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霊界物語 08_未_日の出神の弟子たちの南米物語 39 言霊解一 No. = 1419
第三九章言霊解一〔三八九〕
『故ここに伊弉諾命詔り給はく「愛くしき我が那邇妹命や、子の一つ木に易へつるかも」と宣り給ひて、御枕べに匍匐ひ御足べにはらばひて、泣き給ふ時に、御涙に成りませる神は、香山の畝尾の木の下にます、御名は泣沢女の神、故其の神去りましし伊弉冊神は、出雲の国と伯伎の国との堺、比婆の山に葬しまつりき』
伊弉諾命は即ち天系霊系に属する神でありまして、総ての万物を安育するために地球を修理固成されました、国常立尊の御後身たる御子の神様でありますが、古事記にある如く、迦具土神が生れまして、即ち今日は、交通機関でも、戦争でも、生産機関でも火力ばかりの世で、火の神様の荒ぶる世となつたのであります。この火の神を生んで地球の表現神たる伊弉冊命が神去りましたのであります。この世の中は殆ど生命がないのと同じく、神去りましたやうな状態であります。
そこで伊弉諾命は我が愛する地球が滅亡せむとして居るのは、迦具土神が生れたからであるが、火力を以てする文明は何程文明が進んでも、世の中がこれでは何にもならぬ。地球には換られぬと宣らせ給はつたのであります。これが『子の一つ木に易へつるかも』といふ事であります。
次に『御枕べに匍匐ひ御足べにはらばひて』といふことは、病人にたとへると病人が腹這ひになつて死んだのを悔む如く、病人と同じく横になつて寝息を考へたり、手で撫でて見たり、又手の脈をとつて見たり、足の脈をとつて見たり、何処か上の方に生た分子がないか、頭に当る所に生気はないか、日本魂が未だ残つては居ないかと調べ見給ひし所殆ど死人同様で上流社会にも、下等社会にも脈はなくて、何処にも生命はなくなつて居る。全く今日の世の中はそれの如くに暖かみはなく冷酷なもので、然も道義心公徳心が滅亡して了つて居るのであります。それで泣き悲しみ給ふ時に、その涙の中に生りませる神の名を泣沢女神というて、これは大慈大悲の大神様が、地上一切の生物を憐み玉ふ所の同情の涙と云ふことであります。今日でも支那の或地方には泣女といふのがあつて、人の死んだ時に雇はれて泣きに行く儀式習慣が残つて居るのも、これに起源して居るのであります。
神去りました伊弉冊命は、之を死人にたとへて出雲の国と伯耆の国の境に葬むられたと書いてありますが、出雲といふのは何処もといふことで亦雲出る国といふことである。
今日の如く乱れ切つて、上も下も四方八方、怪しい雲が包んで居るといふ事であります。伯耆の国といふのは、掃きといふことで雲霧を掃き払うと云ふことである。科戸の風で吹払うと云ふのもさうであります。即ち国を浄める精神と、曇らす精神との堺に立たれたのであります。所謂善悪正邪の分水嶺に立つたものであります。実に今の世界は光輝ある神世の美はしき、楽しき黄金世界になるか、絶滅するか、根の国底の国、地獄の世を現出するかの堺に立つて居るのであります。
『比婆の山に葬し』といふ事はヒは霊系に属し、赤い方で、太陽の光線といふ意義でバと云ふのは、ハとハを重ねたもので、これは悪いことを指したものであります。即ち霊主体従と体主霊従との中間に立て、神が時機を待たせられたと云ふことであります。斯くして伊弉冊命即ち地球の国魂は、半死半生の状態であるが、併し天系に属する伊弉諾命は純愛の御精神から、此地球の惨状を見るに忍びずして、迦具土神即ち火の文明が進んだため、斯うなつたといふので、十拳剣を以て迦具土神の頸を斬り給うたのであります。十拳の剣を抜くと云ふ事は、戦争を以て物質文明の悪潮流を一掃さるる事で、所謂首を切り玉うたのであります。
この首といふことは、近代でいへば独逸のカイゼルとか、某国の大統領とか云ふ総ての首領を指したのである。即ち軍国主義の親玉の異図を破滅せしむる為に、大戦争を以て戦争の惨害を悟らしむる神策であります。
『是に伊邪那岐命、御佩せる十拳剣を抜きて、其御子迦具土神の御頸を斬り給ふ。爾に其御刀のさきにつける血、湯津石村にたばしりつきて、成りませる神の御名は、石拆神、次に根拆神、次に石筒之男神、次に御刀の本につける血も、湯津石村にたばしりつきて成りませる神の御名は、甕速日神、次に樋速日神、次に建御雷之男神、亦の御名は建布都神亦の御名は豊布都神、次に御刀の手上にあつまる血、手俣より漏れ出で成りませる神の御名は闇於加美神、次に闇御津羽神』
十拳剣即ち神界よりの懲戒的戦争なる神剣の発動を以て、自然に軍国主義の露国や独乙を倒し、カイゼルを失脚させ、そのとばしりが湯津石村にたばしりついたのであります。この湯津石村につくといふことは、ユとは夜がつづまつたもので、ツは続くのつづまつたもので、要するに夜ル続くといふことになります。彼方からも此方からも、草の片葉が言問ひを致しまして、彼方にも此方にも、種々の暗い思想が勃発して、各自に勝手な主義なり意見なりを吐き散らしまして過激主義だとか、共産主義だとか、自然主義、社会主義がよいとか、専制主義がよいとか、いろいろなことを言ふ意味になります。又イハといふことは、堅い動かぬ位といふことで、ムラは群がるといふ意義で、岩とは尊貴の意、村とは即ち下の方の人間の群といふことであります。所謂タバシリツクといふのは、鳴り続いて上にも下にも種々雑多の思想や主義が喧伝されて居ることであります。即ちたばしりついて生りませる神といふのは、生れ出ることではなくして、鳴り鳴りて喧ましいといふ事であります。その神の御名を甕速日神といふ。
ミは体、カは輝くといふことで、体主霊従の神であります。樋速日神は霊主体従の神であつて、両者より種々なる思想の戦ひが起るといふ事であります。即ち主義の戦ひであります。次に建御雷之男神は、直接行動と云ふことで、霊主体従国は言向平和神国であるから、滅多にありませぬが、体主霊従国などは皆々建御雷之神であります。即ち露国のやうに、支那のやうに皇帝を退位せしめたり、すべて乱暴をするとか、焼討をするとか、暴動を起すとか、罷業、怠業するとかいふ如うな事であります。
建御雷神は天神の御使でありますが、本文の言霊上から考ふれば、爰はその意味にはとれぬ、争乱の意味になるのであります。亦の名は建布都神、又は豊布都神といふのは善と悪の方面を指したもので、凡て善悪美醜相交はるといふことになります。即ちよき時には苦しみが芽出し、苦しみの時には楽みが芽出して居るといふやうなものであります。
世の中が混乱すればする程、一方に之を立直さむとする善の身魂が湧いて来るといふ意味であります。
十拳剣を握つて居らるる鍔元に集まる血といふのは、各自に過激な思想を抱いて居るといふ事で、血を湧かす事であります。即ち手のまたから漏れ出ることになります。この手のまたから漏れ出ると云ふ事は、厳重な警戒を破つて現はるる事であります。闇於加美神といふことは、世界中の上の方にも非常な過激な思想が現はれるといふことであります。
次に闇御津羽神のみつといふのは、水でありまして、下の方即ち民のことで、これも無茶苦茶な悪思想になつて、世の中が益々闇雲になるといふことであります。
この昔の事を今日にたとへて見ますと独逸のカイゼルが失脚したのも、露国のザーが亡んだのも、支那の皇帝がああなつたのも、皆天の大神が十拳剣を以て斬られたのであります。斯の如く神は無形の神剣を以て斬られるのであります。それで人間が戦ふことになるのであります。この殺された迦具土神のことを現代にたとへますれば、爆弾とか大砲とか、火器ばかりで戦ふのでありまして、弓とか矢で戦ふのではありませぬ。軍艦を動かすのも火の力であります。それで大神に依て火の神が殺されたといふことは、惨虐なる戦争が止んだといふことになるのであります。今回の五年に亘る世界戦争の結果は、迦具土神の滅亡を意味して居るのであります。
(大正九・一一・一於五六七殿講演外山豊二録)
(大正一一・二・一〇旧一・一四谷村真友再録)
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霊界物語 08_未_日の出神の弟子たちの南米物語 40 言霊解二 No. = 1420
第四〇章言霊解二〔三九〇〕
『殺されましし迦具土神の御頭に、成りませる神の御名は、正鹿山津見神、次に御胸に成りませる神の御名は淤縢山津見神、次に御腹に成りませる神の御名は奥山津見神、次に御陰に成りませる神の御名は、闇山津見神、次に左の御手に成りませる神の御名は志芸山津見神、次に右の御手に成りませる神の御名は、羽山津見神、次に左の御足に成りませる神の御名は、原山津見神、右の御足に成りませる神の御名は戸山津見神』
殺された火の神の頭に成りませる神はよい神ではない。即ち正鹿山津見神は強く尊い位置にある悪い神といふ意味であります。ヤといふ事は、言霊上、ア行は天の声、ヤ行は人の声、ワ行は地の声、即ちヤは人の声、世界一般人種の衆口愚論でマツミは魔積みでありますから、ヤマツミといふ事は言論界に悪魔が住むといふ意味で、これが正鹿山津見神の起ることになります。頭に成りませるとは、即ち上の方はいらぬと云うて、今日のデモクラシーの如く、人類は平等に天の恵を享くるといふ説で、階級撤廃なぞといふ思想が起るといふ事であります。
次に『御胸に成りませる神の御名、淤縢山津見神』の胸といふのは、人間の身体にたとふれば、心臓や肺臓や乳の辺で、政治家でいへば、大臣とか、親任官とか、勅任官などが胸であります。即ち是等の人々の思想が書いてあるのであります。下から種々な思想上の戦争が起つて、それに胸を痛めて、おどおどして居るから軍隊や、警察の力で圧迫脅威するといふ意味になります。
次に『御腹に成りませる神の名、奥山津見神』といふのは、国民の中堅即ち中流社会といふことで、人体にたとふれば臍に当るのであります。
