繋ぎ隠しておいた筈だ。まア、一度調べて見給へ、今も当時の球は君の衣服の裏にきつと有るに違ひない。君がその球にさへ早く気が附いてゐたら、決して今迄の様な苦労なんか為なくても可かつた筈だ。早く其の球を取り出して何なりと君に必用なものを買ふ資料にしたが可い」と親切に諭した。所がその男は今更のやうに気がついて衣服の裏を査べると親友の言つた通り高価な球があつたので、男は友の懇情を涙と共に感謝し、それから後は安楽に暮したと謂ふことだ。然し伊太彦さま、これは譬話だから有形の宝玉ではない。人間が本来具有せる内在の神でもあり霊的の宝玉だ。そして球を繋いで呉れた親友と云ふのは、吾々に神の性能あることを知らして下さつた瑞の御魂の救ひ主、神素盞嗚尊様だ。又酒と云ふのは名利女色等の際限なき欲望のことだ。そして酒に酔ひつぶれた男と云ふのは、果して何人であらうか』 伊太『先生ソンナ事は三十万年未来に於て月照彦様が釈迦と現はれて、御説きになつた法華経の七大比喩の中に記してある文句ですよ。内在の玉は既に已に認めて居ります。併し世界は顕幽一本とか霊肉一致とか云つて、内外に玉が必用ぢやありませぬか』 玉国『アヽ困りましたなア。到底拙者の言霊では伊太彦砲台の陥落は不可能かも知れぬ。治道様、貴方一つ援兵を繰出して下さいな。何うやら玉国別の軍勢は旗色が悪くなつた様です』 治道『伊太彦さま、先づ冷静にお考へなさいませ。現在の吾々お互を神直日大直日の神鏡に照らして反省して見ると、今玉国別様の御言葉の酔ひ潰れの男とは、若しや自分共の事を仰有つたのでは在りますまいか。人間は兎角忘れてはならない事を忘れたり、忘れて可い事を忘れないものです。今私達は肉団の胸の中に高価な珠を持ち乍ら忘れ込んで了つて居るのです。又その珠を用ゆることもせずに徒に形ある宝に心酔して、肝腎の霊魂を失つて居るのでは有りますまいかなア』 伊太『……』 玉国『魯の哀公[※魯(中国)の第27代君主。紀元前5世紀頃の人物。]は、「人の好く忘るるものあり、移宅に乃ち其妻を忘れたり」といつた所が、孔子は亦、之に対して「また好く忘るること此より甚だしきあり。桀紂は乃ち其身を忘れたり」と皮肉を言つたと言ふが、桀と紂とは支那の未来の暴君で、酒地肉林の淫楽に耽つて、遂にその身と国家とを失つた虐主である。何が一番大きな忘れものだと言つても、自分を忘れる程、大きい忘れものは無からう。人間の弱点は兎角この忘れる筈のもので無い自分を忘れてゐる場合が多いものだ。桀や紂の如く暴君たらずとも、金銭や名誉や酒色の暴君となつて何時も本来の我を忘れてゐるのだ。伊太彦さまの霊肉一致説も亦一理ある様だが肝腎の御魂の置所を忘れては居ないだらうかなア』 伊太『御心配下さいますな、拙者は神界から直接内流があつて命令を受けてゐるのです。何が御都合になるか判りませぬからなア』 玉国『神界からの内流とある以上は、吾何をか言はむやだ。そんなら伊太彦さま、玉国別はこれ限り何も申しませぬ。自由に神示の御用をなさい。人間の分際として神の御経綸は到底測知する事は出来ませぬからなア』 伊太『さすがは先生だ。有難うエヘヽヽヽ。サア、お許しを得た以上は、之から逸早くスダルマ山の嶮を越え、カークス、ベースの勇士を従へ旗鼓堂々としてスーラヤの湖に永久に漂ふ宝の山、スーラヤ山の岩窟に攻め寄せ、ウバナンダ竜王を言向け、夜光の玉を貢がせ、三人轡を並べて黄金山に参上り、天晴功名手柄を致すで厶らう。者共、吾に従へ』 と云ひ乍ら肩肱怒らし、カークス、ベースの両人を引率れ、玉国別一行に別れ、「何れエルサレムにて御面会」と一言を残し、意気揚々として、カークスに間道を教へられ足早に進み行く。 後見送つて玉国別は打笑ひ、 『アハヽヽヽヽ、イヤ、面白い男だ。之で伊太彦の使命も果せるであらう。併し乍らスーラヤ山の竜王は非常に猛悪神と聞いて居る。どうも伊太彦一人にては心許ない。真純彦さま、その他皆さま、之からそろそろ時機を見図らひ応援に参りませうか』 治道『謹んでお伴いたしませう。伊太彦さまは随分快活な人ですな。拙者は非常に伊太彦崇拝熱が高まつて参りましたよ。アハヽヽヽヽ』 真純『「材に任じ能を使ふは務めを済す所以なり、物を済す所以なり」と云つて、流石は玉国別様だ。適材を適所にお使ひ遊ばす、その御明察には感じ入りました』 玉国『伊太彦さまは本当に偉いですよ。最前から彼んな事を云つてゐましたが神界の御経綸によつて神懸になつてゐたのです。諺にも「死を知るは必ず勇なり。死するは難きに非ず、死に所するは難し」と云つて、剣呑な所を好んで神界のために行かうとする、その精神は天晴なものですよ』 三千『伊太彦さまは普通の人間ぢやありますまいね』 玉国『普通の人間ならば如何してタクシャカ竜王を言向和す事が出来ませう。やがて霊の素性が分るでせう。私も今初めて非凡の神格者なる事を……恥し乍ら悟つたのです、アハヽヽヽ』 デビス『サア、皆様、ボツボツ参りませうか』 『宜しからう』 と一同は油蝉の鳴く炎天の山道を喘ぎ喘ぎ登り行く。 (大正一二・五・一八旧四・三北村隆光録)
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霊界物語 67_午_ハルの湖/タラハン国の国政改革1 04 笑の座 第四章笑の座〔一七〇六〕 湖神白馬の鬣を揮つて、激浪怒濤を起し、殆ど天をも呑まむとする勢なりし湖上の荒びも、癲癇が治まつたやうに、まるつきり嘘をついた様にケロリと静まつて、水面は恰も畳の目の如く、縮緬皺をよせてゐる。島影を漕出した波切丸は、欵乃豊かに舳を南方に向けていざり出した。 此地方の風習として、人々何れも閑散な時には無聊を慰むる為に、笑ひの座といふものが催される事がある。笑ひの座に参加する者は、何れも黒い布で面部を包み、何人か分らぬやうにしておいて、上は王公より下は下女下男の噂や国家の現状や人情の機微などを話し、面白く可笑しく、罵詈嘲笑を逞しうして、笑ひこけ、互に修身斉家の羅針盤とするのである。流石権力旺盛なる大黒主と雖も、此笑ひの座のみには一指を染むる事も出来なかつた。笑ひの座は庶民が国政に参与する事のない代りに、其不平や鬱憤を洩らし、或は政治の善悪正邪や、国家の利害得失迄も、怯めず臆せず何人の前にても喋々喃々と吐露することを、不文律的に許されてゐたのである。 日は麗かに、風暖かく、波は静に、舟の歩みもはかばかしからず、遥の湖面には陽炎が日光に瞬いてゐる。其有様は恰も湖面の縮緬皺が空中に反映したかのやうに思はれた。さも恐ろしかりし海賊の難や暴風怒濤の悩み、殆ど難破に瀕したる波切丸の暗礁の難を免れたる嬉しさに、何れも天地の神を礼拝し、感謝の辞を捧ぐる事半時許り、其あとは三々伍々デッキの上に円を描いて、笑ひの座が開かれた。 甲『諸君、何うです、此穏かな湖面を眺めて、旅情を慰むる為に、天下御免の笑ひの座を催したら何うでせう』 乙『イヤそりや面白いでせう。チツト許り、言論機関たる天の瓊矛を運用させても宜しからうかと考へてゐた所です。何か面白い話を聞きたいものですなア』 甲『皆さま、黒布をお被りなさい。之も此国の神世から定まつた不文律ですから。