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霊界物語 16_卯_丹波物語1 大江山/冠島沓島/丹波村 霊の礎(一) No. = 1683
霊の礎(一)
霊界には神界、中界、幽界の三大境域がある。
神界は神道家の唱ふる高天原であり、仏者の謂ふ極楽浄土であり、又耶蘇のいふ天国である。
○
中界は神道家の唱ふる天の八衢であり、仏者の謂ふ六道の辻であり、キリストのいふ精霊界である。
○
幽界は神道家の唱ふる根の国底の国であり、仏者の謂ふ八万地獄であり、又キリストのいふ地獄である。
○
故に天の八衢は高天原にもあらず、また根底の国にもあらず、両界の中間に介在する中程の位地にして即ち情態である。人の死後直に到るべき境域にして所謂中有である。中有に在ること稍久しき後現界にありし時の行為の正邪により或は高天原に昇り、或は根底の国へ落ち行くものである。
○
人霊中有の情態(天の八衢)に居る時は天界にもあらず又地獄にもあらず。仏者の所謂六道の辻または三途の川辺に立ちて居るものである。
○
人間に於ける高天原の情態とは真と善と美の相和合せし時であり、根底の国の情態とは邪悪と虚偽とが人間にありて合致せる時を云ふのである。
○
人の霊魂中に在る所の真と善と美と和合する時はその人は直に天国に昇り、人の霊魂中に在る邪悪と虚偽と合致したる時は、その人は忽ち地獄に墜つるものである。此の如きは天の八衢に在る時に於て行はるるものである。
○
天の八衢(中有界)に在る人霊は頗る多数である。八衢は一切のものの初めての会合所であつて、此処にて先づ霊魂を試験され準備さるるのである。人霊の八衢に彷徨し居住する期間は必ずしも一定しない、直に高天原へ上るのもあり、直に地獄に落ちるのもある。極善極真は直に高天原に上り、極邪極悪は直に根底の国へ墜落して了ふのである。或は八衢に数日又は数週日数年間居るものである。されど此処に三十年以上居るものは無い。此の如く時限に於て相違があるのは、人間の内外分の間に相応あると、あらざるとに由るからである。
○
人間の死するや、神は直にその霊魂の正邪を審判し給ふ、故に悪きものの地獄界に於ける醜団体に赴くはその人間の世にある時その主とする所の愛なるものが地獄界に所属して居たからである。又善き人の高天原に於ける善美の団体に赴くのもその人の世に在りし時の其愛、其善、其真は正に天国の団体に既に加入して居たからである。
○
天界地獄の区劃は此の如く判然たりと雖も、肉体の生涯に在りし時に於て朋友となり知己となりしものや、特に夫婦、兄弟、姉妹となりしものは、神の許可を得て天の八衢に於て会談することが出来るものである。
○
生前の朋友、知己、夫婦、兄弟、姉妹と雖も、一旦この八衢に於て別れたる時は、高天原に於ても根底の国に於ても再び相見る事は出来ない。又相識る事も無い。但同一の信仰、同一の愛、同一の性情に居つたものは天国に於て再び相見、相識ることが出来るのである。
○
人間の死後、高天原や根底の国へ行くに先だつて何人も経過すべき状態が三途ある。そして第一は外分の状態、第二は内分の状態、第三は準備の状態である。この状態を経過する境域は天の八衢(中有界)である。然るに此の順序を待たず直に高天原に上り、根底の国へ落つるものもあるのは前に述べた通りである。直に高天原に上り又は導かるるものは、その人間が現界に在る時神を知り、神を信じ善道を履み行ひ、その霊魂は神に復活して高天原へ上る準備が早くも出来て居たからである。
また善を表に標榜して内心悪を包蔵するもの即ち、自己の凶悪を装ひ人を欺くために善を利用した偽善者や、不信仰にして神の存在を認めなかつたものは、直に地獄に墜落し無限の永苦を受くる事になるのである。
○
死後高天原に安住せむとして霊的生涯を送ると云ふことは、非常に難事と信ずるものがある。世を捨てその身肉に属せる所謂情欲なるものを一切脱離せなくては成らないからだと言ふ人がある。此の如き考への人は主として富貴より成れる世間的事物を斥け、神、仏、救ひ、永遠の生命と云ふことに関して、絶えず敬虔な想念を凝らし祈願を励み教典を読誦して功徳を積み世を捨て肉を離れて霊に住めるものと思つて居るのである。然るに天国は此の如くにして上り得るものでは無い。世を捨て霊に住み肉を離れようと努むるものは却て一種悲哀の生涯を修得し高天原の歓楽を摂受する事は到底出来るものではない。何ンとなれば人は各自の生涯が死後にも猶留存するものなるが故である。高天原に上りて歓楽の生涯を永遠に受むと思はば現世に於て世間的の業務を採りその職掌を尽し道徳的民文的生涯を送り、かくして後始めて霊的生涯を受けねばならぬのである。これを外にしては霊的生涯を為し、その心霊をして高天原に上るの準備を完ふし得べき途は無いのである。内的生涯を清く送ると同時に外的生涯を営まないものは砂上の楼閣の如きものである。或は次第に陥没し或は壁落ち床破れ崩壊し顛覆する如きものである。アヽ惟神霊幸倍坐世。 |
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霊界物語 16_卯_丹波物語1 大江山/冠島沓島/丹波村 霊の礎(二) No. = 1684
霊の礎(二)
幼児嬰児の死後
嬰児や幼児の不幸にして現世界を去りしその後の
状況具さに演べておく。
○
人と現はれ出し身は必ず復活するものぞ
そは神言と言霊の力に頼り得ればなり
言霊神語に神真あり神真に由りて復活し
神をば覚り得るものぞ。
○
嬰児はその父また母の善悪正邪に拘はらず
信と不信の区別無くその死に当りて救世神の
摂受し給ふものなれば神界にても慇懃に