オは心、クは組むとか、苦むとかいふ事で、中流階級は中央に立つて、何うしたらよからうかと云うて、苦んで居るのであります。即ち保守主義でも行かず、新しい主義でも行かず、その中を採つて、うまくやりたいといふ言霊上の意味になるのであります。
次に『御陰に成りませる神の名、闇山津見神』といふのは、ほとは農業に従事する民で、人体にたとふれば陰部に当りまして、子を産み出す所であります。即ち農家といふことになります。この百姓は現在如何なる思想があつて、その意味が何であるかわからず、指導者に依つて如何でもなることを意味して居るのであります。全く時の勢に依つて何方にもつく無定見な思想が闇山津見神といふことになります。
次に『左の御手に成りませる神の名、志芸山津見神』の、この左の手といふことは上の方の手といふことで、即ち政治家で、右の手は実業のことになります。総て政治家は神の左手の役、実業家は右の手の役で、右の手で仕事をして、左の手で治めることになるのであります。志芸山津見神のシは水で、ギは神と国と重なりたる意味であります。さうすると政治家は精神文明に気がつかずに、精神教育よりも、物質の方に重きを置くといふ意味になります。今日は到る所に排日思想が起つて居りますが、この思想の問題は思想で抑へつけなければならぬのに、貿易の上にも圧迫を受け、軍備も彼方はよく整へて居るとなりますと、此方にも日本なれば八々艦隊を造つたり、陸軍を増たりして、国を護らうとして居る考への盛んな時のことを志芸山津見神といふのであります。
次に『右の御手に成りませる神の御名、羽山津見神』といふのは、下々の百姓や労働者、実業家を指したものであります。即ち戦争が起れば人気が悪くなるかも知れぬが米が高くなつたり、物価が騰つたりするから、米を貯へて置いて儲けてやらうとか、又沢山品物を仕入れて置いて一儲けしようとか、如何したら金が儲かるかと云ふことばかりを考へて居る。実に下の人民の真心が、乱れた利己主義といふことになります。
ハは開くといふことでありますがハヤマツミと続きますと、何か変動が起れば儲けたいと云つて考へこむ意味で、即ち大火事があれば材木が騰るから、今の中に之を仕入れてやらうとか、饑饉が来て百穀実らず、不作であつたら今の間に米を沢山買込んでおいて一儲けしようとか、実に不都合な利己主義にかぶれて、何事か変動を待つて居る魂を、羽山津見神といふのであります。
次に『左の御足に成りませる神の名、原山津見神、右の御足に成りませる神の名、戸山津見神』といふのは、この足は海外へ発展する考へを持つ人の事で、海外へ行くなら外国の思想を研究して来てやらう、外国は真の文明国だ、わが国は未開国だ。向方の国と親善をして談笑の裡に、国際間の紛擾を都合よく解決をつけたいといふ、即ち西洋文明に憧憬て居る、総ての学者の説が、左の足の原山津見神であります。
トヤといふのは外に開くといふことで、この戸山津見神は、移民とか、出稼とかいふ事で、外国に移民を送るとか、外国は外国で移民排斥とか、種々の大問題が勃発する事で、丁度今日の世の中によく似て居るのであります。この移民といふことは、神代では何ういふ事を示されたものか判りませぬが、斯ういふ風に言霊的予言が示されて居るのであります。即ち吾が同胞が遠国の空で、排日のために悔し残念を耐へて、言ふに言はれぬ苦労をして居るのに国民が冷淡であるとか、政府は何をして居るかというて、反対やら、不平やらを持出す、其の状態を戸山津見神といふのであります。
『是に其妹伊弉冊命を相見まく欲して、黄泉国に追往でましき。爾ち殿騰戸より出向へます時に、伊弉諾命語詔ひたまはく、愛くしき我那邇妹命、吾汝と作れりし国未だ作り竟へずあれば、還りまさねとのりたまひき、爾に伊弉冊命の答曰したまはく、悔しきかも、速く来まさずて吾は黄泉戸喫しつ。然れども愛くしき、我那勢命入来ませる事恐ければ還りなむを。且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ。如此白して其殿内に還り入りませる間甚久しくて待ちかねたまひき。故、左の御美髪に刺させる湯津津間櫛の男柱一箇取闕きて、一火燭して入見ます時に、蛆集り蘯きて、御頭には大雷居り、御胸には火雷居り、御腹には黒雷居り、御陰には拆雷居り、左の御手には若雷居り、右の御手には土雷居り、左の御足には鳴雷居り、右の御足には伏雷居り併せて八の雷神成り居りき』
この御言葉は地球上の霊魂なる大国魂の守護が悪いから、斯うなつたのであり、火の文明即ち物質文明の惨毒の為に斯の如く世界が殆ど滅亡に瀕したのであります。
伊弉諾命は霊で、伊弉冊命は体であります。この世の中は霊ばかりでもいけない、即ち霊肉一致でなければならぬのであります。我日本は霊主体従の教を以て、世界の国魂を生かし、世界万民を安育させて行かねばならぬ国であります。世界を道義的に精神文明の徳沢を以て、全地球一切を愛撫すると曰ふ至仁至愛の大御心から、日の大神が地球を完成し玉ふ為に、伊弉冊命に会見を申込み、遥々と御降りになつた事であります。
『其の妹伊弉冊命を相見まく欲して黄泉国に追往でましき』といふ、この黄泉国は死後のことをいうたのでなくして、今日の全世界の状態が黄泉国であります。そこで天から、本当の神様が下つて来て岩戸の騰戸をば少し開いて見られたのであります。さうすると世界各国、戸が閉つてゐる。この戸といふことは閥の事でありまして、門閥だとか、政党閥だとか、資本閥だとか、学閥だとか、宗教閥などいふものが戸であります。
その戸を開けて、伊弉諾命が曰れますには、『我が愛くしき』と云ふ事は、要するに地球の国魂も世界一般の人民も、森羅万象一切のものを皆愛し玉ひての御言葉であります。すなはち霊系と体系と相俟つて、美はしい世界を作らむとしたが、火の神所謂火力文明のために、世界は黄泉国と化つたのである。それで今一度元に還れと曰はれたのであります。この太元に還れといふことは、神の教に従つて神が改心し、国魂が改心し、人民が改心して、上下一致し以て完全なる国を作らむとの意味であります。即ち地球上の悪の守護神に、改心してくれといふことになります。
そこで伊弉冊命は答て曰るるには、『悔しきかも速く来まさずして、吾は黄泉戸喫しつ』とあります。これは残念なことを致しました。吾は黄泉戸喫した。モウ少し早く御注意下さらば、茲まで地球上の一切は腐敗せなかつたで在らうに、今日となつては実に曇り切り、濁り切り、腐り切りた世の中で手のつけやうもない。往きも戻りも、上げも下しも、二進も三進も行かぬ状態であるといふ意味であります。
即ち神も、吾も、人も、共に皆汚されて居ることでありますから、天から誠の神が御出下さいまして、地球が破滅せむとするのを直してやらう、完全なる天国を建設してやらう、と曰れますのは、誠に恐れ多い、尊い、忝ない神の御言葉でありますから、私は国魂即ち世界一般の神人が改心すれば、と曰ふ事を『還りなむ』と申すのである。しかし一寸黄泉神と相談して見ますから、それまで御待ちを願ひますと答へられたのであります。この黄泉神といふのは、現代の暗黒世界を支配して居る各体主霊従国の主権者や大統領といふことでありまして、相論うといふことは、一応この事を相談して見ませう、多勢に理を説いて聞かせて、その意見を聴いて見ませうといふ事であります。
次に『甚久しく待ちかねたまひき』といふのは、この議論が一寸や、そつとの間に纏まらずに、やれ物質主義がよいとか、金銀為本がよいとか、天産自給だとか、いろいろの議論があつて、二年や三年で尽き果てぬのであります。神様は今ぢや早ぢやというて早く改心せよと、明治二十五年から言ひ続けに言はれて御急ぎになつて居るが、黄泉神の議論は中々纏まらぬといふ如うな意味であります。
(大正九・一一・一於五六七殿講演外山豊二録)
(大正一一・二・一〇旧一・一四谷村真友再録)
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霊界物語 08_未_日の出神の弟子たちの南米物語 41 言霊解三 No. = 1421
第四一章言霊解三〔三九一〕
次に『左の御美豆良に刺させる湯津津間櫛の男柱一つ取り闕きて一つ火ともして入り見ます時に』といふ、この左は上で、右は下であつて、左の方といふのは霊のかがみといふ事であります。
湯津津間櫛といふのは、総ての乱れを解きわけるといふ意味で、奇魂のくしといふ事にもなるのであります。この櫛の歯の一本を闕て、その上に火を点して見られたものであります。即ち暗黒世界に一寸霊の火をつけて見られた。一つ火は一つの目で、日本の日の丸の国旗といふことになります。この火といふものは、皆のものが明光を尋ねて慕ひ寄つて来るといふ意味になるのであります。即ち夏の虫が火を見て寄つて来るとか又航海者が一つの燈台を見て常に港へ寄つて来るといふやうなもので、誠の神の霊智霊光の発動であります。
くしは明智を以て照すといふ事で、日の神の御光といふ意味になります。即ち日は天に一つしかない如うに天津日嗣も、世界に一人しか居られないのであります。所謂日の大御神の御聖徳を輝かし奉るといふことが一つ火といふ意味になるのでありまして、この日の大御神の大御心を以て、世界中を調べて見る即ち日本の国の八咫の鏡で照して見ると、蛆がたかつてとどろいて居つたのであります。人間の形をして居つても、その心は蛆と同じであるといふ事で、勝手気儘なことをしたり、又言つたりして居るといふことであります。
次に『御頭には大雷居り』といふ事は、頭すなはち体主霊従国の主権者とか、大統領とかのことで大きな雷とは、悪魔とか、また強い不可抗力とかいふことであります。よく人が叱られた時には、雷が落ちたと申しますが、多人数の中に天から雷が落ちたといふ意味であります。
それから『御胸には火雷居り』といふことは、言霊上、頭は天で、胸は大臣で、火の雷とは悪い事を考へて居るものが沢山に潜んで居る事であります。これを火の雷といふのであります。