其代りに目の前にゐる貴方方の悪口雑言を云ふかも知れませぬが……笑ひの座の規則として御立腹のなき様に予め願つておきますよ、アハヽヽヽ』 乙『サアサア自分の顔のしみは見えないものだから、俺は偉い偉い、世間の奴は馬鹿だとか、間抜だとか、腰抜だとか思つてゐるものです。自分が自分を理解する様になれば、人間も一人前の人格者ですが、燈台下暗しとか云つて、自分の事は解らないものですからな。どうか忌憚なく、お気付になつた事は批評して下さい。それが私に取つて処世上の唯一の力となりますから』 甲『宜しい、倒徳利の詰が取れた以上は、味の悪い濁酒を吐出して、諸君を酔生夢死せしむる様な迷論濁説が際限もなく迸出するかも知れませぬよ』 乙『サアサア是非願ひませう。自分の頭や顔面が見え、又自分の首や背中が見える様な人間ならば、自己の欠点が判然と解るでせうが、不完全に造られた吾々人間は、到底暗黒面のあるのは、止むを得ないです。其暗黒面を親しき友から、破羅剔抉して注意を与へて貰ふ事は、無上の幸福でせう。併しお前さまの暗黒面も素破抜きますが、御承知でせうな』 甲『それは相身互です。そんなら私から発火しませう。……エー、貴方此頃大黒主様から大変な偉い職名を与へられたといふ事だが一体どんな御気分がしますか、竹寺官と云へば腰弁とは違つて、役所へ通ふのにも馬とか車とか相当な準備も要るでせう。随分愉快でせうな』 乙『実は某役所の執事に栄進したのです。然し乍ら赤門を出てから官海に遊泳すること殆んど十五年、どうやらかうやら執事まで昇つたのです。吾々の学友は大抵小名から大名、納言級に昇つた連中もありますが、私は阿諛諂佞とか追従とか低頭平身などの行為が嫌いなので、相当の実力を持ち乍ら漸く某役所の執事になつた位なものです。本当に十五年間も孜々兀々として役所の門を潜り、今に借家住居をして色々の雅号を頂いた所で一銭の金が月給の外に湧いて来るでもなし、一握の米が生れるでもなし、丸つきり高等ルンペンの様なものです。それでも公式の場所へは他の連中が嬉しさうに雅号のついたレツテルをぶらさげて行きよるものだから、私も心に染まないけれど、何だかひけを取るやうな気分がするので、嫌々乍らレツテルをはつて行くのですよ。アハヽヽヽヽ』 甲『嫌なものを張つて行くとは云はれましたが、然し貴方の本心としてはまつたく嫌で叶はないのぢやありますまい。嫌な嫌な毛虫が胸にくつついてゐたら誰しも之を払ひ落すでせう。そこが貴方の闇黒面で、所謂偽善と云ふものです。爵位何物ぞ、権勢何物ぞ、富貴何ものぞ、只吾々は天下の志士だと人に思はせたい為の飾り言葉でせう。虚礼虚飾を以つて唯一の処生法と為し、交際上の武器と信じてゐられるのでせう。さういふお方が上流に浮游してゐる間は、神様の神政成就も到底駄目でせう。私は米搗ばつたといふものを見る度に、何となく嫌忌の情が胸に湧いて来るのです。併し過言は御免を蒙つておきませう。何と云つても笑ひの座の席での言葉で厶いますからな』 乙『ヤ、貴方も中々の批評家ですね。実は私も米搗ばつたにはなり度くないのです。これを辞めれば忽ち妻子が路頭に迷ひ、生存難におびやかされるから長者に膝を屈し腰を曲げ、ばつたや蓄音機の悲境に沈淪しながらも陰忍自重して、あたら月日を送つてゐるのです。今日の米搗ぐらゐ卑劣な、暗愚な狭量な、そして高慢心の強い代物はありませぬわ。何か可い商売でもあつたら、男らしく辞職をしてみたいのです。そして辞表を長官の面前へ投げつけてやりたいと、切歯扼腕慷慨悲憤の涙にくれることは幾度だか知れませぬよ。卑劣な、暗愚な、おべつか主義の小人物はドシドシ執事にもなり、小名にもなり、大名にもなつて、時めき渡ることが出来ますが、私のやうな硬骨漢になると、上流の奴、彼奴ア頑迷だとか、剛腹だとか、融通が利かないとか、野心家だとか、過激主義だとか、反抗主義だとか、生意気だとか、猪口才だとか、何とかかんとか、種々の称号をつけて、頭を抑へるのみならず、グヅグヅしてゐると寒海から放り出されて了ふのですから、人生、米搗虫位惨めな者はありませぬよ。実に悲哀極まる者は官吏生活ですよ。ハヽヽヽ』 甲『全体、月の国の人間は、国は大きうても、小人物許りで、到底世界強国の班に列するの光栄を永続することは不可能でせう。外交はカラツキシなつてゐないし、強国の鼻息を伺ふこと計りに汲々乎とし、内政は人民の自由意志を圧迫し、少しく骨のある人間は、何とかカンとかいつては、牢獄へブチ込み、天人若斗りを登用して顕要の地位に就かしめ、己れに諛び諂らふ者のみ抜擢して、愚者、卑劣漢のみが高いところに蠢動してゐるのだから、到底国家の存立も覚束ないではありませぬか。今の時に当つて、本当に国家を思ふ英雄豪傑、又は愛善の徳にみちた大真人が現はれなくちや駄目でせうよ』 乙『さうですなア、私の考へでは、茲二三年の間には、月の国の大国難が襲来するだらうと思ひます。大番頭も、其他の納言も、どうも怪しい怪しいと何時も芝生に頭を鳩めて、青息吐息で相談をやつてゐますが、何れも策の施しやうがないと云つて居ります。何といつても今の世情は、宗教を邪魔物扱ひし、物質本能主義を極端に発揮し、何事も世の中は黄金さへあれば解決がつく様に誤解してゐたものですから、従つて国民教育も全部物質主義に傾き、国民信仰の基礎がぐらついて、殆ど精神的破産に瀕してゐるのですから、到底此頽勢を挽回する望みはありますまい。今に世界は七大強国となり、十数年の後には、世界は二大強国に分れると云ふ趨勢ですが、どうかして印度の国も、二大強国の一に入りたいものですが、今日の頭株の施政方針では、亡国より道はありませぬ。物価は高く、官吏は多く、比較的人民も多くして、生存難は日に日に至り、強盗殺人騒擾なども、無道的行為は到る処に瀕発し、仁義道徳地に堕ち、人心は虎狼の如く相荒び、親子兄弟の間も利害のためには仇敵も只ならざる人情、教育の力も宗教の力も、サツパリ零です。否宗教は益々悪人を養成し、経済学は国家民人を貧窮に陥れ、法律は善人を疎外し、智者を採用し、医学は人の生命を縮め、道徳は悪人が虚偽的生活の要具となり、商業は公然の詐偽師となり、一として国家を維持し国力を進展せしむるものは見当りませぬ。それだから私も一つ奮発して、国家の滅亡を未然に防ぎ度いと焦慮して居りますが、何分衣食住に追はれてゐるものですから手の出し様がありませぬ。米搗虫の地位を利用して賄賂でもどしどし取れば、又寒海を辞した時、社会に活動するの余祐も出来るでせうが、それは私には到底出来ない芸当です。とやせむかくやせむと国家の前途を思ひ、日夜肺肝を砕いてをりますが、心許り焦つて、其実行の緒につく事が出来ないのは遺憾千万で厶います』 甲『今貴方は、官を辞したら、衣食住に忽ち困るから、国家の大事を前途に控へ乍ら、活動することが出来ないといはれましたが、それは貴方の薄志弱行といふものです。徒らに切歯扼腕慷慨悲憤の涙にくれてゐた所で、社会に対して寸効も上らないでせう。納言になる丈の腕を持つた貴方なれば、民間に下つて何事業をせられても屹度相当の収益もあり、又成功もするでせう。人は断の一字が肝腎ですよ。空中を翔る鳥でさへも、何の貯へもして居りませぬが、天地の神は、彼等を安全に養つてゐるだありませぬか。窮屈な不快な寒吏生活を罷めて、正々堂々と自由自在に、何か事業をおやりなさつたら何うです。