一大薫陶を受くるなり。
○
嬰児は順序に従ひて教育せられ善と美に
対する情動に浸染し真智を培ひ識を得つ
その後知識と証覚と相伴ひて円満の
域に進むに従ひて遂に天界へ導かれ
天人神子となるものぞ。
○
事物の道理に通暁せる世人は決して一人でも
地獄根底へ行く為に生れ出たる者は無し
只神霊界の経綸に仕ふるために生れし者ぞ
根底の国や地獄へと落ち行くものは自らの
現世に犯せし罪過にて身を苦しむる者ぞかし
嬰児幼児は世の中に罪過を犯せし事もなく
清浄の身魂の故ぞかし。
○
嬰児幼児の現界を去りて他界に到る時は
依然と元の嬰児なり無識と無智の其うちに
清浄無垢の所あり万事に対して可愛こと
その生前と異らず彼は神界の天人と
なるべき資格能力の萠芽を自然に保有せり
アヽ惟神々々神の仁慈の尊さよ。
○
凡ての人の現し世を捨てて他界に入る時も
また生前と同一の状態なるぞ不思議なれ。
○
嬰児は嬰児の状態に幼児は幼児の状態に
青年成人老人も現界同様の状態で
中有世界に逍遥す各自の人の状態が
転変するは其後ぞ。
○
嬰児幼児の状態の他よりも優りしものあるは
清浄無垢にて悪念の起こりしこと無く実際の
その生涯に悪業の根底を下さぬ為ぞかし
清明無垢の嬰幼児は神霊世界一切の
事物は心に植込まれ信の真と愛の善
受くべき器なればなり。
○
他界に於ける嬰児のその状態は現界の
小児に凡て超越す物質的の形態を
有するものは自身にて頑鈍なればその始め
受くる所の感覚と情緒は霊界よりで無く
外界起元を辿り行く。
○
故に世上の嬰児等は如何に地上を歩まむか
如何に動作を統制し言語を発する事までも
学ばにやならぬ不便あり其感覚に至りても
眼や耳や口の如きそを開かむと焦慮して
漸く目的達成す。
○
されど他界の小児等は之と全く相反し
精霊界に在る故に動作悉内分より
来れば実習を待たずして或は歩み且つ語る
神霊界の天人の言語は概して想中の
諸概念にて調停されその情動より流れ出づ
これ現界と霊界の人の相違の有る点ぞ。
大正十一年十二月[※2021/02/11次の一文は削除した。「小雨ふる透明殿の洋室に初夏を籠らひ校正ペン採る(昭和一〇・五・二八於透明殿王仁校正)」] |
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霊界物語 17_辰_丹波物語2 丹波村/鬼ケ城山 霊の礎(三) No. = 1706
霊の礎(三)
一、高天原の天国に上るものは、地上にある時其身内に愛と信との天国を開設し置かなければ、死後に於て身外の天国を摂受することは不可能である。
一、人間として、其身内に天国を有し無かつたならば身外に在る天国は決して其人に流れ来るものでは無い。又之を摂受することが出来ぬものである。要するに人は現実界にある間に、自ら心身内に天国を造りおく必要がある。而して天国を自ら造り且つ開くのは、神を愛し神を信じ無限絶対と合一しておかねば成らぬ。人は何うしても、この無限絶対の一断片である以上は、何処までも無限絶対、無始無終の真神を信愛せなくては霊肉共に安静を保つことは出来ぬものである。
一、真神たる天之御中主の大神その霊徳の完備具足せるを天照皇大御神と称へ奉り、又撞の大御神と称へ奉る。而して火の御祖神(霊)を高皇産霊大神と称へ厳の御魂と申し奉り、水の御祖神(体)を神皇産霊大神と称へ瑞の御魂と申し奉る。
一、霊系の主宰神は厳の御魂に坐します国常立神、体系の主宰神は瑞の御魂と坐します豊国主尊と申し奉る。
一、以上の三神は其御活動に由りて種々の名義あれども、三位一体にして天之御中主の大神(大国常立命)御一柱に帰着するのである。
一、故に独一真神と称へ奉り、一神即ち多神にして多神即ち一神である。之を短縮して主と曰ふ。又厳の御魂は霊界人の主である。又瑞の御魂は現界人の心身内を守り治むる主である。
一、現界人にして心身内に天国を建てておかねば死後身外の天国を摂受することは到底不可能である。死後天国の歓喜を摂受し且つ現実界の歓喜生活を送らむと思ふものは、瑞の御魂の守りを受けねばならぬ。要するに生命の清水を汲み取り飢渇ける心霊を霑しておかねば成らぬのである。瑞の御魂の手を通し、口を通して示されたる言霊が即ち生命の清水である。霊界物語によつて人は心身共に歓喜に咽び、永遠の生命を保ち、死後の歓楽境を築き得るものである。
一、天帝即ち主は水火の息を呼吸して無限にその生命を保ち又宇宙万有の生命の源泉と成り玉ふ。
一、太陽又水火の息を呼吸して光温を万有に与ふ。されど太陽神の呼吸する大気は、太陰神の呼吸する大気ではない。又人間の呼吸する大気は、主及び日月の呼吸する大気では無い。故に万物の呼吸する大気も亦、夫れ夫れに違つて居る。凡て神の呼吸する大気は現体の呼吸する大気では無い。現実界と精霊界と凡ての事象の相違あるは、是にても明かである。併しながら現実界も精霊界も、外面より見れば殆んど相似して居るものである。何ンとなれば現実界の一切は精霊界の移写なるを以てである。
一、高天原の天国は主の神格に由りて所成せられて居る。故に全徳の人間の往く天国と、三徳二徳一徳の人間の往く天国とは各高下の区別がある。又主を見る人々に由つて主の神格に相違があるのである。
一、そして何人の眼にも同一に見えざるは主神の身に変異があるのでは無い。主を見る所の塵身又は霊身に、その徳の不同があつて、自身の情動に由りて其標準を定むるからである。
一、天国には霊身の善徳の如何に由つて高下大小種々の団体が開かれて居る。主を愛し主を信じて徳全きものは、最高天国に上り最歓喜の境に遊び、主の御姿も亦至真至美至善に映ずるのである。茲に於てか天国に種々の区別が現出し、主神の神格を見る眼に高下勝劣の区別が出来るのである。