次に『腹には黒雷居り』と云ふことは、よく人の悪いものを指して腹黒いといふやうに、国民の中堅が悪に化つて居るといふ事であります。
次に『御陰には拆雷居り』といふのは、国民にたとふれば、百姓とか労働者といふ事で、拆くといふのは引裂くといふ意味であります。
次に『左の御手には若雷居り、右の手には土雷居り』といふ事は、即ち左の手は神であれば天津神であり、人民であれば上流社会といふことで、又右の手といふのは神であれば地津神であり、人民にたとふれば下等社会といふ事になります。また若雷の若といふのは本当に未だ熟せない、思想が固まらぬといふことで、富豪階級の青年とか、大学生とか、華族の令息とかいふ意味で、所謂上流社会の若者の精神行為が荒れすさんで居るといふ事であります。次に土雷の土は百姓といふ意味で、地主と小作人との軋轢が絶間なくあるといふやうなことであります。
『左の足に鳴雷、右の足に伏雷居り』と云ふ、この鳴雷といふのは、日本でも外国でも、軍隊の中に鳴り渡る悪い思想が、空から下る大雷悪神の如く、伝はつて居るといふ意味であります。右の足に伏雷といふのは、伏せてある悪魔といふことで、雷の中でも最も恐ろしいものであります。即ち人民にたとへると悪化せる労働者とか社会主義者などといふことで、悪思想の労働者がダイナマイトや其他を以て、破壊的陰謀を企てて、隠れて時期を待つて居るといふやうな意味であります。実に今の世の中はこの通りになつて居るのでありまして、何千年前に書かれたものが今日によく適合して居るのであります。
実にこの古事記は何時読んでも適合するものでありまして、徳川時代にも適合すれば、現代にも適合し、将来のことにも当はまるもので、古今を通じて謬らざる所の実に尊き神文なる所以であります。
今日吾人が天下国家の為に、神の大御心を奉戴して、我が同胞を初め世界を覚醒し、以て天国浄土の安楽国を建設せむとする、真如の大活動を天下挙つて阻止妨害せむとするは、恰もこの八種の雷神に攻撃されて居るので在ります。大本は一つ火、すなはち霊主体従の神教を天下に宣伝するや、頭に生れる大雷なる大圧迫が大本の頭上に落下して、天下無二なる純忠純義の神諭の発行を禁止し、今日到る処に、大本信仰者に妨害を与へ、神霊界を購読せぬが汝の為だとか、大正日日新聞を読まないが良いとか、百方手を尽して吾人至誠の行動を極力妨害しつつあるのは、頭に大雷鳴り居ると同様の意義であります。
次に『御胸には火の雷居り』と云ふ事は、今日学者階級とか、知識階級とか、大宗教家とか云ふ所の偽聖者が、挙つて大本の出現を忌み嫌ひ、百方火の如き激烈なる反対演説や、反対論を新聞や雑誌書籍等に掲載し、以て天下の思想界を攪乱せむとする石屋の手先が口の続くかぎり筆の続く極み、大々的妨害しつつあるは、即ち胸に居る火の雷であります。大本の機関新聞雑誌を教育家は読むなとか、軍隊内には入れては成らぬとか、吾人の正義公道の宣布を遮断せむとするは、所謂火の雷居りと云ふ事であります。
次に『御腹には黒雷居り』と云ふ事は、大本の内部へ、ある種の野心家が或る目的の為に、表面信者と見せ掛け、所在利己的行動を企画して、神界より看破され、除名の処分を受けたものが、百方有りもせぬ事を、犬糞的に喧伝する悪人輩の沢山潜伏して居る事であります。現在の大本の内部にも、表面は熱心な信者らしく見せ掛け、神様を道具に使つて役員となり、各地の教信徒を籠絡しつつ在るのも、所謂大本に於ける『御腹には黒雷居り』の意味であります。
大本内部へ深く浸入し神様を担ぎ出して自己利益のために蠢動する偽信者や、偽役員が蛆虫然として、平気な顔をして活動して居り、幹部の役員を、目の敵の如うに言ひ罵る不正者の現出し、又は潜在しつつあるのは即ち黒雷が居ると云ふ事であります。国家にしても、又これと同様である事を忘れてはならぬのであります。
次に『御陰には拆雷居り』といふ意味は、之を大本にたとへると、青年の中に潜んでゐる不正分子が種々の良からぬ言行を敢てし、折角研きかけた善良分子までも悪化せしむる如き行動を採り、信者の信念力を一角から、破壊せむとする様な下級の連中である。大本の基礎となり、将来の柱石となる連中の、悪化的行動が所謂拆雷居りといふ事である。之を現代の国家に譬ますと、下級農民や労働者階級の不良分子の悪化的行動であります。
次に『左の御手に若雷居り』と云ふ事を大本に於て対照して見ると、幹部の位置にある若手連中の誤解的行動である。あまり考へ過ぎ気を利かし過ぎて、間の抜けた言行を敢てするのが、左の手の若雷であります。之を世界に対照すると、若年の士官や、法官や、大学生の、天地惟神の大道を無視する連中のことである。広い天下には三人や五人は無いとも限らない。大本にも、一人や二人は、無いとも言はれぬのであります。
次に『右の御手には土雷居り』と云ふ事は、之を大本内で譬ると、地方の若い信者や、青年の中の不良分子であつて、その言行は常に大本の経綸を、大々的妨害する連中の事であります。之を世界に譬ると、各地方に散在する労働者とか、工夫とか、小作人とかの不健全な分子の、不良な計画を企ててをる連中の悪行悪言であります。
次に『左の御足には鳴雷居り』と云ふ事は、大本で言へば、悪社会と戦闘する所の言論機関を云ふので、布教者や新聞社員等に当るので、その中に不良分子が混入して、一生懸命に尽力してゐながら却つて神界の御経綸の妨害して居るものの潜み居ると云ふ事であります。之を世界に対照する時は、陸海軍の中にも種々の危険なる思想や主義が潜入して居ると言ふ事であります。
次に『右の足には伏雷居り』と云ふ事は之を大本で譬ると、『禍は下から』と云ふ譬の通り、神の道も、人の道も、何も分らぬ不良なる偽信者が幹部から何か一度親切上から忠告を受けると、その親切を逆に感受し、非常に立腹して何か幹部の連中に欠点でも在つたら、之を発表てやらうと自分の過失を棚へ上げて置いて、上の役員ばかりを恨んで居る連中の如うなものであります。之を世界に対照する時は、政府顛覆の陰謀を企てて居るとか、爆弾を密造して、機を見て暴動を開始せむとか、常に考へてをる不良分子が世界には潜んで居る、といふ意義を指して、『右の足には伏雷居り』と言ふのであります。
『是に伊弉諾命、見畏みて逃返ります時に、其妹伊弉冊命、吾に辱見せたまひつ、と言したまひて、即ち黄泉醜女を遣はしめて追はしめき』
教祖の御神諭に『神は世界の人民を助けて、松の世神の世と立替へて、立派な水晶の世界に致してやり度いと思うて、三千年も世に隠れて居りたが、モウ斯うして置いては世が立たぬやうに成りたから、神が表に現はれて三千世界を善一筋の五六七の神政に致して、神も、仏事も、人民も勇んで暮す、結構な神国の世に致して喜ばしたいと思うて苦労を致して居るが、神が思うたよりも非道い余りの曇り様で、そこら辺りが汚うて片足踏み込む処も、指一本突く場所も無いとこまで腐りて居るから、神も手の付けやうが無いなれど、神は世界を助けたいのが、一心の願ひであるから、泥にまみれて人民を助けたさに世に落ちて苦労艱難を致して居るぞよ』との御言葉は古事記御本文の『見畏みて』と云ふ事である。『逃げて返ります時に』と云ふ事は、余りの矛盾撞着に呆れられた事である。例へば至誠至忠思国の為に、日夜辛酸を嘗めてをる吾々に対して、却て危険人物扱ひをなし布教先まで、監視を附せられるが如きは実に当局の本心なるかを疑はねばならぬ様になるのである。
斯様なる社会の矛盾に、神様も驚いて跣足で御逃げになると云ふ事が『見畏みて逃返ります』と云ふ事になるのであります。
(大正九・一一・一於五六七殿講演外山豊二録)
(大正一一・二・一一旧一・一五谷村真友再録)
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霊界物語 08_未_日の出神の弟子たちの南米物語 42 言霊解四 No. = 1422
第四二章言霊解四〔三九二〕
『其妹伊弉冊命吾に辱見せたまひつと言したまひて、即ち黄泉醜女を遣はして追はしめき』と云ふ事は、以上の如くに乱れ果てたる醜状を、神の光なる一つ火に照らされ、面の皮を曳剥られて侮辱されたと言つて、大本であれば心に当る醜悪なる教信徒が一生懸命に大本や教主に反抗すると云ふことであり、世界で言へば、益々立腹して大本を圧迫し、窮地に陥れむとする人物の出現すると云ふ事で在るから、誠の教を開くと云ふ事は、随分六ケ敷事業であります。今日のやうな無明闇黒の社会に容れられる様な教なら別に苦労艱難は要らぬ、四方八方から持て囃されるで在らうが、その様な教なら現代を覚醒し、人心を改造する事は出来ない。国家を泰山の安きに置き奉らむとするの志士仁人は凡ての迫害と戦ひ、総ての悪魔に打ち克ち、身を以て天下に当るの勇猛心を要するのであります。黄泉醜女は決して悪い魔女の事では無い。今日の人間は上下共に男も女も、八九分通りまで醜女であります。何処にも一点の男子らしき、勇壮なる果断なる意気を認むる事は出来ぬ。斯ういふやうな黄泉醜女らが、大本の一つ火の明光に照されて、夏の虫の如くに消しに来ては却つて自分が大怪我をするのであります。今日の大本は四方八方から攻め立てられ、人民を保護す可き職に在る人々までが、時には逆様に攻撃妨害を加へむとして居るのであります。是が大本を四方突醜目で見てをると云ふのであります。
然し至誠思国の吾々大本人は、所在総ての圧迫と、妨害に打ち克つ為に、一つの力を貯へねば成らぬ如く、世界に対しても我国は、充分の準備を整へねばならぬ。即ち神典に所謂黒御鬘を投げ打つて掛らねば成らぬのであります。
『爾伊弉諾命黒御鬘を取りて投げ棄て玉ひしかば、乃ち蒲子生りき』