活動は屹度衣食住を生み出すものです。何を苦しんで官費に可惜貴重な生命を固持する必要がありますか』 乙『お説は一応御尤もですが、吾々は悲しいことには父母の膝をかぢつて、小学、中学、大学と一通りの学問の経路を越え、学窓生活のみに日を送り社会一般の事情に通ぜず、又苦労をしたこともなし、今となつては乗馬おろしの様なもので、寒海を離れたならば、何一つ社会に立つて働く仕事がありませぬ。新聞記者にでもなるか、或は三百代言の毛の生えた如うな者になるより行り場のない厄介者ですからな』 甲『凡て人民の風上に立つ役人たる者は、何から何迄、之が一つ出来ないといふ事のない所迄、経験を積まねばならず、又人情にも通じてゐなくてはならない筈だのに、今日の官吏なる者は、凡て社会と没交渉で、何一つの芸能もなく、無味乾燥な法律学のみに頭を固めてゐるのだから、風流とか温雅とか、思いやりとかの美徳が備つてゐない。そんな連中が世話の衝に当つてゐるのだから、民衆が号泣の声も塗炭の苦しみも目に入らず耳に聞えず、世は益々悪化する許り、之では一つ天地の神の大活動を待たねば、到底暗黒社会の黎明を期待することは難しいでせう。あゝ困つた世態になつたものだなア』 乙『仮に私が官を辞し、民間に降るとすれば、どうでせう、何職業を選むべきでせうか。どうか一つ智恵を貸して頂きたいものですな』 甲『貴方到底駄目でせう。人に智恵を借つてやるよなことでは、何事業だつて、成功するものだありませぬよ。自分が自分を了解してゐられないのだから、……先づ……斯ういふと失礼だが……貴方の適業と云へば山賊でせう』 乙『これは怪しからぬ。私がそれ程悪人に見えますか。私も印度男子です。腐つても鯛、苟も納言の地位に登つた紳士の身であり乍ら、山賊が適任とは、余り御過言ではありますまいか』 甲『ハヽヽ、納言となれば何れ数百人の小泥棒を監督してゐられたでせう。さうすれば貴方は今日迄、立派な役人と表面上見えて居つても、寒賊の親分だ、寒賊が山賊になるのは、適材を適所に用ふるといふものです。あのオーラ山のヨリコ姫、シーゴー、玄真坊などを御覧なさい。堂々と山寨に立籠り、三千の部下を指揮し、王者然と控へてゐたではありませぬか。表面納言などと、こけ威しの看板を掲げ、レツテルを吊らくつて人民の膏血を絞り、賄賂をとり、弱者を苦しめ、強者の鼻息を窺ひ、且つ上長の機嫌を取り、女性的卑劣極まる偽善的泥棒を行つて居るよりも、シーゴーの様に堂々と泥棒の看板を掲げてやつてる方が、余程男らしいだありませぬか。今日の世の中は上から下迄泥棒斗りです。況して泥棒をせない官吏は一人もないでせう。人権蹂躙の張本、圧迫の権化、鬼の再来、幽霊の再生、骸骨の躍動、女房の機嫌取り、寒商の番頭などをやつてゐるよりも、幾数倍か山賊の方が男性的でせう、ハヽヽヽヽ。イヤ失礼、天性の皮肉屋、悪口屋ですから、何うぞ大目にみて下さい……イヤ大耳に聞いて下さい』 シーゴーは二人の話を、背をそむけ乍ら、耳をすまして聞いてゐた。そして時々微笑したり、溜息をついたり、或時は肩をそびやかしたり、平手で額口を打つたり、両方の手で顔を拭ふたり、頭を掻いたりしてゐた。そして彼シーゴーは自分が今迄、オーラ山でヨリコ姫を謀師とし、山賊の大頭目として豺狼の如き悪人輩を使役してゐたのは、余り良心に恥づる行動でもなかつた、印度男子の典型は俺だ、如何にも寒狸といふ奴、卑怯未練な小泥棒だ、到底俺の敵ではない。ヤツパリ俺は偉いワイ、三五教の梅公さまの威徳に打れて、神の道に改悛帰順を表したものの、今となつて考へてみれば実に惜しいことをした。最早六日の菖蒲十日の菊だ。併乍ら俺が偉いのではない、ヨリコ姫女帝の縦横の智略、権謀術数的妙案奇策が与つて力あつたのだ。ヨリコさま女帝も此話は耳に入つただろ、どうか自分と同様に心を翻へして呉れないか知らん。大黒主だつて大泥棒だ、勝てば善神、負くれば悪神だ。善悪正邪は要するに優勝劣敗の称号だ。なまじひ、菩提心を起し、宗教なんかに溺没したのは一生の不覚だつた。今の話で聞くと、宗教家だつてヤツパリ一種の泥棒だ。世の中に顔だとか、恥だとかいつて気にかけてるよな小人物では、生存競争の激烈なる現代に立つて、生存するこた出来ない。あゝ何うしたら可からうかな。一旦男の口から神仏に誓つて悔い改めますと云つた以上、此宣誓を撤回する訳にもいかない。それでは男子たるの資格はゼロになつて了ふ……と吐息をついてゐる。ヨリコ姫は微笑を泛べ乍ら、シーゴーの前に進み来り、 『村肝の心の空に雲立ちて 月日は暗に包まれにける。 右やせむ左やせむとシーゴーが 動く心の浅ましきかな。 男子てふものの心の弱きをば 今目のあたり見るぞうたてき。 惟神神のまにまに進みゆけ 救ひの舟に乗りし身なれば』 シーゴー『煩悩の犬に追はれて吾は今 あはや地獄に堕ちなむとせり。 うるはしき汝が言霊聞くにつけ 胸の雲霧晴れわたりける』 ヨリコ『み救ひの神船に乗りし吾々は 神のまにまに世を渡りなむ』 ヨリコ姫はシーゴーの手を執り、船舷に立ち、東方に向つて折柄昇る旭を拝し、梅公に導かれて宣伝の旅に着きたる事を感謝し、且天地に向つて次の如き誓ひを立てた。 『一、愛善の徳と信真の光に充ち智慧証覚の源泉に坐す天地の太祖大国常立大神の御神格に帰依し奉り、天下の蒼生と共に無上惟神の大道を歩まむことを祈願し奉る。 二、大祖神の宣示し給ひし惟神の大道を遵奉し、愛善信真の諸光徳に住し、大海の如き智慧証覚の内流を拝し、天下の蒼生と共に斯の大道を遵奉し、三界を通じて神子たるの本分を完全に保持し、神の任さしの神業に奉仕せむ事を祈願し奉る。 三、天下の蒼生を愛撫し、神業を完成し、厳瑞二霊の大神格を一身に蒐め、神世復古万有愛の実行に就かせ給ふ伊都能売神柱の神格に帰依し、絶対的服従の至誠を以て神業に参加し、大神の聖慮に叶ひ奉り、一切無碍の神教を普く四海に宣伝し、斯道の大本を以て暗黒無明の現代を照暉し、神の御子たるの本分を竭し奉らむ事を誓ひ奉り、罪悪の身を清め免るし給ひて、神業の一端に使役されむことを祈願し奉る』 (大正一三・一二・二新一二・二七於祥雲閣松村真澄録)