一、又天国外に在る罪悪不信の徒に致つては主神を見れば苦悶に堪へず、且つ悪相に見え恐怖措く能はざるに致るのである。
一、主神が天国の各団体の中にその神姿を現はし給ふ時は、其御相は一個の天人に似させ玉ふ。されど主は他の諸多の天人とは天地の相違がある。主自らの御神格が其神身より全徳に由つて赫き玉ふからである。
一、一霊四魂即ち直霊、荒魂、和魂、奇魂、幸魂、以上の四魂には各自直霊と云ふ一霊が之を主宰して居る。この四魂全く善と愛と信とに善動し活用するを全徳と曰ふ。全徳の霊身及び塵身は直に天国の最高位地に上り、又三魂の善の活用するを三徳と云ひ第二の天国に進み、又二魂の善の活用するを二徳と云ひ第三の天国へ進み、又一魂の善の活用するを一徳又は一善と云ひ、最下級の天国へ到り得るものである。一徳一善の記すべき無きものは、草莽間に漂浪し、又は天の八衢に彷徨するものである。
一、之に反して悪の強きもの、不信不愛不徳の徒は、其罪業の軽重に応じて夫れ夫れの地獄へ堕し、罪相当の苦悶を受くるのである。
大正十一年十二月 |
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霊界物語 18_巳_丹波物語3 玉照姫の誕生 霊の礎(四) No. = 1729
霊の礎(四)
一、真神又は厳瑞なる主神に認められ愛せられ信ぜられ又主神を認め深く信じ厚く愛する所には必ず天国が開かれるものである。諸多の団体に於ける善徳の不同よりして、主神を礼拝するその方法も亦同一でない、故に天国にも差等あり人の往生すべき天国に相違が出来るのである。併し乍ら天国の円満なるは此の如く不同あるが故である。同一の花の咲く樹にも種々の枝振りもあり花にも満開のもの半開のもの莟の儘のものがあつて、一つの花樹の本分を完全に尽して居るやうなものである。
一、天国は各種各様の分体より形成したる単元であつて、その分体は最も円満なる形式の中に排列せられて居る。凡て円満具足の相なるものは諸分体の調節より来るものといふことは吾人の諸々の感覚や外心を動かす所の一切の美なるもの楽しきもの心ゆくものの性質を見れば分明である。数多の相和し相協うた分体があつて或は同時に或は連続して節奏および調和を生ずるより起り来るもので決して単独の事物より発せないものである。故に種々の変化は快感を生ずるに到ることは吾人の日夜目撃実証する所である。そして此快感の性相を定むるは変化の性質如何にあるのである。天国に於ける円満具足の実相は種々の変態に帰因することを明め得らるるのである。
一、天国の全体は一の巨人に譬ふ可きものである。故に甲の天国団体はその頭部に又は頭部の或る局所に在る様なものである。乙天国の団体は胸部に又胸部の或る局所にある。丙天国の団体は腰部又は腰部の或る局所に在る如きものである。故に最上天国即ち第一天国は頭部より頸に至るまでを占め、中間即ち第二天国は胸部より腰及び膝の間を占め、最下即ち第三天国は脚部より脚底と臂より指頭の間を占めて居る様なものである。
一、天国は決して上の方而已に在るもので無い。上方にも中間にも下方にも存在するものである。人間の肉体に上下の区別なく頭部より脚底に至るまでそれぞれ意志の儘に活動する資質ある如きものである。故に天国の下面に住む精霊もあり、天人もある、又天国の上面に住むのも中間に住むのもある。天の高天原もあり地の高天原も在つて各自その善徳の相違に由つて住所を異にするのである。
一、宇宙間に於ては一物と雖も決して失はるる事も無く、又一物も静止して居るものでは無い。故に輪廻転生即ち再生と云ふことは有り得べきものである。然るに生前の記憶や意志が滅亡した後に矢張個人と云ふものが再生して行くとすれば、約り自分が自分であると云ふ事を知らずに再生するものならば再生せないも同じことであると云ふ人がある。実に尤もな言ひ分である。凡て人間の意志や情動なるものは、何処までも朽ないものである以上は、霊魂不滅の上から見ても記憶や意志を有て天国へ行くものである。然し現界へ再生する時は一旦その肉体が弱少となるを以て容易に記憶を喚起することは出来ないのである。又記憶して居ても何の益する所なき而已ならず、種々の人生上弊害が伴ふからである。之に反して天国へ往く時はその記憶も意念も益々明瞭に成つて来るものである。故に天国にては再生と云はず、復活と云ふのである。
一、科学的の交霊論者は人霊の憑依せし情況や死後の世界に就いて種々と論弁を試みて居るのは全然無用の業でもない。然し乍ら彼等の徒は最初と最後の此の二つの謎の間に板挟みの姿で、其言ふ所を知らない有様である。彼等はホンの少時間、時間と云ふものを最早数へることの出来ぬ世界へホンの一足許り死者の跡をつけて行くだけであつて、闇黒の中で其儘茫然としてその行衛を失つて了つて居る。彼等に対して宇宙の秘密や真相を闡明せよと言つた所で、到底ダメである。
一、宇宙の秘密や真相は到底二言や三言で現代人の脳裡に入るものでは無い。又本当にこれを物語つた所で到底人間の頭脳に這入り切れるものでは無い。人間の分際としては如何なる聖人も賢哲も決して天国や霊界の秘密や真相を握る事は不可能だと信じて居る。何となれば此秘密や真相は宇宙それ自身の如く無限で絶対で不可測で窮極する所の無いものだからである。
一、死者が矢張り霊界に生て居るならば、彼等は何等かの方法を用ゐてなりと吾々に教へて呉れさうなものだと云ふ人がある。然しながら死者が吾々に話をすることが出来る時分には死者の方に於て何も吾々に報告すべき材料を持つて居ないし、又何か話すべき程の事柄を知り得た時分には、死者は最早吾々と交通の出来ない天国へ上つて、永久に吾々人間と懸け離れて了つて居るからである。