之を今日の大本に譬へると、幽玄美はしき神の御教を、天下に宣伝する事を『投げ棄て玉ひき』といふのであります。『蒲子生りき』と云ふ事は、美はしき誠の新信者が出来たと云ふ事であります。黄泉神醜女は、また之に向つて一人々々に種々の圧迫妨害を加へると云ふ事が、『是を拾ひ食む』と云ふのであります。何れの教子にも悉く四方突軍が御蔭を堕さしに廻つて居る。その間に又一つの戦闘準備に着手する事を『逃げ出でますを』と云ふのであります。
『猶追ひしかば、亦其の右の御角髪に刺せる、湯津津間櫛を引闕て、投げ棄てたまひしかば乃ち笋生りき』
蒲子とも言ふべき信仰の若い信者を、片端から追詰め引落しにかけ乍ら、なほもそれに飽き足らずして、大々的妨害を加へむとの乱暴には、神も終に堪忍袋の緒が断れたので、右の御角髪にまかせる湯津津間櫛を引闕て、乃ち神界の一輪咲いた梅の花の経綸を表顕して、所在四方突醜女に向つて宣伝した所が、終に箏と云ふ、上流貴紳[※身分の高い人という意]の了解を得、至誠天に通じて、いよいよ大本の使命の純忠純良なる事を、天下に知らるるやうに成るのを箏生りきと云ふのであります。是は全地球上の出来事に対する御神書であれども、総ての信徒に了解の出来易いやうに、現今の大本と将来の大本の使命を引用して、説明を下したのであります。
『是を抜き食む間に逃行でましき』
又々邪神の頭株が、大本の折角の経綸を破壊せむと、百方苦心しつつ在る内に、いよいよ神国の危急を救ふ可き、諸々の準備を整へ、何時にても身命を国家に捧げ奉つて、君国を守るべき用意を整へて行くと云ふ事が、『是を抜き食む間に逃行でましき』と云ふ意義であります。
『旦後には其の八種の雷神に千五百の黄泉軍を副へて追はしめき』
之を大本に譬へて見ると、八種の雷(前に詳述)に加ふるに社会主義者または仏教家、基督教徒などの、数限りなき露骨なる運動を起して、力限り攻撃の矢を向け来る事であります。之を世界に対照する時は、前述の八種の悪魔の潜在する上に、千五百軍即ち或る国から、日本の霊主体従なる神国を攻めて来ると云ふ事になるのであります。黄泉軍と云ふことは、占領とか、侵略とか、利権獲得とか、良からぬ目的の為に戦ひを開く国の賊軍隊の謂ひであります。
『爾御佩せる十拳剣を抜きて、後手に揮きつつ逃げ来ませるを』
霊主体従の神軍は戦備を整へながら即ち十拳剣を抜きながら、充分に隠忍し敢て戦はず、なるべく世界人類平和の為め、治国安民の為に言向平和さむとする意味を指して『後手に揮きつつ逃げ来ませる』と云ふのであります。
『其の坂本なる桃の子を三個取りて待撃ちたまひしかば悉く逃げ帰りき』
ヒラサカのヒの言霊は明徹也、尊厳也、顕幽皆貫徹する也、照智也、光明遍照十方世界也、日の朝也、大慈大悲五六七の神徳也。ラの言霊は、高皇産霊神也、霊系の大本也、無量寿の大基也、本末一貫也。
サの言霊は⦿に事ある也、栄ゆ也、水の音也、水の精也。
カの言霊は、蒙せ覆ふ也、光り輝く也、懸け出し助くる也。
以上ヒラサカ四言霊の活用を約むる時は、尊厳無比にして六合を照し、世界を統一し以て仁慈を施し、霊系の大本神たる日の大神の本末一貫の徳と、万世一系の皇徳を備へ、⦿に変ある時は、水の精なる月光世に出で、皇国の栄えを守り、隠忍したる公憤を発して、駆け出し向ひ戦ひ、神威皇徳を世界に輝かすてふ、神軍の謂ひであります。
又坂本は神国の栄え行く大元といふ事であります。大本といふも坂本の意義である。桃は百の意義で、諸々の武士といふ事であります。霊主体従日本魂の種子が乃ち桃の実であります。『三箇取りて待ち討ちたまひし』とは日本男子の桃太郎が、智仁勇に譬へたる、猿犬雉を以て、戦ふと云ふ事であります。猿は智に配し、雉は仁に配し、犬は勇に配するのであります。亦三ツと云ふ事は、変性女子なる三女神の瑞霊の御魂であります。そこで三ツの御魂即ち十拳剣の精なる神の教に依て悠然として、待ち討ちたまうた時に、黄泉軍は悉く敗軍遁走して了つたと云ふ意義であります。
『爾に伊弉諾命桃子に告り曰はく。汝吾を助けし如、葦原の中つ国に、有らゆる現在人民の苦瀬に落ちて苦患む時に、助けてよと告りたまひて、意富加牟豆美命といふ名を賜ひき』
茲に於て日の大神様から、聖なる至誠の団体や、三つの御魂に向つて、能く忠誠を尽し、国難を救うて呉れたと、御賞めになり、なほ重ねて世界人民が戦争の為に、塗炭の苦みを受けるやうな事が、今後において万一にも出来したら、今度のやうに至誠報国の大活躍をして、天下の万民を救うて遣つて呉れよ。汝にはその代りに意富加牟豆美命と名を賜うと仰せになつたのであります。このオホカムツミの言霊を奉釈すると次の如くであります。
オの言霊は、霊治大道の意である。
ホの言霊は、透逸卓出の意である。
カの言霊は、神霊活気凛々の意である。
ムの言霊は、組織親睦国家の意である。
ツの言霊は、永遠無窮に連続の意である。
ミの言霊は、瑞の身魂善美の意である。
之を一言に約むる時は、霊徳発揚神威活躍平和統一高照祥光瑞霊神剣発動の神と言ふ事であります。即ち惟神の大道を天下に宣伝する至誠至忠の聖団にして、忠良なる柱石神なりとの御賞詞であります。アヽ現代の世態に対し、神の大命を奉じて日本神国のために身心を捧げ、麻柱の大道を実行する大神津見命は、今何処に活躍するぞ。天下の濁流を清め妖雲を一掃し、災禍を滅し、世界万有を安息せしむる神人は、今や何処に出現せむとする乎。実に現代は黄泉比良坂の、善悪正邪治乱興廃の別るる大峠の上り口であります。
(大正九・一一・一於五六七殿外山豊二録)
(大正一一・二・一一旧一・一五谷村真友再録)
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黄泉比良坂 |
霊界物語 08_未_日の出神の弟子たちの南米物語 43 言霊解五 No. = 1423
第四三章言霊解五〔三九三〕
『最後に其妹伊弉冊命、身自ら追来ましき』
今迄は、千五百の黄泉軍を以て攻撃に向つて来たのが、最後には世界全体が一致して日の神の御国へ攻め寄せて来たと云ふ事は、伊弉冊命身自ら追ひ来ましきといふ意義であります。是が最后の世界の大峠であります。すなはち神軍と魔軍との勝敗を決する、天下興亡の一大分水嶺であります。
『爾ち千引岩を、其の黄泉比良坂に引塞へて、一日に千頭絞り殺さむと申したまひき』
千引岩とは、非常に重量の在る千万人の力を以てせざれば、微躯とも動かぬ岩といふ意義であります。千引岩は血日国金剛数多といふ意義で、君国を思ふ赤誠の血の流れたる大金剛力の勇士の群隊と云ふことであつて、国家の干城たる忠勇無比の軍人のことであります。また国家鎮護の神霊の御威徳も、国防軍も皆千引岩であつて、侵入し来る魔軍を撃退し又は防止する兵力の意義であります。
『中に置き事戸を渡す』と云ふ事は、霊主体従の国家国民と、体主霊従の国家国民とは、到底融合親睦の望みは立たぬ。堂しても天賦的に、国魂が異つて居るから、神国の行り方、異国(黄泉国)はその国魂相応の行り方で、霊主体従国と体主霊従国とを立別ると云ふ神勅が事戸を渡すと云ふ事であります。
善一筋の政治や神軍の兵法は、体主霊従国の軍法とは根本的に相違して居るから、一切を茲に立別て、霊主体従国は霊主体従国の世の持方、体主霊従は体主霊従の世の治め方と、区別を付けられた事であります。要するに神国の土地へは、黄泉軍の不良分子は立入るべからずとの御神勅であります。人皇第十代崇神天皇様が、皇運発展の時機を待たせ玉ふ御神慮より、光を和げ塵に同はりて、海外の文物を我国に輸入せしめ玉ひし如く、何時までも和光同塵の制度を、墨守する事が出来ないので、断然として、事戸を渡さねば成らぬ現代に立到つた如き有様であります。事は言辞論説の意味で、戸は閉塞するの用であります。要するに日本は皇祖大神の御聖訓を以て、治国安民の要道と決定され、一切体主霊従国の不相応なる言論を輸入されないと云ふ意義が、乃ち事戸を渡し給うと云ふ事であり、之を夫婦の間に譬へますと離縁状を渡して、一切の関係を断つと云ふ事であります。何時までも和光同塵的方針を採るのは我々の今日の処世上に於ても一考せなくては成らぬ。悪思想や貧乏神には、一日も早く絶縁するが、家の為めにも一身上の為にも得策であります。今日の我国家も、一日も早く目覚めて我国土に不相応なる思想や、論説や哲学宗教なぞと絶縁して、所謂事戸を立て渡し度いもので在ります。
『伊弉冊命宣りたまはく愛くしき我那勢命如此為たまはば汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむとまをしたまひき』
黄泉大神の宣言には、我々の愛慕して止まない、神国兄の国の神宣示を以て、斯の如く黄泉国の宗教学説を排斥さるるならば、此方にも一つ考へがある。汝の国の人民の、上に立つて居る所の頭役人どもを黄泉軍の術策を以て、一日に千人即ち只一挙にして、上の方の役人どもを馘つて了つてやる、即ち免職をさせて見せようと云ふ事である。
惟神の大道即ち皇祖の御遺訓に依つて思想界を統一せむとする守護神があれば、直に時代に遅れた骨董品格にして、役人の頭に採用せないのみならず、直に首を馘られて了ふから、伊弉諾命即ち日本固有の大道を、宣伝実行する事を、避けむとする利己主義のみが発達するのであります。
是皆黄泉軍、体主霊従魂の頤使に甘んずる腐腸漢計りに成つて居る現代であります。我々は伊弉諾命の神教、即ち天神天祖の聖訓を天下に宣伝し実行せむとするに当つて、黄泉の軍の体主霊従国魂の守護神から圧迫され、日々千人即ち赤誠の信者を、大本より離れさせむとして、黄泉神の手先が、百方邪魔をひろぐのも同じ意味であります。
たとへ日本の神の教が結構と知り、又大本の出現が、現代を救ふには大必要である事を、充分了解し乍ら世間を憚り且つ又、旧思想家と云はれ、終には現今の位置より馘られ、社会的に殺され葬られて了ふ事を恐れて世間並に至誠貫天的の、社会奉仕の大本を悪評し、かつ圧迫するを以て、安全の策と心得て居る守護神許りで表面上大本の信者たる事を標榜するが最後、直に其の赤誠人は軍人と言はず、教育家と言はず会社員と言はず、馘られ職を免ぜられると云ふ事が『一日に千人絞り殺さむとまをしたまひき』と云ふ事になるので在ります。