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霊界物語 71_戌_玄真坊と千種の高姫 18 金妻 第一八章金妻〔一八〇七〕 大日山の麓の森林に大日如来を祭つた古ぼけた祠がある。其祠の中には蟇の鳴き損ねたやうな面構へをした玄真坊と、天つ乙女のやうな気高い姿の千草の高姫と云ふ美人の二人が、無遠慮に寝そべつて互に頬杖をつき乍ら囁いて居る。 玄『オイ、女房』 千『厭ですよ、女房なんて』 玄『そんなら妻にしておこう。オイ妻』 千『妻なんてつまらぬぢやありませぬか。もつと高尚な名を呼んで下さいな』 玄『そんなら細君にしておこうか、それが嫌なら御内儀にしておこうか』 千『妻君だの内儀だのと女房扱ひは真平御免ですよ』 玄『それや約束が違ふ、お前は俺の嬶アになると云つたぢやないか』 千『そりや云ひましたとも、あの時はあの時の場合で仕方なしに云つたのですよ。一生女房になると約束は為ませぬからなア。仮令半時でも女房になつて上げたら光栄でせう』 玄『そいつは頼りないなア、一生俺の女房になつてくれないか』 千『そりやならない事はありませぬが、貴方の心が心ですもの。そんな水臭いお方に一生を任して堪りますか』 玄『今日会つたばかりで水臭いのからいのとそんな事が分るものか、そりやお前の邪推だらう』 千『それだつて貴方は本当に水臭いワ。沢山の黄金を所持し乍ら、女房の私に任して下さらないのですもの。女房は家の会計万端をやつて行かなければならぬぢやありませぬか、金無しに如何して会計をやつて行く事が出来ますか、よう考へて御覧なさい』 玄『そりやさうだ、だがまだ斯うして旅の空ぢやないか、こんな重い物を女房のお前に持しては気の毒だ。家を持つた上でお前に支出万端任すから、まアまア安心してくれ給へ』 千『貴方はどこ迄も私を疑つてゐらつしやるのですな。私だつて人間ですもの、金位持つたつて途中で屁古垂れるやうな弱い女ぢやありませぬよ。さアすつぱりと此方へお渡しなさい。命迄拾つて上げた私ぢやありませぬか。仮令夫婦でなくても命を拾つてあげた恩人ぢやありませぬか』 玄『そりやさうだ、お前のお世話になつた事はよく覚えて居る。併し乍ら一夜の枕も交さぬ中からさう気ゆるしは出来ないからなア』 千『何とまア下劣な事を仰有いますな。それ程貴方はお金に執着心が強いのですか』 玄『別に金に執着は無いがお金と云ふものは物品の交換券だから、神様に次いで大切にせなければならないものだ。小判の百両も出せばどんな美人でも自分の女房に買ふ事が出来るのだ。これ丈の金があれば、何処かの都で高歩貸しをして居つても、一生安楽に暮す事が出来るからな』 千『ヘン馬鹿にして貰ひますまいかい、遊女と一つに見られては第一霊国の天人もつまりませぬワ。そんな分らぬお前さまならこれで御免を蒙りませう。誰がこんなヒヨツトコ野郎に秋波を送り女房だの嬶だのと云はれて耐るものか、左様なら、これ迄の御縁だと諦めて下さい』 と、ツと立上がり帰らうとする。玄真坊は慌てて千草姫の腰をぐつと抱へ、 玄『ても柔い肌だなア。これさう短気を起すものぢやない。魚心あれば水心あり、俺だつて木石ならぬ血の通ふた人間だ。そんなら三分の一だけお前に渡しておくから、暫くそれで辛抱してくれないか。三分の一だつてザツと一万両あるのだからなア、初めから全部ぼつたくらうとは余り虫がよすぎるぢやないか』 千草姫はペロリと舌を出し乍ら、 『玄真さま人を見損ひして下さいますな。私はお金に惚て貴方に跟いて来たのぢやありませぬよ。エヽ汚らはしい。金等は水臭いワ、金が仇の世の中と云ひますからナ、そこ迄お心が分つた以上は金なんか要りませぬ。貴方が持つて居て下されば、私の要る時には出して下さるのだから、そんな重い物はよう持ちませぬワ』 玄『なる程お前の真心は能う分つた。そんな心なら全部任してもよい、サア重くて済まぬがお前の腰につけてやらう』 千『嫌ですよ、そんな重い物……。男が持つものですよ。女なんか重たくて旅も出来ませぬもの』 千草姫は或地点迄重たいものを玄真坊に持たせ、此処と云ふ所で睾丸を締めて強奪らうと云ふ企を以て居た。恋に惚けた玄真坊は、千草姫の心の奥の企も知らず茹蛸のやうになつて、低い鼻や尖つた口や、ひんがら目を一所に寄せ声の色迄変へ、 玄『遉は千草姫だ。偉い偉い俺もコツクリと感心した。さアかう定まつた以上はお前はどこ迄も私の女房だなア』 千『さうですとも、今更そんな事云ふだけ野暮ですワ。初から女房と定つとるぢやありませぬか』 玄『それでも最前のやうに暫くの女房だの、一生女房にならうとは云は無かつたのと云はれると困る。一生なら一生とハツキリ云ふてくれ、金のある中だけの女房では困るからのう』 千『これ玄真さま、そんな下劣な事を云ふて下さいますな。二つ目には金々と仰有るが、金なんか人間の持つものですよ。私の美貌と天職は他には御座いますまい。天下に唯一人の救世主と云ひ、美人と云ひどうして金銭づくで手に入りますか、よく考へて御覧なさい。妾は金が欲しけりやトルマン国の王妃ですもの、幾何でも持つて来るのです。お前さまは泥棒の親分をやつて居たのだから、人の金を奪る事許り考へて居たのだから、女房が金を奪るか奪るかとそんな事許り考へて居られるのだからそれが私は残念です。も少し人格を向上して貰はなくては、大ミロクの添柱と云ふ所には行きませぬよ』 玄『いやもう恐れ入つた。今後一切お前さまにお任せ申す。いや女房に一任する。併し乍ら何時迄もこんな所で二人がコソコソ話しをやつても芽のふく時節がない。何所かスガの里へでも飛び出して立派な家屋を買求め、それを根拠として天下統一の大業を計画せうぢやないか』 千『ホヽヽヽ、小さい男にも似ず、随分肝玉の太い男だこと。妾それが第一気に入つてよ。さアこれからお前さまは言触れとなつて、そこら界隈を廻つて下さい。私は救世主となつて、この大日山の奥深く社を建て、其処に控へて居りますから、ドシドシと愚夫愚婦を集めて来るのですよ』 玄『ヤアそれも一策だが俺の顔は大抵の奴がこの界隈では知つて居る。万一オーラ山の山子坊主だと悟られては折角の計画が画餅に帰するから、そんな事云はずにスガの里迄行かうぢやないか。兎に角この風体では仕方がない、相当な法服を誂へ身につけて行かねば人が信用せぬからのう』 千『そんなら兎に角、夫殿の仰せに任せスガの里迄参りませう』 弥々これより玄真坊、千草の高姫は、大日の森を立ち出で、スガの港をさして大陰謀を企てむと進み行く事となつた。玄真坊は先づ歌ふ。 『出た出た出た出た現はれた雲井の空から現はれた 月日は照るとも曇るとも仮令大地は沈むとも 此世を救ふ生神は今現はれた千草姫 それに付き添ふ天真坊この二柱ある限り 世は常暗と下るとも案じも要らぬ法の船 ミロク菩薩が棹さして浮瀬に沈む人草を 彼方の岸にやすやすと救ひ助けて安国と 治めたまはる時は来ぬ勇めよ勇めよ諸人よ 祝へよ祝へよ千草姫千草の高姫ある限り 此世は末代潰りやせぬ三五教の奴原は 仮令大地は沈むとも誠の力は世を救ふ 等と業託並べたて世間の愚民を迷はせる 口先計りの山子神こんな奴等が何千人 出て来た処で何になる有害無益の厄介ものよ 倒せよ倒せよ三五の神の教の宣伝使 斎苑の館を根底からデングリ返してやらなけりや 吾等の望みは達せないウラナイ教の大教主 千草の高姫此所に在り仰げよ仰げよ諸人よ 慕ひまつれよ国人よ命の清水が汲みたくば 天真坊の前に来よ天帝の化身と名のりたる 第一霊国天人の内流うけたるこの身霊 またと世界に二人ないそれに加へて此度は 天より下りし千草姫凡ての権利を手に握り 天降りたる月の国天国浄土に開かむと 宣せ給ひし尊さよアヽ惟神々々 恩頼がうけたくば天真坊の前に来よ 天真坊が取り次いで千草の姫の御前に 事も委曲に奏上し如何なる罪をも穢をも 早川の瀬に流し捨て天国浄土の楽みを 此世ながらに授くべし下つ岩根の大ミロク 神の教の太柱弥々現はれました上は 四方の民草一人もツツボに墜とさぬ御誓 喜び勇めよ国人よアヽ惟神々々 御霊幸倍ましませよ』 玄『もし千草姫、いや女房殿、この宣伝歌はお気に召しましたかなア』 千『ホヽヽヽヽ、遉は玄真坊様だけあつて、甘く即席によい文句が出ますこと、私も大に感じ入りましたよ。