大正十一年十二月
(昭和一〇・六・三王仁校正)
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霊界物語 19_午_丹波物語4 玉照姫と玉照彦 霊の礎(五) No. = 1751
霊の礎(五)
一、高天原に復活したる人間の霊身は、地上現実界に生存せし時の如く、思想感情意識等を有して楽しく神の懐に抱かれ、種々の積極的神業を営むことを得るは前に述べた通りである。
扨て人間は何うして現界に人の肉躰を保ちて生れ来るかと云ふ問題に至つては、如何なる賢哲も的確な解決を与へて居ない。併し是は実に止むを得ない所である。物質的要素を以て捏ね固められたる人間として無限絶対なる精霊界の消息を解釈せむとするのは恰も木に倚りて魚を求め、海底に潜みて焚火の暖を得むとするやうなものである。故に現界人は死後の生涯や霊界の真相を探らむとして、何程奮勉努力した所で到底不可能不成功に終るのは寧ろ当然である。一度神界の特別の許可を得たるものが、無数の霊界を探り来たり、之を現界へその一部分を伝へたものでなくては到底今日の学者の所説は臆測に過ぎないことになつて了ふ。
一、抑も高天原の天国に住む天人即ち人間の昇天せし霊身人は地上と同様に夫婦の情交を行ひ、終に霊の子を産んで是を地上にある肉体人の息に交へて人間を産ましめるものである。故に人は神の子、神の宮といふのである。地上は凡て天国の移写であるから天国に於て天人夫婦が情交を行ひ霊子を地上に蒔き落す時はその因縁の深き地上の男女は忽ち霊に感じ情交を為し胎児を宿すことになる。その胎児は即ち天人の蒔いた霊の子の宿つたものである。その児の善に発達したり悪に落つるのも亦その蒔かれた田畑の良否に依つて幾分かの影響をその児が受けるのは止むを得ない。智愚正邪の区別の付くのも止むを得ない。石の上に蒔かれた種子は決して生えない。又瘠土に蒔かれた種子は肥沃の地に蒔かれた種子に比すれば大変な相違があるものだ。之を思へば人間は造次にも顛沛にも正しき清き温かき優しき美はしき心を持ち、最善の行ひを励まねばならぬ。折角の天よりの種子を発育不良に陥らしめ或は不発生に終らしむるやうなことに成つては、人生みの神業を完全に遂行することは出来なくなつて宇宙の大損害を招くに至るものである。人間が現界へ生れて来る目的は、天国を無限に開く可く天よりその霊体の養成所として降されたものである。決して数十年の短き肉的生活を営むためでは無い。要するに人の肉体と共にその霊子が発達して天国の神業を奉仕するためである。天国に住む天人は是非とも一度人間の肉体内に入りてその霊子を完全に発育せしめ現人同様の霊体を造り上げ、地上の世界に於て善徳を積ませ、完全なる霊体として天上に還らしめむがためである。故に現界人の肉体は天人養成の苗代であり学校であることを悟るべきである。
一、胎児は母体の暗黒な胞衣の中で平和な生活を続け十ケ月の後には母体を離れて現界へ生れ喜怒哀楽の為に生存するものだと言ふことは知らないが、併し生るべき時が充つれば矢張り生れなくてはならぬ如く、人間も亦天国へ復活すべき時が充つれば如何なる方法にても死といふ一つの関門を越えて霊界に復活せなくてはならぬのである。胎児は月充ちて胞衣といふ一つの死骸を遺して生るる如く人間も亦肉体といふ死骸を遺して霊界へ復活即ち生るるのである。故に神の方から見れば生通しであつて死といふ事は皆無である。只々形骸を自己の霊魂が分離した時の状態を死と称するのみで要するに天人と生れし時の胞衣と見れば可いのである。胎児の生るる時の苦みある如く自己の本体が肉体から分離する時にも矢張相当の苦しみはあるものである。併しその間は極めて短いものである。以上は天国へ復活する人の死の状態である。根底の国へ落ちて行く人間の霊魂は非常な苦しみを受けるもので、恰度人間の難産のやうなもので産児の苦痛以上である。中には死産と謂つて死んで生れる胎児のやうに最早浮かぶ瀬が無い無限苦の地獄へ落されて了ふのである。故に人間は未来の世界のある事が判らねば真の道義を行ふことが出来ぬものである。神幽現三界を通じて善悪正邪勤怠の応報が儼然としてあるものと云ふことを覚らねば人生の本分は何うしても尽されないものである。
一、天国に住める天人は地上を去つて天国へ昇り来るべき人間を非常に歓迎し種々の音楽などを奏して待つて居るものである。故に天国を吾人は称して霊魂の故郷と曰ふのである。
真神即ち主なる神は人間の地上に於て善く発達し完全なる天人となつて天国へ昇り来り天国の住民となつて霊的神業に参加する事を非常に歓び玉ふのである。天国の天人も亦人間が完全な霊体となつて天国へ昇り来り天人の仲間に成ることを大変に歓迎するものである。
譬へば爰に養魚家があつて大池に鯉の児を一万尾放養し其鯉児が一尾も残らず生育して呉れるのを待つて歓び楽んで居る様なものである。折角一万尾も放養しておいた鯉が一定の年月を経て調べて見ると其鯉の発育悪く満足に発育を遂げたものが百分一に減じ其他は残らず死滅したり、悪人に捕獲されて養主の手に返らないとしたら其養主の失望落胆は思ひやらるるであらう。併し鯉の養主は只物質的の収益を計るためであるが、神様の愛の欲望は到底物質的の欲望に比ぶることは出来ない。故に人間は何処までも神を信じ神を愛し善の行為を励み、その霊魂なる本体をして完全なる発達を遂げしめ、天津神の御許へ神の大御宝として還り得るやうに努力せなくては、人生の本分を全うすることが出来ない而已ならず、神の最も忌みたまふ根底の国へ自ら落行かねばならぬやうになつて了ふのである。
アヽ惟神霊幸倍坐世。
大正十一年十二月
(昭和一〇・六・四王仁校正)