『爾に伊弉諾命詔り玉はく、愛くしき我那邇妹命、汝然為たまはば吾はや、一日に千五百産屋立ててむと詔りたまひき。是を以て一日に必ず千人死に一日に必ず千五百人なも生るる』
茲に伊弉諾命は、我愛する那邇妹命よ、思想問題を以て日の御国を混乱せしめ猶ほ亦、今一致して武力を以て、我国を攻め給ふならば、我にも亦大決心がある。吾は惟神の大道を発揮して、以て一日に千五百の産屋を立てて見ませうと仰せられた。御神諭にある産の精神の人民、生れ赤子の心の人民を養成する霊地を、産屋と云ふのであります。
チは血なり赤誠也、霊主体従の意也、父の徳也、乳也、塩也。
イ[※ヤ行イ]は結び溜る也、身を定めて不動也。
ホは、上に顕はる也、太陽の明分也、照込也、天の心也。
ウ[※ア行ウ]は結び合ふ也、真実金剛力也、親の働き也。
ブは茂り栄ふ也、世の結び所也、父母を思ひ合ふ也。
ヤは固有の大父也、天に帰る也、経綸の形也。
以上のチイホウブヤの六言霊を納むる時は、神の血筋因縁の身魂が集り合ひて、赤誠の実行を修め、霊主体従の本領を発揮し、天の父たり、地の母たるの位を保ちて、仁恵の乳を万民に含ませ、大海の塩の如く、総ての汚れを浄め、総ての物に美はしき味を与へ腐敗を防ぎ、有為の人材一団と成りて、我身の方向進路を安定し、以て邪説貪欲に心を動かさず、俗界の上に超然として顕はれ、大神の大御心を宇内に照り込ませ、太陽の明分即ち日の神国の天職を明かに教へ覚し、至真至実の大金剛力を蓄へ、世界の親たるの活動を為し、上下の階級一つの真道に由りて結合し、日々に結びの力を加へ、終には世界を統一結合し、父母として万民慕ひ集まり固有の大父なる国祖大国常立神の御稜威を仰ぎ、天賦の霊性に帰りて世界を経綸し以て、三千世界を開発し、救済する聖場の意義であります。要するに、地の高天原なる綾部の大本の、神示の経綸は、乃ち千五百産屋に相当するのであります。大本の御神諭には『綾部は三千世界の世の立替立直しの地場であるから、日の大神様の御命令によりて、世界の人民を天の大神の誠一とつで此の世を治める結構な地の高天原であるぞよ』と示されてあるも、所謂千五百産屋の意義にして、生れ赤子の純良なる身魂を産み育て玉ふ神界の大経綸の中府であります。故に何程黄泉大神の精神より出でたる、過激的思想も侵略的の体主霊従国軍も、綾部に千五百産屋の儼存する限りは、如何ともする事が出来ないのであります。亦之を文章の侭に解する時は、一日に千人死して千五百人生れ出づる時は、結局人口は年を追うて増進する故に、之を天の益人と謂ふのであります。天の益人は天下国家の為に利益を計る、至誠の人の意味にも成るのであります。我大本の誠の信徒は、皆一同に天の益人とならねば成らぬ。亦日本全体を通じて天の益人たるの行動をとつて、国家を開発進展せしめ、黄泉国なる国々に其の範を垂れ示さねば、神国の神民たる天職を尽す事は出来ぬのであります。今日社会主義や過激派にかぶれた、不良国民が黄泉軍の眷属となり、大官連中に不穏なる脅迫状を送つたり、大本の幹部連中に向つて、同様の脅迫状が舞ひ込んで来るのも、千人を殺さむと白したまひきの意味であります。米国加州の排日案が通過したのも、西伯利亜満洲支那朝鮮の排日行動も、排貨運動の実現も、各地の小吏が大本に極力反対し、且つ我行動を妨害しつつあるのも、皆黄泉軍の一日に千人くびらむ、と白し玉ひきの実現であります。
太陽面に、地球の七八倍もある円形にして巨大なる黒点が出現し、約七万哩の直径を有し、吾人の肉眼を以て明視し得る如くに成つて居るのも、日の若宮に坐す伊弉諾命を、黄泉軍の犯しつつある表徴であります。亦この黒点が現はれると、其の年及び前後数年間は、従来の記録に依つて調べて見ると、第一気候が不順で、悪病天下に蔓延し、饑饉旱魃等は大抵その時に現はれ、人心の騒擾極点に達する時であります。天明の大饑饉も、太陽の黒点と時を同じうして現はれて居る。今日此頃の天候の不順も亦この黒点の影響である。況んや今度の如き、開闢以来未曾有の大黒点に於ておやであります。アヽ一天一日の太陽の黒点、果して何を意味するものぞ。伊弉諾命の持たせ玉へる一ツ火の光も、半ば消滅せむとするには非ざるか、我等は一日も早く千五百産屋は愚、八千五百産屋万産屋を建て、以て君国の為めに大活動を開始せざるべからざるを切に感ぜざるを得ないのであります。
『故其伊弉冊命を、黄泉津大神と謂す。亦其の追及しに由りて、道敷大神と称すとも云へり』
チシキの大神の言霊を解すれば、
チは血也、数の児を保つ也、外に乱れ散る也。
シは却て弛み撒る也、世の現在也。
キは打返す也、打ち砕く也。
之を一言に約する時は、数多の児即ち千五百軍を部下に有し、血脈を保ち外に向つて乱を興し終に自ら散乱し現在の世の一切を弛廃せしめ、以て正道を打返して、邪道に化し、至仁至愛の惟神の、生成化育の道を打砕く、大神と云ふ事であります。現代は国の内外を問はず、洋の東西を論ぜず道敷の大神の最も活動を続行し玉ふ時であります。
『亦其の黄泉の坂に塞れりし石は道反大神とも号し塞坐黄泉戸大神とも謂す』
チカヘシの大神はウチカヘシの大神と云ふ事で在り、又邪道を塞ぎて邪道を通過せしめずと云ふ意義であります。古来町の入口や出口には、塞の神と謂うて巨大なる石が祭つて在つたもので在ります。是も邪悪を町村内に侵入させぬ為の目的であります。吾人の家屋を建つるにしても、礎石を用ゐ、又その周囲に石を積み、又は延べ石を廻らすも、皆悪鬼邪神の侵入を防止するの意義より、起元したもので在ります。今日の思想界にも此の大石が沢山に欲しいものであります。
『故其の所謂黄泉津比良坂は、今出雲国の伊賦夜坂とも謂ふ』
伊賦夜坂の言霊を解すれば、
イ[※ア行イ]は強く思ひ合ふ也、同じく平等也、乱れ動く也、破れ動く也。
フは進み行く也、至極鋭敏也、忽ち昇り忽ち降る也、吹き出す也。
ヤは外を覆ふ也、固有の大父也、焼く也、失也[※「失」は「矢」の誤字の可能性がある。「言霊の大要」(『神霊界』大正7年3月1日号p20)では「矢」でフリガナが無いが、大石凝眞素美の『大日本言霊』では「矢」に「ヤ」とフリガナが付いている。黄泉比良坂の古事記言霊解は大正9年11月1日に綾部の五六七殿で講演した講演録であり、3つの文献に掲載されている。『神の国』大正9年12月1日号(皇典と現代2)p24では「失(うしなふ)」、『霊界物語』第8巻第43章「言霊解五」(大正11年2月9日再録、昭和10年3月4日校正)では「失(しつ)」、『出口王仁三郎全集第5巻』(昭和10年6月30日発行)p59は「失(しつ)」になっている。]、裏面の天地也。
ザ[※以下の活用は「ザ」ではなく「サ」の言霊の活用である。]は騒ぎ乱る也、⦿に事在る也、降り極る也、破壊也。
カは一切の発生也、光輝く也、懸け出し助くる也、鍵也。
イフヤザカの五言霊を約言する時は善悪正邪の分水嶺であります。男神の伊弉諾命と女神の伊弉冊命と、互ひに自分の住し、かつ占有する国土を発展せしめむと、強く思ひ合ひて争ひ賜ふ所は同じく平等にして何の差別もなく、只々施政の方針に大なる正反対の意見あるのみ。然れど女神黄泉神の御経綸は惟神の大道に背反せるが故に、終に海外の某々の如く悉く大動乱大破裂の惨状を露出したのは、近来事実の確証する所であります。
男神の神国は、日進月歩至極鋭敏にして、終に世界の大強国の仲間入りを為したり。されど忽ち昇り忽ち降るの虞れあり。黄泉国の二の舞を演ぜざる様、注意を要する次第であります。ヤは日本にして、何処までも徳を積み輝きを重ねつつ、外面を覆ひ、以て克く隠忍し、天下の大徳を保ちて天下に臨むと雖も黄泉国の八雷神や、千五百の妖軍は何の容赦も荒々しく、焼也、天也、の活動を成し、裏面の天地を生み成しつつあり。故に世界各国は殆ど騒乱の極みに達し正義仁道は地を払ひ、⦿に事の在りし暴国なり。茲に仁義の神の国の一切の善事瑞祥発生して、仁慈大神の神世に復し治め、暗黒界を光り輝かせ、妖軍に悩まされ滅亡せむとする、国土人民に対しては身命を投げだして救助し治国平天下の神鍵を握る可き、治乱興亡の大境界線を画せる、現代も亦これ出雲の国の伊賦夜坂と謂ふべきものであります。(完)
(大正九・一一・一午前五六七殿講演外山豊二録)
(大正一一・二・一一旧一・一五谷村真友再録)
(第三七章~第四三章昭和一〇・三・四於綾部穹天閣王仁校正)
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禊身の段 |
霊界物語 10_酉_黄泉比良坂の戦い 27 言霊解一 No. = 1497
第二七章言霊解一〔四五七〕
皇典美曽岐の段
『是を以て伊邪那岐大神宣り玉はく』
『是を以て』とは前の「黄泉大神と事戸を渡し玉ひ」云々の御本文を受けて謂へる言葉であります。
イザナギの命の御名義は、大本言霊即ち体より解釈する時は、イは気なり、ザは誘ふなり、ナは双ことなり、ギは火にして即ち日の神、陽神なり。イザナミのミは水にして陰神なり、所謂気誘双神と云ふ御名であつて、天地の陰陽双びて運り、人の息双びて出入の呼吸をなす、故に呼吸は両神在すの宮である。息胞衣の内に初めて吹くを号けて天浮橋と云ふ。その意義はアは自らと曰ふこと、メは回ることである。ウキはウキ、ウクと活用き、ハシはハシ、ハスと活用く詞である。ウは水にして㎞也。ハは水にして横をなす、即ち㎎である。水火自然に廻り、浮発して縦横を為すを天浮橋と云ふ。大本神諭に『此の大本は世界の大橋、この橋渡らねば世界の事は判らぬぞよ。経と緯との守護で世を開くぞよ。日の大神月の神様は、此世の御先祖様であるぞよ』とあるは此の意味に外ならぬのであります。