どうかこの調子で町へ出たら力一ぱい歌つて下されや』 玄『よしよし、歌つてやらう、其代りお前も俺の女房だから、俺の歌も作つて歌つてくれるだらうなア』 千『そりや、玄真さま、天地顛倒も甚だしいぢやありませぬか、神界の御用と現界の御用と混同してはいけませぬよ。神界となればこの千草姫が大ミロクの太柱、玄真さまは眷族も同様ですよ。肉体上からこそ夫よ妻よと云ふて居りますが、神界の事となつたら此の千草の高姫は一歩も譲りませぬからなア』 玄『大変な権幕だなア。恰で大日山の山の神様見たやうだワイ』 千『そりやさうですとも、大日山の山の神は私ですよ。それだから嬶天下の女房を山の神と云ひませうがな』 玄『なる程、お前の云ふ通り俺の聞く通りだ、フヽヽヽヽ』 千『玄真さま、も一遍今の歌を歌つて頂戴な』 玄『よしよし、歌はぬ事はないが、何だか女房の讃美歌を歌ふのは些つと計りてれ臭いやうな気がして困るがなア』 千『エヽ頭の悪い、女房の讃美歌ぢやありませぬよ。下つ津岩根の大ミロクさまの讃美歌を歌つて下さいと云ふのですがな』 玄『ウンウンそりや分つて居る。よしよしそんなら慎んで歌はして頂きませう。オイ併し乍らスガの里迄はもう十五六里あるから到底足が続かない。この向に入江村と云ふ所がある。其所はハルの海がズツと入り込むで居る処で、大変景色も佳い。其所の宿で今晩は宿つたら如何だらうかなア』 千『里程は其所迄幾何程ありませうかな』 玄『三里半計りある。そこ迄行つておけば明日は船で楽に行けるからなア』 千『成程そりやよい事を思ひ付いて下さつた。さア、之から入江の里迄急ぎませう』 と両人は足に撚をかけ、一生懸命に駆け出したり。 (大正一五・二・一旧一四・一二・一九於月光閣加藤明子録)
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霊界物語 72_亥_スガの港(宗教問答所) 18 法城渡 第一八章法城渡〔一八二七〕 ヨリコ姫は訪ね来し高姫の、酢でも蒟蒻でも、一条縄ではいけぬやんちや牛たる事を看破し、下から上まで白綸子づくめの衣装を着、髪を長う後に垂れ、中啓を手に持ち、絹摺れの音サラサラと、廊下を寛歩しながら悠々然と問答椅子に寄りかかり、 ヨリ『何神の化身にますか白梅の 花の薫も高姫の君。 久方の天より高く咲く花も 君の装に及ばざるらむ。 君こそはウラナイ教の神柱 日の出の神と聞くぞ尊き』 高『お世辞をばならべて稜威高姫を 揶揄ひたまふ面の憎さよ。 追従を喰ふよな神で御座らぬぞ ヨリコの姫よその顔洗へ。 今日こそは汝が生死のさかひ目ぞ 善悪別ける神のおでまし』 ヨリ『これはしたり高姫様の御言葉 ヨリコの姫もあきれかへりぬ。 妾こそ誠の神にヨリコ姫 醜の荒風如何で恐れむ。 恐ろしき其顔は奥山の 岩窟に住める鬼かとぞ思ふ』 高『何と云ふ失礼な事を吐すのだ 泥棒上りの山子女奴。 みやびなる歌よみかけて神の宮 汚さむとするずるさに呆れし。 これからは誠の日の出が現はれて 汝が心の闇を照らさむ』 ヨリ『吾霊は昼夜さへも白雲の 空に輝く月日なりけり。 久方の天より下るエンゼルの 内流受けし吾ぞ生神』 高『猪口才な泥棒上りの分際で 生神などとは尻が呆れる。 尻喰へ観音様の真似をして 装ひばかり胸の狼』 ヨリ『狼か大神様か知らねども 吾の霊はいつも輝く。 吾霊は空に輝く日月の 光にまして四方を照らさむ』 高『ぬかしたり曲津の巣ふ霊で 尻餅月日の螢の光り奴』 ヨリ『五月雨の闇を縫ひ行く螢火も 夜往く人のしるべとぞなる。 螢火を数多集めて文をよみ 国の柱となりし人あり』 高『偉さうに理窟ばかりを夕月夜 山にかくれてすぐ闇とならむ。 大空に神の御稜威も高姫の 光を見れば目も眩むらむ』 ヨリ『君こそは大高山の山伏か 朝な夕なに大法螺吹くなり』 高『法螺貝は此世の邪気を払ふてふ 誠の神の神器なりけり。 法螺一つ吹けないやうな弱虫は 此世の中に生きて甲斐なし』 ヨリ『魂はよしや死すとも法螺の貝 音高姫になりわたるかな』 高『玄真坊法螺貝吹きの妻となり 世を乱したる汝ぞ悪神。 法螺吹いて錫杖をふり村々を かたつて廻る乞食祭文。 オーラ山大法螺吹の山の神 スガの宮にて又法螺を吹く』 ヨリ『何なりと勝手な熱を吹きたまへ 科戸の風に伊吹払へば』 高『伊吹山鬼の再来と聞えたる 汝は此世の曲津神なる』 ヨリ『汝こそはミロクミロクと大法螺を 吹きまくるなる醜の曲神』 高『こりやヨリコ口に番所がないかとて 此生神に楯をつくのか』 ヨリ『たてつくか嘘をつくかは知らねども 汝がほこには手答もなし』 高『手答のなき歌垣に立つよりも 言霊車めぐらして見む。 いざさらば吾訊問に答へかし 汝が生死の別るる所ぞ』 ヨリ『如何ならむ問にも答へまつるべし 早河の瀬の流るる如くに』 高姫拳を握りつつ雄猛びなして立上り ヨリコの姫を睨つけて声の調子もいと荒く 面上朱をば注ぎつつ扇パチパチ卓を打ち 『これこれヨリコの女帝さまこれから直接問答だ 天地の元を創りたる大根本の根本の 生神様の名は如何に』云へばヨリコは笑湛へ 『如何なる難題ならむかと思へばそんな事ですか 天地の元は無終無始無限絶対永劫に 静まり居ます国の祖国常立の神様よ 此一柱の神おきて外に誠の神はない 如何で御座る高姫』と顔さしのぞけば高姫は フフンと笑ふ鼻の先 高『何と分らぬ神司あきれて物が云へませぬ 大慈大悲の神様は天下万民悉く 安養浄土に救はむと心をくばりたまひつつ 底津岩根に身をかくし時節を待つて種々の 艱難苦労のそのあげくいよいよミロクの大神と ここに現はれましますぞその神様の生宮は どこに御座るかヨリコさますつかり当てて下さんせ もしも妾が負けたなら現在お前さまの目の前で 生たり死んだりして見せる』云へばヨリコは嘲笑ひ ヨリ『貴女の仰せは違ひます神の御書を調ぶれば 此世の初めと在す神は国常立の大神ぞ 其他の百の神々は皆エンゼルの又の御名 これより外にありませぬ』云へば高姫グツと反り 高『ホヽヽヽヽヽホヽヽヽヽこれや面白い面白い 三五教の盲神こんな事をば偉さうに 世の人々に打ち向ひ誠しやかに教へるのか 国常立の大神がもしも此国に御座るなら 妾の前に連れ参れそれが出来ない事なれば 空想理想の神でせう此高姫の問ふ神は 生きた肉体持ちながら生きて働き生ながら 人を救くる神ですよその神様はどこにある それを知らして貰ひたい』云へばヨリコは打ち笑ひ ヨリ『肉体もつてます神は産土山の聖場に 千木高知りてはおはします神素盞嗚の大御神 三千世界の太柱これより外にはありませぬ 貴女の守るウラナイのお道の神は何神か 確り妾は知らねども大した神では御座るまい』 云へば高姫腹を立て 高『神は清浄潔白で仁慈無限に在しませば 兎の毛の露の悪もない人を殺して金を奪り 数多の男女を誑らかし泥棒稼ぎをするやうな 輩を使ふ神ならば誠の神では御座るまい お前の素性を調ぶればオーラの山の山賊の 親分して居た曲津神神素盞嗚の大神の 正しく清く鎮座ます此聖場に腰据ゑて 神をば汚す曲津神早く改心した上で 一時も早く此席を退きなされヨリコさま 何程改心したとても白布に墨がついたなら 洗うても洗うても洗うても墨のおちない其如く どうせ貴女は創者よ創ある身霊が神業に 奉仕するとは理に合はぬこれでも返答御座るかな 