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霊界物語 20_未_丹波物語5 錦の宮の発足 霊の礎(六) No. = 1768
霊の礎(六)
一、第一天国たる最高最勝の位置を占たる天国の天人の姿は、実に花の如く、黄金の如く、瑠璃光の如く、且金剛石の幾十倍とも知れないやうな、肌の色を保つて居る天人ばかりである。そして大抵は有色人種、殊に黄色人種が多く、白色人種は其数に於て余程少数である。之を第二、第三の天国の住民より仰ぎ見る時は、只単に人間の像が強力なる光輝を放射して居るやうで、充分に見分くることが出来ない。
又第二、第三の天国には白色人種も多数に住み、有色人種も多数に住居して居る。そして白色人種は白色人種で団体を造り、ここに集合し、有色人種は比較的に少いやうである。
又宗教の異同に依つて、人霊の到る天国も違つて居る。仏教信者は仏教の団体なる天国へ上り、耶蘇教信者は耶蘇教の団体なる天国へ上り、回々教信者は回々教の団体なる天国へ上り、それ相応の歓喜を摂受して、天国の神業に従事して居る。また神道の信者は神道の団体なる天国に上り、神業に従事して居る。そして神道の中にも種々の派が分かれ、各自違つた信仰を持つて居るものは、又それ相当の団体にあつて活動し、歓喜に浴して、天国の生涯を楽んで居る。
一、如何なる宗教と雖も、善を賞し悪を憎まない教の無い限り、何れの宗教信者も各自天国へ上り得る資格は在る。併しその教にして充分に徹底したものは、堂しても高き優れたる天国が開かれてあるから、不徹底にして、霊界の消息に暗いやうな宗教の天国は実に最下方にあつて、見聞の狭い人間のみの団体が造られてある。現代の○○教や○○教などは、倫理的教理のみに堕して居て、肝腎の霊界の消息を教へない、否霊界の真相を徹底的に知悉して居ないから、却て中有界に逍遥する人間が多い。
凡て天国の団体に加入し得るものは、神を固く信じ、篤く愛し得るものである。不信仰にして天国に到る者も有るが極めて少数である。何れの宗教も信ぜず、守らず神の存在を知らずして天国へ往つたものは、大変に魔誤付き、後悔し、且つ天国や死後の生涯の在りしことに驚くものである。又現界に在る時、熱心に宗教を信じ、神を唱へながら、天国に上り得ずして中有界に迷つたり、甚だしきは地獄へさへ落つる人間もある。神仏の教導職にして却て天国に上り得ず、中有界に迷ひ、或は地獄に落つるものは随分に沢山ある。神仏を種にして、現界に於て表面善人を装ひつつ、内心に信仰なく、愛無く、神仏を認めない宣教者は、死後の生涯は実に哀れなものである。又熱心にして良く神を認め、愛と信とに全き者は、死後天国の団体に加入し、歓喜を尽しつつあるに引替へ肝腎の天国の案内役ともいふべき宣教者が、却て地獄落が多くて天国行きが尠いのは、所謂神仏商売の人間が多い故である。現界に於て為すべき事業も、又商売も沢山にあるに、それには関係せず、濡手で粟を掴む様なことや、働かずして、神仏を松魚節に使つて居る、似而非宗教家ぐらゐ、霊界に於て始末の悪いものは無く、且つ地獄行きの多いものはない。
一、高天原に於ける団体は、大なるものは十万人もあり、五万人、三万人、一万人、五千人、尠い団体になると四五十人のもある。故に各自の団体の天人は、自分の団体の一人でも多くなることを希望して居るから、天国へ上り来る人間に対して、非常なる好感を以て迎へる。
一、又天国の団体にある天人は、何れも男子なれば現界人の三十才前後、女子なれば二十才前後の若い姿である。この故は現界人の肉体は物質界の法則に由つて、年々に老衰して頭に白雪を頂き、身体に皺の寄るものであるが、人間の霊魂や情動は不老不死であつて、どこ迄も変らないものだから、精霊界の天人は年が寄つても、姿は変じない。
故に、現界に於て八九十才にて死んだ人間も、精霊界の天国へ復活した後は、その強壮な霊魂の儘で居るのだから、決して老衰するといふことは無い。天人にも五衰といふ説があるが、それは決して天人の事ではない、霊界の八衢に彷徨して居る中有界の人間の事である。故に天国へ往つた時に、自分の現界の父母や兄妹、又は朋友、知己なぞに会つても一寸には気の付かない如うなことが沢山にある。その故は自分の幼児たりし子は既に天国にて成長し、老たる父母は自分と同様に壮者の霊身を保ちて居るからである。然れど能く能く見る時は、何処ともなしにその俤が残つて居る。精霊の世界は凡てが霊的の要素から成り立つて居るから、現界の事物の如く、容易に変遷するものではない。是が精霊界と肉体界との相違せる点である。
アヽ惟神霊幸倍坐世。
大正十一年十二月 |
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霊界物語 20_未_丹波物語5 錦の宮の発足 霊の礎(七) No. = 1769
霊の礎(七)
凡ての人は死して後天国浄土に昇り行く
無限の歓喜に浴すべき人間特有の資質あり
これ神ごころ大和魂仏者の所謂仏性ぞ
そもそも人は色々と輪廻転生の門を越え
禽獣虫魚の境涯を渉りて現世に人間と
生れ来たりし者もあり高天原の天人が
男女情交のその結果霊子となりて地に蒔かれ
因縁ふかき男子女子陰と陽との水火の中に
交はり入りて生るあり人の霊魂は至精至微
過去と現在未来との区別も知らず生き通し
幾万劫の昔より生死の途を往来し
善果を積みて人間と漸く生れたる上は
如何でか高天の天国へ昇り得られぬ事やある
アヽ惟神々々神の仁慈ぞ有難き。
○
神の御子たる人の身は善悪正邪に拘はらず
高天原の天国へ上りて諸の歓楽を
味はひ得べき萌芽ありこれを称して神性といふ
偶根底の暗界へ墜ちて苦しむ者あるは