天地及び人間の初めて気を発く、之を二神天浮橋に立ちてと云ふのである。孕みて胎内に初めて動くは、天浮橋であり綾の大橋である。是の如く天地の気吹き吹き、人の息吹き吹きて、其末濡りて露の如き玉を為す、是れ塩累積成る島である。水火はシホであり、シマのシは水なり、マは円かと云ふ事で、水火累積て水円を成し、息の濡をなす、その息自づと凝り固まる、之を淤能碁呂嶋と云ふのである。要するに伊邪那岐、伊邪那美二神は、地球を修理固成し、以て生成化々止まざるの御神徳を保有し、且之を発揮し、万有の根元を生み玉ふ大神である。併し一旦黄泉国の神と降らせ玉へる時の伊邪那美の大神は、終に一日に千人を殺さむ、と申し玉ふに立到つたのであります。更に日本言霊学の用より二神の神名を解釈すれば、伊邪那岐命は万有の基礎となり土台となり、大金剛力を発揮して修理固成の神業を成就し、天津神の心を奉体して大地を保ち、万能万徳兼備し⦿の根元を定め、永遠無窮に活き徹し、天津御祖の真となり、善道に誘ふ火水様である。次に伊邪那美命は、三元を統べ体の根元を為し、身体地球の基台となり玉となりて暗黒界を照し玉ふ、太陰の活用ある神様であつて、月の大神様であり、瑞の御霊である。斯の如き尊貴円満仁慈の神も、黄泉国に神去ります時は、やむを得ずして体主霊従の神と化生し給ふのである。此処には御本文により男神のみの御活動と解釈し奉るのであります。
『吾は厭醜悪穢国に到りて在りけり』
アの言霊は天也、海也、自然也、○也、七十五声の総名也、無にして有也、空中の水霊也。これを以て考ふれば、吾とは宇宙万有一切の代名詞である。この宇宙万有一切の上に醜悪汚穢充満して、実に黄泉国の状態に立到つたと曰ふ事である。現代は実に天も地も其他一切の事物は皆イナシコメシコメキキタナキ国と成り果てて居るのである。政治も外交も教育も実業も道義も皆悉く廃れて、神の守り玉ふてふ天地なるを疑ふばかりになつて来て居るのであります。
『故に吾は御身の祓為なと詔りたまひて、筑紫の日向の立花の小門の阿波岐原に到りまして美曽岐祓ひたまひき』
大々的宇宙及び国家の修祓を断行せむと詔りたまうたのである。御神諭に、『三千世界の大洗濯、大掃除を天の御三体の大神の御命令に依りて、艮の金神が立替立直しを致す世になりたぞよ』と示されたるは、即ち美曽岐の大神事であります。
ツは実相真如決断力也、照応力也。
クは暗の交代也、三大暦の本元也、深奥の極也。
シは世の現在也、皇国の北極也、天橋立也。
ノは天賦の儘也、産霊子也、無障也。
ヒは顕幽貫徹也、無狂也、本末一貫也。
ムは押し定む也、国の億兆を成す也、真身の結也。
カは晴れ見る也、際立ち変る也、光り暉く也。
ノは続く言也。
タは対照力也、平均力也、足り余る也。
チは溢れ極まる也、造化に伴ふ也、親の位也。
ハは太陽の材料也、天体を保つ也、春也。
ナは火水也、真空の全体也、成り調ふ也、水素の全体也。
アは大本初頭也、大母公也、円象入眼也。
ハは延び開く也、天の色也、歯也、葉也。
ギは霊魂の本相也、天津御祖の真也、循環無端也。
ハは切断力也、フアの結也、辺際を見る也。
ラは高皇産霊也、本末打合ふ也、無量寿の基也。
以上の言霊を約むる時は、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原は、実相真如の顕彰にして一切の事物を照応し、決断力を具有して、暗黒界を照変し、神政を樹立し、御倉棚の神なる宇宙経綸の三大暦即ち恒天暦、太陽暦、太陰暦の大本元を極めて、深甚玄妙の極を闡明し、現在の世を済する為に天橋立なる皇国の北極に天賦自然の産霊子を生成化育して、障壁なく狂ひなく顕幽貫徹、本末一貫、以て万象を押定め、真身の結に依りて国の億兆を悉皆完成し、光輝以て神徳を発揚し、青天白日の瑞祥を照して、宇宙一切の大変革を最も迅速に敢行し給ひ、上下一致、顕幽一本、平均力を以て、善悪美醜清濁を対照し、全智全能にして、親たるの位を保ち、溢れ極まる霊力を以て造化に伴ひ、太陽に等しき稜威を顕彰して天体を保有し、春の長閑なる松の代を改立し、真空の全体たる霊魂球を涵養し、水素の本元たる月の本能を照して、宇宙一切を完成調理し、万有を結びて一と成し、天地を祭り人道を守り、国家を平けく安らけく治め幸はひ、男性的機能を発揮し、大仁大慈の神心を照し、造化の機関たる位を保ち、元の美はしき神世に突き戻し、円象入眼、総ての霊と体に生命眼目を与へ、大母公として世の大本となり、初頭と現はれ、無限に延び無極に開き、蒼天の色の如く清く、且つ高く広く、生成化育の徳を上下の末葉に及ぼし、天津御祖神の真を体得し、循環極まりなく、各自霊魂の本相を研ぎ尽し、妖邪を切断し世の辺際を見極め、言霊力を以て破邪顕正し、本末相対して世を清め洗ひ、一切無量寿たるの根基を達成すべき霊系高皇産霊の神業を大成する霊場と曰ふことである。現代の世に於て、斯の如き霊場たる神界の経綸地が、果して日本国に存在するであらう乎。若し存在せりとせば、其地点は何国の何れの方面であらう乎、大本人と云はず、日本人と云はず、世界の人類は、急ぎ探究すべき問題であらうと思ふのであります。
次に美曽岐の言霊を解釈すれば、
ミは水也、太陰也、充也、実也、道也、玉と成る也。
ソは風の種也、身の衣服也、⦿を包裏居る也。
ギは活貫く也、白く成る也、色を失ふ也、万に渡る也。
要するに、所在汚穢を清め塵埃を払ひ、風と水との霊徳を発揮して、清浄無垢の神世を玉成し、虚栄虚飾を去り、万事に亘りて充実し、活気凛々たる神威を顕彰し、金甌無欠の神政を施行して、宇内一点の妖邪を留めざる大修祓の大神事を云ふのである。現代の趨勢は、世界一般に美曽岐の大神事を厳修すべき時運に遭遇せる事を忘れては成らぬ。大本の目的も亦、この天下の美曽岐を断行するに在るのであります。
『故投棄つる御杖に成りませる神の御名は衝立船戸神』
御杖の言霊、ツは大金剛力決断力で玉の蔵であり、ヱは中腹に成就し行き進み玉を保つことであつて、即ち神の御力添へをする役目であります。然るに神は、この杖までも投げ棄て玉うたと云ふことは、よくも汚れたものであります。現代で曰へば大政を補弼する大官のことであります。
衝立船戸神の名義は、上と下との中に衝立ち遮り、下情を上に達せしめず、上の意を下に知らしめざる近親の神と云ふことである。現代は何事にも総てこの神様が遮り玉ふ世の中であります。杖とも柱とも成るべき守護神が、却て力に成らず邪魔になると曰ふので、伊邪那岐大神は、第一着に御杖を投げ棄て賜うたのであります。
『次に投棄つる御帯に成りませる神の御名は道の長乳歯の神』
御帯の言霊は、オは霊魂、精神を治め修むることで、亦神人合一の連結帯である。ビは光華明彩、照徹六合の意である。即ち顕界の政を為すに当りては、必ず精神的に天地人道を説き諭し、以て億兆をして帰依せしめ、顕界の政治に悦服帰順せしめねば成らぬのである。是が所謂神の御帯であります。神は此御帯も穢れて使へなく成つたから投げ棄て玉うたのであります。
道の長乳歯の意義は、天理人道を説く宗教家、教育家、倫理学者、敬神尊皇愛国を唱ふる神道家、皇道宣伝者、演説説教家等の大家と曰ふ事である。この帯を投棄て給ふと云ふ事は、総ての教育、宗教、倫理の学説を根本より革正し給ふと曰ふ事であります。
(大正九・一・一五講演筆録谷村真友)
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禊身の段 |
霊界物語 10_酉_黄泉比良坂の戦い 28 言霊解二 No. = 1498
第二八章言霊解二〔四五八〕
『次に投棄つる御裳に成りませる神の御名は、時置師神』
御裳の言霊、モは下である。平民教育の意味であり、社交的言辞の意である。
時置師神は、小説や演劇や歌舞や芸技や俗歌等の頭株と言ふ事である。是も根本的に革正さるると言ふ事で、御裳に成る神を投棄て玉ふと言ふ事であります。
『次に投棄つる御衣に成りませる神の御名は、和豆良比能宇斯神』
御衣の言霊は、身の家と云ふ事である。人の肉体は霊魂の住所であり御衣であります。薬浴防棄避の五種の医術も、皇国医法に適せず、治病の効なく、却て害毒となるを以て、現代の医法を廃し玉ふと云ふ事で、御衣を投棄て玉ふと曰ふ事である。ワヅラヒノウシ神とは、病み煩ひを癒す神と曰ふ事である。凡て医術薬法の、皇国の神法に背反せる事を看破して、根本的革正し玉ふために、御衣を投げ棄て玉うたのであります。現代の西洋医学も漢法医も、之を廃して神国固有の医学を採用せなくては成らぬやうに成つて来て居るのと同じ事であります。
『次に投げ棄つる御褌に成りませる神の御名は道俣神』
御褌の言霊は、走り駆り廻ると云ふ事で、要するに交通機関や通信機関を指してハカマと言ふのである。今日の汽車は、危車となり鬼車となり、電車、自動車、汽船、飛行船、郵便、電信、電話等も大に改良すべき必要がある。要するに従来の交通や通信機関に対して根本的革正の要あり、故に一旦現代の方法を大変更すべき事を、御褌を投棄つると曰ふのであります。
道俣神とは、鉄道や航路や道路の神と云ふ事である、交通と通信機関の四通八達せる状況を指して道俣と云ふのである。日本にすれば、現今の鉄道や道路や郵便や電信なぞも、大々的に改良せなくては成らぬやうになつて居る。是を拡張し以て国民の便利を計らねばならぬ今日の現状であるのと同じ事であります。
『次に投げ棄つる御冠に成りませる神の御名は飽咋之宇斯神』
右の言霊は、三公とか、公卿とか、殿上人とか、神官とか言ふ意味である。今日の世で曰へば、華族とか、神官とか、国務大臣とか、高等官とか曰ふ意味である。是も断乎として改善すると言ふ事が御冠を投げ棄つると言ふ事である。現代は実に一大改革を必要とする時期ではありますまいか。
『次に投げ棄つる左の御手の手纒に成りませる神の御名は、奥疎神、次に奥津那芸佐毘古神、次に奥津甲斐弁羅神』
左の御手と言ふことは、左は上位であり官である。奥疎神は陸軍である。奥津那芸佐毘古神は海軍である。奥津甲斐弁羅神は陸海軍の武器である。従来の軍法戦術では到底駄目であるから、大々的改良を加へ、神軍の兵法に依り、細矛千足国の実を挙ぐ可く執り行う為に、左の御手の手纒を投棄て玉ふのであります。