此高姫は済まないが泥棒などはやりませぬ 大根本の根本の誠の神の太柱 妾に創が若しあればどうぞ探して下さんせ 抑々誠の神様は身霊相応の理によつて 善には善の神守り悪には悪の神がつく 創ある身霊にや傷の神清い身霊にや清い神 これが天地の相応だ』云へばヨリコは俯むいて 高姫一人残しおきすごすご一室に入りにける 高姫後を見送つて大口開けて高笑ひ 高『オホヽヽヽオホヽヽヽ狐や狸の正体を 日出神の御前に包むよしなく現はして 尻尾を股に挟みつつすごすご奥へ逃げ込んだ ほんに小気味のよい事よもう此上はヨリコとて 此高姫に打ち向ひ楯つく勇気は御座るまい 誤り証文認めて今日から貴女に此館 お任かせ申奉る罪ある妾の身の素性 何卒隠して下されと哀訴歎願と来るだろう あゝ面白や心地よや今日からこれの神館 棚の上から牡丹餅が落ちて来たよな塩梅に 吾手に入るは知れたこともしも問答に負けたなら 妾の役目を渡すぞと書いた看板が証拠ぞよ 待てば海路の風が吹く神が表に現はれて 善悪正邪を立て別ける此御教は三五の 決して神の教でない今目の当り高姫が 実行なしたる生言葉生証文のウラナイ教 千秋万歳万々歳ウラナイ教の大神の 御前に謹み畏みて今日の生日の足る時の 成功守り玉ひたる恵に感謝し奉る あゝ惟神々々御霊幸倍ましませ』と 四辺かまはず大声を張り上げながら唯一人 傍若無人の振舞はよその見る目も憎らしき。 話変つて玄関口には、アル、エス、キユーバーの三人が頻に口論を始めて居る。 アル『こりや、便所掃除の糞坊主奴、バラモン署へ訴へるなんて脅喝文句を並べ立て、犬の遠吠的に逃げ失せながらづうづうしくも何しにやつて来やがつたのだ。エヽ汚ない汚ない臭い、糞の臭気が鼻をついて耐らないワ、サア去んだり去んだり』 キユ『ハヽヽヽヽ、馬鹿云ふな、此処は今日から俺の領分だ。貴様こそ何処かへ出て往け、今奥で高姫さまと女帝との大問答が始まつて居るやうだが、きつと高姫さまの勝だ。これや此看板を見い、今にこの看板通り励行するのだ』 エス『ハヽヽヽヽこの糞坊主奴。高姫とか云ふ婆に泣きついて応援を頼んで来よつたのだな、何と見下げ果てた腰抜け野郎だな。八尺の褌をかいた男が何だい、女の加勢を頼んで来るとは卑怯にも程があるではないか、糞垂れ坊主奴。まごまごして居ると笠の台が無くなるぞ、サアサア足許の明い中股に尾を挟んで帰つたり帰つたり』 キユ『ハヽヽヽヽ馬鹿だのう。足許に火がついて、尻が熱うなつて居るのにまだ貴様達は気がつかぬのか。まあ見て居れ、今に法城の開け渡しと来るから、その時は吠面かわくな。又薬屋の門番に逆転して番犬の境遇に甘じワンワン吠ながら勤めるのが関の山だ。何とあはれな代物だな、ウフヽヽヽ』 問答席にはヨリコ、花香、ダリヤ姫の三人が高姫とさし向ひになり、法城開け渡しの掛合中である。 ヨリ『千草の高姫様、すつぱりと法城を開け渡しますから受け取つて下さい。貴女の問答には決して負るやうな女ぢやありませぬが、妾も一つ感じた事が御座います。何程立派な器でも焼つぎにした器はやつぱり創物です。貴女の最前仰有つた通り如何にもオーラ山の山賊の女頭目として世人を苦しめ、所在罪悪を犯して来ました。かやうな罪深い身霊をもつて至粋至純なる大神様の前に仕へまつるのは冥加の程が恐ろしう御座います。到底妾は汚れた罪の重い体、神様の御前に出る資格は御座いませぬ。貴女は今日迄どんな事を遊ばしたか神ならぬ身の妾、些しも存じませぬが、妾に比べては余程清らかなお身霊と拝察致します、是から一先づスガの薬屋に引き取りますから、後は御勝手になさいませ』 高姫『ホヽヽヽヽ、成程お前さまも比較的よく物の分る人だ。最前生宮の云うた言葉に感激して身の罪を恥ぢ、法城を開け渡す、その御精神、実に見上げたものですよ、併し創物はどこ迄も創物ですから足許の明い中、トツトとお帰りなさるがよからう』 ヨリ『妾の妹の花香、ダリヤも妾に殉じて退席すると云ひますから、どうかこれも御承知を願ひたう御座います』 高『何程上面は綺麗でも創物のお前さまに使はれて居つた代物だから、どうせ完全な器ぢやあるまい。自発的に退かうと云ふのはこれも感心の至りだ。何とまあ神界の御経綸と云ふものは偉いものだな、ホヽヽヽヽ』 と笑壺に入つて居る。そこへキユーバーが得意面を晒し肩肱を怒らし大手を振つて四人の前に入り来り、 『千草の高姫どの天晴々々、功名手柄お祝ひ申ます。ヤイ、ヨリコ、花香、ダリヤの阿魔女態ア見やがれ。俺の権勢はこの通りだ。サアこれから玉清別の野郎もアルもエスも叩き払ひだ。エヽ、臭い臭い、鼻が汚れるワ、腐り女、腐り野郎奴一刻も早く出て失せろ』 と仁王立になり蜥蜴が立ち上つた様なスタイルで四辺キヨロキヨロ睨め廻して居る。 (大正一五・七・一旧五・二二於天之橋立なかや別館加藤明子録)
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霊界物語 □_特別編-入蒙記 01 水火訓 第一章水火訓 神の稜威も高熊山の山の麓に生れたる 神徳四方に三葉彦神の精霊を相宿し 黄金世界を開かむとこがねの鶏黎明を 告ぐる夕の月の空干支に因みし十二の日 小判千両掘出して神の御国に献り 三千世界の蒼生を浦安国の心安き 天国浄土に救はむと一二三四五つ六つ 七つの春の弥生空富士の高根に仕へたる 松岡神使が現はれて朝な夕なに身魂をば 守らせ玉ひ二十まり八つの御年も如月の 白梅かほる夕月夜うづの霊地に伴ひて 現幽神の三界の其真相をつばらかに すべての業放擲し不二の神山に参まうで 神のみゐづを身に受けて心の色も丹波の 再び郷里に立返り西や東や北南 神のまにまに全国に教を伝達したりけり 明治は三十一年の文月下旬となりければ 神の御言を畏みて西北さして出でてゆく 西の御空を眺むれば半国山は巍然と 雲を圧して聳えたち東に愛宕の霊峰は 城丹両国睥睨し南に妙見聳え立ち 北に帝釈大悲山などの峻峯青垣を めぐらす中の穴太より北へ北へと歩を運ぶ 浮世はなれし坊主池心も高砂池の辺を 辿りて数多の信徒を救ひやらむと只一人 小松林の神霊に送られ乍ら進み行く 小林小河鷹林千原川関のりこえて 虎天堰に来てみれば並木の松の片ほとり いとも小さき一つ家が物淋しげに建つてゐる 渇を医せむと門の戸をくぐつて茶湯を求むれば 此家の妻と思はしき一人の婦人が現はれて かけた茶碗を揺る様にガチヤガチヤガチヤと喋り出す ガチヤガチヤ話を聞きつけてやおら腰掛はなれつつ 船井の都会八木の町道の広瀬や鳥羽の里 風さへ暑き室河原小山松原乗越えて 花の園部に安着し暫しはここに歩をとどめ 観音坂や須知町蒲生野こえて桧山 歩みも一二三の宮神歌を歌ひ声さへも 枯木峠や榎山大原神社を伏拝み 台頭須知山乗こえて風吹きわたる小雲川 風にゆらるる並木松水無月神社を右に見て 国照姫のあれませる裏町館に着きにけり あゝ惟神々々神の使命の重くして 二十五年の其間[※王仁三郎が大本入りした明治32年(1899年)から入蒙する大正13年(1924年)までの満25年という意味か?]艱難辛苦を堪へ忍び 時節来りて神業の実現間際となりければ 言霊別の精霊を身魂にみたし真澄別 名田彦守高両人を添へていよいよ大海を 渡り蒙古の大原野神政成就の先駆と 大活躍を始めたる神霊界の物語 時節来りて説きそむる大国常立大御神 神素盞嗚の大御神恩頼をくだしまし うまらにつばらに真相を述べさせ玉へと願ぎ奉る。 