体主霊従利己主義や我性我執の妖雲に
おほはれ自ら身を破り自ら地獄の因を蒔き
自ら苦悶の深淵に沈み溺るる魂のみぞ
さは然りながら天地を造り玉ひし主の神は
至仁至愛に坐しませば極悪無道の人間も
容易に悪ませ給ふ無く天国浄土に救はむと
天の使を地に降し神の尊き御教を
うまらにつばらに隈もなく開かせたまひて世の人を
導き給ふぞありがたき。
○
神の御眼より見給へば聖人君子も小人も
智者と愚者との区別なく一切平等に映じ給ふ
これぞ仁愛のこころなり実相真如の太陽は
生死の長夜を照却し本有常住の月神は
煩悩の迷雲破却なし現世の人は昔より
例しもあらぬ聖代にいとも尊く生れ遇ひ
仁慈の教を蒙りて心の暗を押開き
天国浄土の手引をば開示されたる尊さは
渡りに舟を得し如く金剛不壊の如意宝珠
双手に受けしその如く暗夜に炬火を得し如し
アヽ惟神々々神の仁慈の限り無く
窮極なきに咽びつつ感謝の波に漂ひぬ
そもそも人の心霊は幸福以外の物々に
対して一切無感覚なるべく造られ居るものぞ
故に諸人の心霊は無限の歓喜を永遠に
享けむが為めに存在す人の心霊の歓喜とは
一々知悉し理解することに由りての歓喜なり
此の世に生れて何事も知悉し得られず理解せず
暗黒無明の生涯を送るもの程悲しみの
深きものこそ無かるべし第一死後の生涯に
対して無知識なることは悲哀の中の悲哀なり
アヽ惟神々々御霊幸はひましませよ。
大正十一年十二月
(昭和一〇・六・五王仁校正)
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霊界物語 23_戌_木山の里/竜宮島へ出発 霊の礎(八) No. = 1837
霊の礎(八)
一、現界の人間が人生第一の関門なる死といふ手続を了つて、神霊界に突入するに際しては決して一様で無い。極善の人間にして死後直に天国に上り行く時は、嚠喨たる音楽や、名状することの出来ぬやうな芳香に包まれ、容色端麗なる天人の群や、生前に於て曾て死去したる朋友、知己、親、兄弟等の天人と成りたる人々に迎へられ、際限なき美はしき空中を飛翔して、荘厳なる天国へ直様上り行くもあり、又四面青山に包まれたる若草の広大なる原野を、極めて平静に進み行くものもあり、又死後忽ち五色の光彩を放射せる瑞雲に身辺を包まれて上天するのもある。その時の気分といふものは何んとも言語に尽せないやうな、平和と閑寂と歓喜とに充ち、幸福の極点に達したるの感覚を摂受するものである。余りの嬉しさに、現界に遺しておいた親、兄弟、姉妹や朋友知己、その他物質的の欲望を全然忘却するに至るものである。万一上天の途中に於て地上の世界のことを思ひ出し、種々の執着心が萌芽した時は、その霊身忽ち混濁し、体量俄に重くなり、再び地上に墜落せむとするに到る。迎へに来りし天人は、新来の上天者が地上に心を遺し、失墜せざる様にと焦慮して、種々の音楽を奏したり、芳香を薫じたり、美はしきものを眼に見せたりなぞして、可及的現界追慕の念慮を失はしめむと努力するものである。山河草木、水流、光線等も亦地上の世界に比ぶれば、実に幾倍の清さ美はしさである。然し斯ういふ死者の霊身は、凡て地上に於ける人間としての最善を竭し、克く神を信じ、神を愛し、天下公共のために善事を励みたる人々の境遇である。
一、凡て人間の心霊は肉体の亡びたる後と雖も、人間の本体なる自己の感覚や、意念は引続き生存するものである。故に天上に復活したる人の霊身は、恰も肉体を去つた当時と同じ精神状態で、霊界の生活を営むものである。一旦天国へ上り、天人の群に這入つて天国の住民となつたものは、容易に現界へ帰つて来て肉体を具へた友人や、親戚や、知己達と交通することは難かしい。併し乍ら一種の霊力を具へて、精霊の発達したる霊媒者があれば、其の霊媒の仲介を経て交通することが出来るものである。その霊媒者は概して女子が適してゐる。女子は男子に比して感覚が強く、神経鋭敏で知覚や感情が微細だからである。又霊媒力の発達した人の居る審神場では、霊身は時に現界人の眼に入るやうな形体を現はし、その姿が何人にも見えるのである。その霊身に対して現界人が接触すれば、感覚があり、動いたり、談話を交ふることが出来るのである。されど天国に入つて天人と生れ代りたる霊身は、自分の方から望んで現代人と交通を保たんと希望するものは無い。現界人の切なる願ひによつて、霊媒の仲介を以て交通をなすまでである。
さりながら中有界に在る霊身は、時に由つて現界に生存せる親戚や、朋友等と交通を保たんと欲し、相当の霊媒の現はるることを希望するものである。それは自己の苦痛を訴へたり、或ひは霊祭を請求せむが為である。又執着心の深い霊身になると、現界に住める父母や兄弟、姉妹や遺産などに対して、自分の思惑を述べやうとするものである。かかる霊身は現世に執着心を遺してゐるから、何時までも天国へは上り得ずして、大変な苦悩を感受するものである。
一、霊界の消息、死後の生涯を述ぶるを以て、荒唐無稽として死後の生涯を否定する人々は、最早懐疑者では無く、寧ろ無知識の甚だしきものである。斯の如き人々に対して霊界の真相を伝へ、神智を開発せしむるといふ事は到底絶望である。
一、人間の肉体の死なるものは、決して滅亡でも、死去でもない。只人間が永遠に亘る進歩の一階段に過ぎないのである。只人間の所在と立脚地とを変更した迄である。意念も、愛情も、記憶も、皆個性の各部分であつて不変不動の儘に残るものである。死後に於ける生活状態は、現界に在りし時より引続いて秩序的に、各人がそれ相応の地位の天国の団体の生活を営むものである。