『次に投げ棄つる右の御手の手纒に成りませる神の御名は、辺疎神、次に辺津那芸佐毘古神、次に辺津甲斐弁羅神』
右は下であり民であり地である。辺疎神は農業である。辺津那芸佐毘古神は工商業である。辺津甲斐弁羅神は農工商に使用すべき機械器具である。是も一大改良を要するを以て、従前の方針を変革する事を、右の御手の手纒に成りませる神を、投げ棄て玉ふと言ふのであります。
『右の件、船戸神より以下辺津甲斐弁羅神以前、十二神は身に着ける物を脱ぎ棄て玉ひしに由りて生りませる神なり』
右の十二神は、黄泉国如す醜穢き国と化り果てたるを、大神の大英断に由りて、大々的改革を実行され、以て宇宙大修祓の端緒を開き給うた大神業であります。
『於是上瀬は瀬速し、下瀬は瀬弱しと詔ごちたまひて、初めて中瀬に降潜きて滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、八十禍津日神、次に大禍津日神、此二神は、其の穢き繁国に到りましし時の汚垢に因りて成りませる神也』
上瀬とは現代の所謂上流社会であり、下瀬は下流社会である。上流社会は権力財力を恃みて容易に体主霊従の醜行為を改めず、却て神諭に極力反抗するの意を『上瀬は瀬速し』と言ふのである。下流は権力も財力もなく、なにほど神諭を実行せむとするも、其日の生活に苦しみ且つ権力の圧迫を恐れて、一つも改革の神業を実行するの実力なし。故に『下瀬は瀬弱し』と言ふのである。そこで大神は中瀬なる中流社会に降り潜みて、世界大修祓、大改革の神業を遂行したまふのである。中流なれば今日の衣食に窮せず、且つ相当の学力と理解とを有し、国家の中堅と成る可き実力を具有するを以て、神明は中流社会の真人の身魂に宿りて、一大神業を開始されたのであります。
大神が宇宙一切の醜穢を祓除し玉うた時に出現せる神は、八十禍津日神、つぎに大禍津日神の二神であります。人は宇宙の縮図である。世界も人体も皆同一の型に出来て居るのであるから茲に宇宙と云はず、伊邪那岐大神の一身上に譬へて示されたのである。故に瑞月亦之を人身上より略解するを以て便利と思ふのであります。
八十禍津神は、吾人の身外に在りて吾人の進路を妨げ且つ大々的反対行動を取り、以て自己を利せむとするの悪魔である。現に大本に対して種々の中傷讒誣を敢へてし、且つ書物を発行して奇利を占めむとする三文蚊士の如きは、所謂八十禍津神であります。之を国家の上から言ふ時は、排日とか排貨とか敵国陸海軍の襲来とかに当るのである。この八十禍津神を監督し、制御し、懲戒し玉ふ神を八十禍津日神といふのであります。日の字が加はると加はらざるとに依つて、警官と罪人との様に位置が替るのであります。大禍津神は吾人の身魂内に潜入して、悪事醜行を為さしめむとする悪霊邪魂である。色に沈溺し、酒に荒み、不善非行を為すは皆大禍津神の所為であります。
之を国家の上に譬へる時は、危険思想、反国家主義、政府顛覆、内乱等の陰謀を為す非国民の潜在し、且つ体主霊従同様の政治に改めむとする、悪逆無道の人面獣心的人物の居住して居る事である。之を討伐し懲戒し警告するのは大禍津日神であります。
正邪
八十禍津日神八十禍津神
大禍津日神大禍津神
(大正九・一・一五講演筆録外山豊二)
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禊身の段 |
霊界物語 10_酉_黄泉比良坂の戦い 29 言霊解三 No. = 1499
第二九章言霊解三〔四五九〕
『次に其の禍を直さむと為て成りませる神の御名は、神直日神、次に大直日神、次に伊都能売神』
神直日神は宇宙主宰の神の直霊魂にして、大直日神は天帝の霊魂の分賦たる吾人の霊魂をして完全無疵たらしめむとする直霊である。所謂罪科を未萠に防ぐ至霊にして、大祓の祝詞に、之を気吹戸主神と謂すのである。又八十曲津日神、大曲津日神は、大祓祝詞に、之を瀬織津姫神と謂ひ、伊都能売神を速秋津彦神、速秋津姫神と謂ひ、神素盞嗚神を速佐須良姫神と謂すのである。以上の四柱の神様を総称して祓戸の大神と謂ふのであります。
即ち伊邪那岐命が黄泉津国の汚穢混濁を払滌せむとして、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、禊身祓ひの神業を修し玉ひし時に生れませる大神なるは前陳の通りである。
大曲津日神は、大神の神勅を奉じて邪神を誅征し討伐し玉ふ大首領の任に当る神であつて八十曲津日神を指揮し使役し玉ふ神である。之を現界に移写する時は、大君の勅命を畏みて征途に上る総司令官の役目である。以下の将卒は、即ち八十曲津日神様であります。猶ほ更に直日(直霊)と曲霊について左に大要を示して置きます。
直霊
○直日の霊は荒魂の中にも、和魂の中にも、奇魂の中にも、幸魂の中にも含有さる。四魂中各自極めて美はしく、至つて細しき霊の名称にして、善々美々なるものを謂ふ。
○直霊は過失を未萠に消滅せしむるの能力あり。四魂各自用ゐて直は其中にあり、之れ即ち直霊なり、神典之を神直日大直日と云ふ。始祖の所名なり。
○直霊は平時に現れず、事に当つて発動す。
○神直日とは、天帝の本霊たる四魂に具有せる直霊魂を謂ふ。
○大直日とは、吾人上帝より賦与せられたる吾魂の中に具有せる直霊魂を謂ふ。
 [#図 直霊の図表]
曲霊
○曲霊は神典之を八十曲津神、大曲津神と謂ふ。
○八十曲津神は吾人の霊魂以外に在りて災禍を為す曲霊なり。大曲津神は吾人の霊魂中に潜みて災禍を為す曲霊なり。
○曲霊なるものは悉く罪悪汚穢より湧出するものなり。
○曲霊、荒魂を乱るときは争ひとなり、和魂を乱るときは悪となり、幸魂を乱るときは逆となり、奇魂を乱るときは狂となる。
○曲霊は体を重んじ霊を軽んずるに因りて成り出づる悪霊なり。
○曲霊は世俗の所謂悪魔なり、邪神なり、妖魅なり、探女なり。
 [#図 曲霊の図表]
神明の戒律
○省、恥、悔、畏、覚の五情は霊魂中に含有す、即ち神明の戒律なり。末世の無識、妄に戒律を作り、後学を眩惑し、知識の開発を妨害す、神府の罪奴と謂ふ可し。
 [#図 神明の戒律の図表]
○釈迦の十戒と謂ひ、基督の十戒と謂ひ、其他の学者神道者の唱導する戒律は、悉皆浅薄偏狭、頑迷固執にして社会の発達、人智の開明に大害を為すものなり。
○人は天帝の御子なり、神子たるもの、真の父たり母たる上帝より賦与せられたる至明至聖なる戒律を度外視し、人の智慮に依つて作為したる不完全なる戒律を楯と頼み、以て心を清め徳を行ひ、向上し発展し、立命せむとするは愚の骨頂にして、恰も木に縁つて魚を求めむとするが如し。
○省る。この戒律を失ひたる時は、直霊直に曲霊に変ず。
○恥る。この戒律を失ひたる時は、荒魂直に争魂に変ず。
○悔る。この戒律を失ひたる時は、和魂直に悪魂に変ず。
○畏る。この戒律を失ひたる時は、幸魂直に逆魂に変ず。
○覚る。この戒律を失ひたる時は、奇魂直に狂魂に変ず。
直霊五情曲霊の解
 [#図 直霊五情曲霊の図表]
○荒魂は勇なり、勇の用は進なり果なり奮なり勉なり克なり。
○和魂は親なり、親の用は平なり修なり斎なり治なり交なり。
○幸魂は愛なり、愛の用は益なり造なり生なり化なり育なり。
○奇魂は智なり、智の用は巧なり感なり察なり覚なり悟なり。
 [#図 四魂の体と用の図表]
義
○義は四魂各之れ有り、而して裁、制、割、断[※校定版・八幡版では「裁、制、断、割」に修正されている。]を主る也。
○之れを四魂に配せば裁は智なり、制は親なり、断は勇なり、割は愛なり。
○裁は弥縫補綴の意を兼ね、制は政令法度の意を兼ね、断は果毅敢為の意を兼ね、割は忘身殉難の意を兼ぬ。
▲政は正なり、令は理なり、法は公なり、度は同なり。
○過を悔い改むるは義なり。
 [#図 義の図表]
欲
○欲は四魂より出でて而して義を併立す。故に義の裁制断割に対して、名、位、寿、富となる。名は美を欲し、位は高を欲し、寿は長を欲し、富は大を欲す。
 [#図 まとめの図表]
経魂たる荒和二魂の主宰する神魂を厳の御魂と云ひ、緯魂たる奇幸二魂の主宰する神魂を瑞の御魂と云ひ、厳瑞合一したる至霊を伊都能売御魂と云ふのである。
(大正九・一・一五講演筆録谷村真友)
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禊身の段 |
霊界物語 10_酉_黄泉比良坂の戦い 30 言霊解四 No. = 1500
第三〇章言霊解四〔四六〇〕
『次に水底に滌ぎ玉ふ時に成りませる神の御名は、底津綿津見神、次に底筒之男命、中に滌ぎたまふ時に成りませる神の御名は、中津綿津見神、次に中筒之男命、水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の御名は、上津綿津見神、次に上筒之男命、此三柱の綿津見神は阿曇の連等が祖神ともち斎く神なり、故阿曇の連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫なり。其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、三柱の神は墨江の三前の大神なり』
水底の言霊を一々解釈する時は、
ミは形体具足成就也。充実也。天真也。道の大本也。肉体玉也。
ナは万を兼統る也。水素の全体也。思兼神也。顕を以て幽を知る也。行き届き居る也。
ソは心の海也。金剛空也。臍也。⦿を包み居る也。無限清澄也。
コは天津誠の精髄也。全く要むる也。一切の真元と成る也。親の元素也。劣り負くる也。