国照姫は国祖大神の勅を受け、水を以て所在天下の蒼生にバプテスマを施さむと、明治の二十五年より、神定の霊地綾部の里に於て、人間界の誤れる行為を矯正し、地上天国を建設すべく、其先駆として昼夜間断なく、営々孜々として、神教を伝達された。水を以て洗礼を施すといふは、決して朝夕清水を頭上よりあびる計りを云ふのではない。自然界は凡て形体の世界であり、生物は凡て水に仍つて発育を遂げてゐる。水は動植物にとつて欠く可からざる資料であり、生活の必要品である。現代は仁義道徳廃頽し、五倫五常の道は盛に叫ばるると雖も、其実行を企てたる者は絶えてない。神界に於ては先づ天界の基礎たる現実界に向つて、改造の叫びをあげられたのである。国常立尊の大神霊は精霊界にまします稚姫君命の精霊に御霊を充たし、予言者国照姫の肉体に来らしめ、所謂大神は間接内流の法式に依つて、過去現在未来の有様を概括的に伝達せしめ玉ふたのが、一万巻の筆先となつて現はれたのである。此神諭は自然界に対し、先づ第一人間の言語動作を改めしめ、而して後深遠微妙なる真理を万民に伝へむが為の準備をなさしめられたのである。凡て現世界の肉体人を教へ導き、安逸なる生活を送らしめ、風水火の災も饑病戦の憂もなき様、所謂黄金世界を建造せむとするの神業を称して水洗礼といふのである。 国照姫の肉体は其肉体の智慧証覚の度合によつて、救世主出現の基礎を造るべく、且其先駆者として、神命のまにまに地上に出現されたのである。国照姫の命のみならず、今日迄世の中に現はれたる救世主又は予言者などは、何れも自然界を主となし、霊界を従として、地上の人間に天界の教の一部を伝達してゐたのである。釈迦、キリスト、マホメツト、孔子、孟子其他世界の所在先哲も、皆神界の命をうけて地上に現はれた者であるが、霊界の真相は何時も説いてゐない。釈迦の如きは稍霊界の消息を綿密に説いてゐるようではあるが、何れも比喩や偶言、謎等にて茫漠たるものである。其実、未だ釈迦と雖、天界の真相を説くことを許されてゐなかつたのである。キリストは、吾弟子共より天国の状態は如何に……と尋ねられた時『地上にあつて地上のことさへも知らない人間に対し、天国をといたとて、どうして天国のことが受入れられうぞ』と答へてゐる。神は時代相応、必要に仍つて、教を伝達されるのであるから、未だキリストに対して、天国の真相を伝へられなかつたのである。又其必要を認めなかつたのである。然るに今日は人智漸く進み、物質的科学は殆ど終点に達し、人心益々不安に陥り、宇宙の神霊を認めない者、又は神霊の有無を疑ふ者、及無神論さへも称ふる様になつて来た。かかる精神界の混乱時代に対し、水洗礼たる今迄の予言者や救世主の教理を以ては、到底成神成仏の域に達し、安心立命を心から得ることが出来なくなつたのである。故に神は現幽相応の理に仍つて、火の洗礼たる霊界の消息を最も適確に如実に顕彰して、世界人類を覚醒せしむる必要に迫られたので、言霊別の精霊を地上の予言者の体に降されたのである。 曾てヨハネはヨルダン川に於て、水を以て下民に洗礼を施してゐた時、今後来るべき者は我よりも大なる者である。そして我は水を以て洗礼を施し、彼は火を以て洗礼を施すと予言してゐた。それは所謂キリストを指したのである。併し乍らキリストはヨハネより水の洗礼を受け、之より進んで天下に向つて火の洗礼を施すべく準備してゐた時、天意に依つて、火の洗礼を施すに至らず、遂に十字架上の露と消えて了つたのである。彼は死後弟子共の前に姿を現はし、山上の遺訓なるものを遺したといふ。併し此遺訓は何れも現界人を信仰に導く為の神諭であつて、決して火の洗礼ではない。故に彼は再び地上に再臨して火の洗礼を施すべく誓つて昇天したのである。火の洗礼と云つても東京の大震災、大火災の如きものを云ふのではない。大火災は物質界の洗礼であるから、之は矢張り水の洗礼といふべきものである。火の洗礼は霊主体従的神業であつて、霊界を主となし、現界を従となしたる教理であり、水の洗礼は体主霊従といつて、現界人の行為を主とし、死後の霊界を従となして説き初めた教である。故に水洗礼に偏するも正鵠を得たものでないと共に、火洗礼の教に偏するも亦正鵠を得たものでない。要するに霊が主となるか、体が主となるかの差異があるのみである。 茲にいよいよ火の洗礼を施すべき源日出雄の肉体は言霊別の精霊を宿し、真澄別は治国別の精霊を其肉体に充たし、神業完成の為に、野蛮未開の地より神教の種子を植付けむと、神命に仍つて活動したのである。あゝ惟神霊幸はへませ。 (大正一四、八、一五、松村真澄筆録)
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霊界物語 □_特別編-入蒙記 02 神示の経綸 第二章神示の経綸 明治の末葉大正の初期にかけ、思想混乱の極に達せる現実界に向つて、一大獅子吼をなし、神教を四方に伝達したる結果、恰も洪水の氾濫して大堤防を破壊するが如き勢を以て勃興したる天授の聖教、三五の聖団、其大本所在地と聞えたる綾の聖地──仏徒の所謂霊山会場の蓮華台、キリスト教徒の最も憧憬して已まざるパレスチナの聖場、オレブ山、エルサレムの聖地にも比すべき──神の本宮、桶伏山を中心とし、宏壮なる殿堂、錦の宮を建設し、四百四十四坪の八尋殿に於て、盛に主神の聖教を伝達し、既成宗教の上に卓越して、世界万有愛の教旗を飜へし、自転倒島を初め、地上の世界に無数の崇信者を有する三五教の根源地、八尋殿に於て、恆例の節分祭が執行された。此節分祭はキリスト教の所謂逾越祭の如きものである。此殿堂は五六七神政に因みて五六七殿と称へられてゐる。国照姫は地上に肉体を以て生存すること八十余年、大正七年陰暦十月三日神諭を書き了つて昇天し、其聖霊は稚姫君命と復帰し、天界に於て神政を行ひ、其遺骸は天王平の奥津城に永眠してゐる。国照姫の後継者はすでに二代三代と立並び、神教を伝達することとなつてゐる。 源日出雄は神示によつて、明治三十二年聖地に来り、水洗礼の教務を補佐し、大正十年迄神業を続けてゐた。此間殆ど二十四年、高姫の精霊の宿りたる徳島お福、菖蒲のお花、高村高造、四方与多平、鷹巣文助、其他数多の体主霊従派に極力妨害されつつも、凡ての障壁を蹴破して、十年一日の如く、神教に従事した。 梅村信行、湯浅仁斎、西田元教などの輔けはあつたが、分らずやの妨害最も甚だしく、大いに神業の進展を阻害した。 大正五年の末頃から鼻高学者等が続々と聖地に来り、大正十年に世界全滅の却託を並べ、一夜作りの霊学を称導し、三五の声望をして、一時は天下に失墜せしめた。其結果は大正十年に於て、有名なる大本事件を勃発し、次いで桶伏山、錦の宮の、乱暴至極な取毀ちとなり、源日出雄等は一時獄に投ぜられ、いかめしき閻魔の庁に引出されて、善悪邪正を審判さるることとなつた。此事件に肝をつぶし睾丸の宿換さした学者連は、数十万円の負債を投付け、日出雄以下の純真なる神の子を、千丈の谷間につきおとし、知らぬ顔の半兵衛をきめこみ、第二の計画を立て、迷へる少年をかり集めむとし、心霊会なるものを組織したが、天は斯かる暴虐を許さず、一時其傘下に集まれる猛者連は四方に散逸し、今や孤立無援の境地に立ち心霊と人生なる孤城に隠れて、切りに三五の本城に向つて征矢を放つてゐる。