一、又卑賤無智にして世道人情を弁へなかつた悪人は、光明と愛と自由の無い地獄に落ちて苦しむものである。生前既に不和欠陥、闇黒苦痛の地獄に陥つた人間は、現界に在る間に悔い改め、神を信じ、神を愛し、利己心を去り、神に対しての無智と頑迷を除き去らなければ、決して死後安全の生活は出来ない。現世より既に已に暗黒なる地獄の団体に加入して居るものは、現界に於ても常に不安無明の生活を続けて苦しんでゐるものである。一時も早く神の光明に頑迷なる心の眼を開き、天国の団体へ籍替を為すことに努めなければならぬのである。(霊の礎八終)
[#以下は余白歌]
柳は煙る
モウ何と云つても春である。
ポカポカと暖かい春光に柳が芽ぐんで
寒い綾部にも春が来た事を物語つて居る。
軟かいグリーン色の柳の下に児等が三四
他愛なく遊び戯れて居るのも何んとなく
春の長閑けさである。
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霊界物語 37_子_出口王仁三郎自叙伝1 霊の礎(九) No. = 2201
霊の礎(九)
現実世界を後にして天上世界に往き見れば
地上の世界と同様に東西南北の方位あり
而して諸の天人は各住所に異同あり
愛の善徳具へたる天人住めるは東西位
而して東方は明瞭に之をば感じ西方は
おぼろに之を感ず也愛の徳より証覚を
具へて住むは南北位而して南方は明瞭に
証覚光を具へたる天人許り之に住み
又北方はおぼろげに証覚光を具へたる
天人のみぞ之に住む主神のいます霊国に
在る天人と天国に在る天人と皆共に
これの順序を守れども主の霊国は愛の徳
この徳に依り真光に従ふものと相異あり
天の御国に於ける愛は主神に対する愛にして
之より来る真光は即ち無上の証覚ぞ
霊国所在の真愛は公共に対する愛にして
之をば仁愛と称ふなり仁愛の真の光明は
神に基く智慧ぞかしこれの智慧をば信と云ふ
○
主神の統轄為し給ふ高天原の天界は
全く二つに分れあり主神の坐します天界を
称して霊の国と謂ひ天人達の住居せる
世界は即ち天国ぞ霊の御国と天国を
構成したる諸々の天の世界の方向は
決して同じきものならずそも天国の天人は
主神を太陽と打仰ぎ霊の御国に住むものは
主神を月と打仰ぐ而して主神の顕現し
たまふ処は東なり真神即ち主の神は
天国にては太陽と顕はれ給ひ霊国に
在りては月と顕れたまふ斯くも二種の御姿に
顕はれ玉ふは何故ぞ愛と信とを摂受する
度合の異る為ぞかし愛の善徳は火に応じ
信は光明に相応ず是霊国と天国の
二つに分るる所以なり
○
高天原の天界に住む天人の眼より
見る太陽は天界の太陽に比して最暗し
又太陰も同様に天界の月に比ぶれば
最も暗く見ゆるなり其理如何と云ふならば
地上に於ける太陽の火熱は自愛に相応し
その光明は自愛より招ける虚偽に相応す
そもそも自愛は主の神の愛と全く相反し
自愛よりするその虚偽は主神の有する神真と
正反対となればなりかくして主神の具へたる
神愛神真そのものに逆らふものは天人の
眼に暗く映るなり高天原の天国に
ある天人は主の神を太陽の如く打仰ぎ
霊国在住の天人は月の如くに仰ぐなり
○
地獄の世界に在るものは自己と世界をのみ愛し
神に逆らふその為に暗黒溟濛の裡に居り
全く神に相背き主神を後方に捨てておく
これ等を鬼霊精霊と称へて地獄の鬼となす
アヽ惟神々々神の世界の奇びなる。
大正十一年十二月 |
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霊界物語 24_亥_豪州物語1(高姫と蜈蚣姫) 霊の礎(一〇) No. = 1857
霊の礎(一〇)
一、高天原の天界には、地上の世界と同様に住所や家屋があつて、天人が生活して居ることは地上の世界に於ける人間の生活と相似て居るのである。斯くいふ時は現界人は一つの空想として一笑に付し顧みないであらう。それも強ち無理ではないと思ふ。一度も見たことも無く、又天人なるものは人間だと云ふことを知らぬ故である。又天人の住所なるものは、地球現界人の見る天空だと思ふから信じないのである。打見る所天空なるものは冲虚なるが上に、其天人といふものも亦一種の気体的形体に過ぎないものと思ふからである。故に地の世界の人間は、霊界の事物にも亦自然界同様であるといふ事を会得することが出来ぬからである。現実界即ち自然界の人間は、霊的の何者たるかを知らないから疑ふのである。地上の現界を霊界の移写だといふことを自覚せないから、天人と云へば天の羽衣を着て、空中を自由自在に飛翔するものと思つてゐるのは人間の不覚である。天人は之等の人間を癲狂者と云つて笑ふのである。
一、天人の生活状態にも各不同があつて、威厳の高きものの住所は崇高なものである。又それに次ぐものはそれ相応の住所がある。故に天人にも現界人の如く名位寿福の願ひを持つて居て進歩もあり向上もあるので、決して一定不変の境遇に居るものでは無い。愛と信との善徳の進むに従つて倍々荘厳の天国に到り、又は立派なる地所や家屋に住み、立派なる光輝ある衣服を着し得るものである。何れも霊的生活であるから、その徳に応じて主神より与えへらるるものである。凡ての疑惑を捨てて天国の生活を信じ死後の状態を会得する時は自然に崇高偉大なる事物を見るべく、大歓喜を摂受し得るものである。
一、天人の住宅は地上の世界の家屋と何等の変りも無い。只その美しさが遥に優つてゐるのみである。その家屋には地上の家屋の如く奥の間もあり、寝室もあり、部屋もあり、門もあり、中庭もあり、築山もあり、花園もあり、樹木もあり、山林田畑もあり、泉水もあり、井戸もあつて、住家櫛比し都会の如くに列んで居る。亦坦々たる大道もあり、細道もあり、四辻もあること地上の市街と同一である。