此間日出雄は桶伏山の山下、祥雲閣に於て、万有愛の教旗を飜し、三五の神教を伝ふべく、神示の霊界物語を口述発行し、天下に宣伝せしより、教勢頓に回復し、何れも其教理に歓喜雀躍し、洋の内外を問はず信者は日に月に蝟集し来り、昔日に優る大勢力を醸成した。 源日出雄は節分祭の済んだ後、壇上に立ちて一場の演説を試みた。 源日出雄『天地万有を創造し玉ひし独一真神主の神を斎きまつる今日は、一年一回の最も聖き祭典日であります。殊に大正十三年二月四日の節分祭は、天運循環して、甲子の聖日でありまして、吾々人間としては、十万年に一度より際会することの出来ない、最も意義ある主日であります。大神の愛善の徳と信真の光に充たされたる各国各地の役員信徒諸氏が、神縁相熟して、此八尋殿にお集まりになり、吾等と共に芽出度き大祭典に、奉仕さるることを得られましたのは、至仁至愛の主の神様の御恵みに外ならないことを、皆様と共に感謝せなくてはなりませぬ。御承知の通り、教祖国照姫命に懸らせ玉うた神様は、宇宙の創造者、天地の祖神大国常立尊でありまして、明治廿五年正月元旦、心身共に浄化したる教祖は稚姫君命の精霊を宿され、前後未曾有の聖教を、一切の衆生に向つて伝達されたのは、吾々人類の為には、実に無限絶大の賜物であります。主の神様は厳霊稚姫君命の御精霊に其神格をみたされ、地上の神人たる清浄無垢の霊身三五の教祖の肉体を終局点として来らせ玉ひ、間接内流の形式に仍つて、大地の修理固成の神業を、三界の衆生に対し洽く伝達すべく現はれ玉うたのであります。其初発の神諭には『三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の構ふ世になりたぞよ、須弥仙山に腰をかけ、三千世界を守るぞよ』と大獅子吼をされてゐます。此神示を略解すれば、三千世界とは、神界幽界現界の三大境界であり、過去現在未来をも指して居ります。梅の花の梅は言霊学上、エと云ふことになる、エは万物の始、生命の源泉であり、用はスといふことになり、スは一切統一の意味であります。又スは清浄潔白スミキリの意味ともなる。花とは初めて成るの意であり、最初の意味であり、教祖の意味ともなる。主の神が空前絶後の大神業をいよいよ開始し、最初の御理想たる黄金世界を地上に完全に建設し玉ふといふ芽出度き意味であります。艮といへば東北を意味し神典にては日の若宮の方位であり、万物発生の根源であつて太陽の昇り玉ふ方位であります。又艮といふ字義は艮めとなり初となり固めとなり永しとなり、世の終りの世の初まりの意味となります。金神といふ意味は売卜者の云つてゐる方除けをせられたり、祟り神として排斥せられてゐるやうな人間の仮りに造つた神の意味ではなく、尊厳無比金剛不壊の意味を有し、三界をして黄金世界に完成し玉ふ救ひの神といふ、約り言葉であります。 須弥仙山といふのは、仏経にある仮想的の山であつて所謂宇宙の中心を指したものであります。日月星辰が此須弥仙山を中心に進行し、須弥仙山には三十三の天があるといつてゐるのを見ても、無限絶対なる大宇宙の意味であることが明瞭となつて来ます。此須弥仙山に腰をかけ艮の金神が守ると宣示されたのは、実に驚嘆すべき大神業の大完成を予示されたもので、万有一切は此大神の愛善の徳と信真の光に浴し、現幽神三界に亘り、永遠無窮に真生命を保ち、歓喜に浴することを得るのであります。太古に於ける現世界の住民は何れも、清浄無垢にして、智慧証覚にすぐれ、愛の善と信の真をよく体得し、直接天人と交はり、霊界も現界も合せ鏡の如く、実に明かな荘厳な世界であつたのであります。それより追々と世は降つて白銀時代となり、八岐大蛇や醜狐が跋扈し始め、智慧証覚は漸くにしてにぶり出し、降つて赤銅時代黒鉄時代と益々現実化し、妖邪の空気は天地に充満し、三界に紛争絶間なく、今や泥海時代と堕落して了つたのです。仏者は之を末法の世といひ、基督教は地獄といひ、神道家は常暗の世と称へてゐます。地上一切の民は仁慈無限の大神の恩恵を忘却し、自己愛的行動を敢てなし、互に覇を争ひ、権利を獲得せむとし、排他と猜疑と、呪咀と悪口のみを之れ事とし、仏者の所謂地獄餓鬼畜生修羅の惨状を現出することとなりました。此に於て国祖の神霊は此惨状を座視するに忍びず、神より選まれたる清浄無垢なる霊身国照姫命をして神意伝達の機関となし、万有救済の聖業を托されたのであります。故に三五の教は根本の大神の聖慮を奉戴し、神界より此地上に天降し玉へる十二の神柱を集め、霊主体従的国土を建設し、常暗の世をして最初の黄金世界に復帰せしむる御神業に仕へまつるべき大責任をお任せになつたのであります。今や天運循環の神律によつて、世界各地に精神的救世主が現はれてをります。就いては日出雄も主の神の神示に従ひ、到底此小さき教団のみの神柱となつてゐることは出来ない様になりました。今日の人間は口先では実に勇壮活溌な、鬼神も跣足で逃げるような大気焔をはき、メートルを上げてる者もありますが、愈々実地となつた時は竜頭蛇尾に終るのが一般の傾向であります。今日の人間は凡てが卑劣で柔弱で、小心で貪欲で、我利々々亡者で、排他的で、真の勇気がありませぬ。かかる汚穢陀羅昏迷の極度に達した人心に活気を与へ、神の聖霊の宿つた活きた機関として、天晴れ活動せしめむとするには、先づ第一に勇壮活溌なる模範を示し、各人間の心の岩戸を開いてやる必要がありますので、国照姫命は荒波猛る絶海の孤島冠島沓島などに、小舟で渡り、荒行をなし、或は鞍馬山の幽谷其他の霊山霊地へ自ら出修して、信徒の肝を大ならしめ、有為なる信者を作り、社会の為に至誠を尽さしめむと努められたのであります。乍併元来臆病神の巣窟となつてゐる人間は盲聾同様で、国照姫命の聖跡をふんで、其実行を試みた者は一人もなかつたのであります。勿論開祖の行かれた冠島沓島や鞍馬山へ参拝して御神業が勤まつたと思つてゐる分らずやは相当にありました。けれども其精神を汲取つて其道に大活動を続けようとする勇者は一人も出なかつたのであります。此体をみて憤慨した日出雄は三五の信徒を始め自転倒島の人間及世界の人間に模範を示す為に、神示を畏み、蒙古の大原野を先づ第一に開拓すべく、大正六年の春より、秘かに其準備に着手して居りました。古語にも南船北馬といふ語があります。どうしても東北に進むのには馬に乗ることが必要である。故に日出雄は此年より準備の一端として、四頭の馬を飼育し、背の高き馬、低き馬、おとなしき馬、はげしき馬を乗こなし、時の到るを待ちつつあつた。そこへ神示の如く、大正十年辛酉の年に至つて、事件の為再び天下の大誤解をうけ、行動の自由を失つたので、意を決し、此世界の源日出雄として活動せむと思つてゐます。どうか諸子は其の考へを以て神業に奉仕されむことを希望致します。』 と結んで降壇した。源日出雄の心中には既に既に神命を奉戴し、空前絶後の大神業を今や企てむとし、満月の如く絞つた弓の矢は近く放たれむとしてゐたのである。 (大正一四、八、一五、松村真澄筆録)