一、天界にも又士農工商の区別あり。されど現界人の如く私利私欲に溺れず、只その天職を歓喜して天国の為に各自の能力を発揮して公共的に尽すのみである。天国に於ける士は決して軍人にあらず、誠の道即ち善と愛と信とを天人に対して教ふる宣伝使のことである。地上に於て立派なる宣伝使となり其本分を尽し得たる善徳者は、天国に住みても依然として宣伝使の職にあるものである。人間は何処までも意志や感情や又は所主の事業を死後の世界迄継承するものである。又天国霊国にも、貧富高下の区別がある。天国にて富めるものは地上の世界に於てその富を善用し、神を信じ神を愛するために金銀財宝を活用したるものは天国に於ては最も勝れたる富者であり、公共のため世人を救ふために財を善用したるものは中位の富者となつて居る。又現界に於てその富を悪用し、私心私欲の為に費し又は蓄積して飽くことを知らなかつた者は、其の富忽ち変じて臭穢となり、窮乏となり、暗雲となりて霊界の極貧者と成り下り、大抵は地獄に堕するものである。又死後の世界に於て歓喜の生涯を営まむと思ふ者は、現世に於て神を理解し、神を愛し神を信じ、歓喜の生涯を生前より営みてゐなければ成らぬのである。死後天国に上り地獄の苦を免がれむとして、現世的事業を捨てて山林に隠遁して世事を避け、霊的生活を続けむとしたる者の天国に在るものは、矢張生前と同様に孤独不遇の生涯を送るものである。故に人は天国に安全なる生活を営まんと望まば、生前に於て各自の業を励み、最善の努力を尽さねば死後の安逸な生活は到底為し得ることは出来ないのである。士は士としての業務を正しく竭し、農工商共に正しき最善を尽して、神を理解し知悉し之を愛し之を信じ善徳を積みておかねばならぬ。又宣伝使は宣伝使としての本分を尽せばそれで良いのである。世間心を起して、農工商に従事する如きは宣伝使の聖職を冒涜し、一も取らず、二も取らず、死後中有界に彷徨する如き失態を招くものである。故に神の宣伝使たるものは何処までも神の道を舎身的に宣伝し、天下の万民を愛と信とに導き、天国、霊国の状態を知悉せしめ、理解せしめ、世人に歓喜の光明を与ふることに努力せなくては成らぬのである。天界に坐ます主の神は仁愛の天使を世に降し、地上の民を教化せしむべく月の光を地上に投じ給うた。宣伝使たるものは、この月光を力として自己の霊魂と心性を研き、神を理解し知悉し、愛と信とを感受し、是を万民に伝ふべきものである。主一無適の信仰は、宣伝使たるものの第一要素であることを忘れてはならぬ。天界地上の区別なく神の道に仕ふる身魂ほど歓喜を味はふ幸福者は無いのである。
アヽ惟神霊幸倍坐世。
大正十一年十二月王仁 |
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霊界物語 24_亥_豪州物語1(高姫と蜈蚣姫) 霊の礎(一一) No. = 1858
霊の礎(一一)
一、天界即ち神界高天原にも、又地上の如く宮殿や堂宇があつて、神を礼拝し神事を行つて居るのである。その説教又は講義等に従事するものは、勿論天界の宣伝使である。天人は常に愛と証覚の上に於て、益々円満具足ならむ事を求めて、霊身の餌となすからである。天人に智性や意性の有ることは、猶地上現界の人間同様である。天人は天界の殿堂や説教所に集合して、其の智的又は意的福音を聴聞し、共に益々円満ならむことを望むものであつて、智性は智慧に属する諸の真理に依り、意性は愛に属する諸の善に由つて、常に円満具足の境域に進みて止まぬものである。
一、天界の説法は天人各自が処世上の事項に就て、教訓を垂るるに止まつて居る。要するに愛と仁と信とを完全に体現せる生涯を営まむが為に説示し聴聞するのである。説法者は高壇の中央に立ち、其面前には証覚の光明勝れたるもの座を占め、聴聞者は宣伝使の視線を外れぬ様に円形の座を造つて居る。その殿堂や説教所は天国にあつては木造の如く見え、霊国にあつては石造の如くに見えて居る。石は真に相応し、木は善に相応して居るからである。又天国の至聖場は之を殿堂とも説教所とも云はず、只単に神の家と称へてゐる。そして其建築は余り崇大なものではない。されど霊国のものは多少の崇大な所がある。
○
天国浄土の天人を教導すべき宣伝使
一名神の使者といふ宣伝神使は何人も
霊の国より来るなり天国人の任ならず
そも霊国の天人は善より来り真に居り
真理に透徹すればなり天国浄土に住むものは
愛の徳にて真を得て知覚するのみ言説を
試むること敢て無し彼れ天国の天人は
己が既に知り得たる所を益々明白に
体得せむと思へばなり又その未だ知らざりし
真理を覚り円満に認識せむと努め行く
一度真を聴く時は直様之を認識し
つづいて之を知り覚る真を愛して措かざるは
その生涯に活用し之をば己が境涯の
中に同化し実現しその向上を計るなり。
○
高天原の主神より任さし給ひし宣伝使は
自ら説法の才能あり霊国以外の天人は
神の家にて説くを得ず而して神の宣伝使は
祭司となるを許されず神の祭祀を行ふは
天国人の所業にて霊国人の職ならず
その故如何と尋ぬれば高天原の神界の
祭司を行ふ職掌は天国に住む天人の
惟神の神業なればなりそもそも祭司の神業は
霊国に坐す主の神の愛の御徳に酬ゆべく
奉仕し尽す為ぞかし高天原の天界(神界)の
主権を有すは霊国ぞ善より来たる真徳を
義として真に居ればなり高天原の最奥に
おける説示は証覚の極度に達し中天の
説示は最下の天国の説示に比して智慧に充つ
如何となれば天人の智覚に応じて説けばなり
説示の主眼要点は何れも主神の具へたる
神的人格を各人が承認すべく教へ行く
事を除けば何もなし之を思へば現界の
宣伝使また主の神の神格威厳を外にして
説示すること無かるべしアヽ惟神々々
高天原の天界の主神の愛とその真に
歓喜し恭まひ奉る。
大正十一年十二月王仁 |