要するに水底は、海の底とか河の底、池の底なぞで、水の集合したる場所である。水は総てのものを養ひ育て、生成の功を為し、且つ又一切の汚物と混交して少しも厭はず、万物の汚穢を洗滌し、以て清浄ならしむるものは水ばかりである。又水は低きに向つて流れ、凹所に集まり、方円の器に従ひ、以て利用厚生の活用を為すもので、宇宙間に於て最も重要なる神器であります。火の熱にあへば、蒸発して天に昇り、雲雨となりて地上一切を哺育す。斯の如き活用ある神霊を称へて、水の御魂と申上げるのである。
ミは形体具足成就して、一点の空隙なく、随所に充満し、天真の侭にして少しも争はず、生成化育の大本をなし、人身を養ひ育て、玉と成るの特性を保ち、ナは万物を統御し、有形を以て無形の神界を探知し、思兼の神となりて世を開き治め、上中下共に完全に行き届き、ソは精神の海となりて神智妙能を発揮し、臍下丹田よく整ひて事物に動ぜず、限りなく澄み切りて一片の野望なく、利己的の行動を為さず、⦿の尊厳を発揮し、コは天津誠の真理を顕彰して[※御校正本・愛世版では「ミは形体具足成就して(中略)万物を統御し(中略)精神の海となりて(中略)天津誠の真理を顕彰して」になっている。校定版・八幡版ではナ、ソ、コを付加して「ミは形体具足成就して(中略)ナは万物を統御し(中略)ソは精神の海となりて(中略)コは天津誠の真理を顕彰して」になっている。その方が意味が分かりやすいので、霊界物語ネットでもそのように直した。]親たるの位を惟神に保ち、生類一切の真元と成りて、全地球を要むるの神力霊能を具有するも、和光同塵、以て時の致るを待ちて、天にのぼる蛟竜の如く、時非なる時は努めて自己の霊能を隠伏し、劣者愚者弱者にも、譲りて下位に立ち、寸毫も心意に介せざる大真人の潜居せる低所を指して水底と云ふのであります。アヽ海よりも深く山よりも高き、水の御魂の一日も速く出現して、無明常暗の天地を洗滌し、以て天国極楽浄土の出現せむ事を待つ間の長き鶴の首、亀も所を得て水底より浮び上るの祥瑞を希求するの時代であります。
綿津見の神の言霊解
ワは輪にして筒の体である。紋理の起りである。親子である。世を知り初むる言霊である。物の起りにして人の起りである。締寄する言霊である。順々に世を保つ言霊である。子の世にして親の位を践む言霊であります。
タは対照力である。東は西に対し、南は北に対し、天は地に対し、生は死に対する如きを対照力と云ふのであります。
ツは大金剛力である。強く続き、実相真如、之をツと言ふのである。又応照応対力対偶力であり、産霊の大元であり、平均力の極であり、霊々神々赫々として間断なく、大造化の力にして、機臨の大元であり、速力の極であります。
ミは水であり、身であり、充ち満つるの意にして、惟神大道のミチであります。
以上の四言霊を以て思考する時は、実に無限の神力を具備し、円満充全にして、天下の妖邪神を一掃し、所在罪悪醜穢を洗滌し玉ふ威徳兼備の勇猛なる五六七の大神の御活動ある神である事が分明するのであります。
筒之男命
ツツノオの言霊は、大金剛力を具有し、以て正邪理非を決断し、水の元質を発揮して、一切の悪事を洗ひ清め、霊主体従日本魂の身魂に、復帰せしめ玉ふてふ神名であります。茲に底中上の神と命とが区別して載せられて在るのは、大に意味のある事である。古典は霊を称して神と言ひ、体を称して命と言ふ。神とは幽体、隠身、即ちカミであつて、命とは体異、体別、即ち身殊の意味である。後世の古学を研究するもの、無智蒙昧にして、古義を知らずに神と命を混用し、幽顕を同称するが故に、古典の真義は何時まで研究しても、分つて来ないのであります。又底とは最も下級の神界及び社会であり、中とは中流の神界及び社会であり、上とは上流の神界及び社会を指すのである。故に綿津見神は底中上の三段に分れて、神界の大革正を断行し玉ひ、筒之男命は、同じく三段に分れて、現社会の大革正を断行し玉ふ御神事であります。大本神諭に『神の世と人の世との立替立直しを致すぞよ』とあり、亦『神、仏儒人民なぞの身魂の建替建直しを致す時節が参りたから、艮の金神大国常立尊が、出口の神と現れて、天の御三体の大神の御命令通りに、大洗濯大掃除を致して、松の世五六七の結構な世にして上中下三段の身魂が揃うて、三千世界を神国に致すぞよ』と示されてあるのも、斯の三柱の神と、命との御活動に外ならぬのであります。
現代の如く世界の隅々まで面白からぬ思想が勃興し、人心は日に月に悪化し、暴動や爆弾騒ぎが相次いで起り天下は実に乱麻の如き状態である。斯かる醜めき穢き国になり果てたる以上は、どうしても禊身祓の大々的御神業が開始されなくては、到底人間の智力、学力、武力などで治めると云ふことは不可能であります。八十曲津神、大曲津神の征服は絶対無限の金剛力を具有し玉ふ神剣の発動、即ち神界の大祓行事に待たなくば、障子一枚侭ならぬ眼を有て居る如うな人間が何程焦慮して見た所で、百日の説法屁一つの力も現れないのである。是はどうしても神界の一大権威を以て大祓を遂行され、日本国体の崇高至厳を根本的に顕彰すべき時機であつて、実に古今一轍の神典の御遺訓の、絶対的神書なるに驚くのであります。
神界の権威なる、宇宙の大修祓は人間としては不可抗力である。由来天災地妖の如きは、人間の左右し得るもので無いと、現代の物質本能主義の学者や世俗は信じて居るが、併しその実際に於ては、天災地妖と人事とは、極めて密接の関係が有るのである。故に国家能く治平なる時は、天上地上倶に平穏無事にして、上下万民鼓腹撃壤の怡楽を享くるのは天理である。地上二十億の生民は、皆悉く御皇祖の神の御実体なる、大地に蕃殖するものであるが、この人間なるものは、地上を経営すべき本能を禀け得て生長するのである。然るに、万物の霊長とまで称ふる人間が吾の天職をも知らず、法則をも究めずして、日夜横暴無法なる醜行汚為を敢行しつつあるは、実に禽獣と何等択ぶ所は無いのである。全体宇宙は天之御中主神の御精霊体なる以上は、地上の生民等が横暴無法の行動によつて、精神界の順調も、亦乱れざるを得ない次第である。要するに天災地妖の原因結果は、所謂天に唾して自己の顔面に被るのと同一である。人間を始め動物や植物が、天賦の生命を保つ能はずして、夭死し或は病災病毒の為に、変死し枯朽する其の根本の原因は、要するに天則に違反し、矛盾せる国家経綸の結果にして、政弊腐敗の表徴である。現時の如く天下挙つて人生の天職を忘却し、天賦の衣食を争奪するが為に営々たるが如き、国家の経綸は実に矛盾背理の極である。皇国は世界を道義的に統一すべき、神明の国であつて、決して体主霊従的の経綸の如く、征服とか占領とかの、無法横暴を為す事を許さぬ神国である。皇典古事記の斯の御遺訓に由り奉りて、国政を革新し、以て皇道宣揚の基礎を確立し、以て皇祖天照大神の御神勅を仰ぎ、以て世界経綸の発展に着手すべきものなる事は、艮の金神国常立尊の終始一貫せる御神示であります。
(大正九・一・一五講演筆録谷村真友)
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禊身の段 |
霊界物語 10_酉_黄泉比良坂の戦い 31 言霊解五 No. = 1501
第三一章言霊解五〔四六一〕
『墨江の三前の大神』
スミノエノミマヘの言霊を解説すると、
スは、真の中心也、本末を一轍に貫ぬく也、玉也、八咫に伸び極まる也、出入の息也、不至所無く不為所無き也、天球中の一切也、八極を統ぶる也、数の限り住む也、安息の色也、清澄也、自由自在也、素の侭也。
ミは、瑞也、満也、水也、体也。
ノは、助辞也。
エは、ヤ行のエにして心の結晶点也、集り来る也。胞衣也、悦び合ふ也、撰る也、大也。
ノは、助辞也。
ミは、三也、天地人の三也、太陰也、屈伸自在也、円也、人の住所也。
マは、一の位[※「一」は数字の一ではなく水茎文字のアである。ここを含め3ヶ所とも同じ(「一の位に当る也」「一の此世に出る也」「一の位を世に照し」)。校正本(三版を校正したもの。p280)では「一」にフリガナは無いが、校定版・愛世版では「いち」とフリガナが付いている。編者が数字の一だと勘違いしたのであろう。霊界物語ネットでは間違わないように「ア」とフリガナを付けた。]に当る也、一[※「一」は数字の一ではなく水茎文字のアである。041「一の位」の脚注参照。]の此世に出る也、全備也、円也、人の住所也。
ヘは、⦿の堅庭也、動き進む義也、部也、辺也、高天原の内に⦿を見る也。
以上の言霊を総括する時は、明皎々たる八咫の神鏡の如く澄極まり、顕幽を透徹し、真中真心の位に坐し、至らざる所無く、為さざる所無く、清き泉となり、一切の本末を明かにし現体を完全に治め、万物発育の本源となり、以て邪を退け正を撰み用ゐ、温厚円満にして月神の如く、各自の天賦を顕彰し、身魂の位を明かにし、一の位[※「一」は数字の一ではなく水茎文字のアである。041「一の位」の脚注参照。]を世に照し活動自在にして、地の高天原に八百万の神を集へ、以て⦿を守る三柱の大神と曰ふ事である。故に三柱の大神の御活動ある時は、風水火の大三災も無く、飢病戦の小三災も跡を絶ち、天祥地瑞重ねて来り、所謂松の世五六七の世、天国浄土を地上に現出して、終に天照大神、月読命、須佐之男命の三柱の貴の御子生れ給ひ、日、地、月各自其位に立ちて、全大宇宙を平けく安らけく治め給ふに至るのであります。故に神の御子と生れ天地経綸の司宰者として生れ出でたる人間は、一日も早く片時も速に、各自に身魂を研き清め、以て神人合一の境地に入り、宇内大禊祓の御神業に奉仕せなくては、人間と生れた効能が無く成るのであります。
宇都志日金拆命
宇都志日金拆命は、綿津見神の御子であつて、阿曇の連は其の子孫である。宇都志日金拆命の名義を言霊に照して解釈すると、
ウは、三世を了達するなり、艮の活動也。
ツは、大造化の極力也。平均力也、五六七の活動也。
シは、世の現在也、基也、台也、竜神の活動也。
ヒは、顕幽悉く貫徹する也、本末一貫也、太陽神活動の本元也。
カは、光り輝く也、弘り極まる也、禁闕要の大神、思兼神の活動也。
ナは、智能完備也、万物を兼結ぶ也、直霊主の活動也。
サは、水質也、水の精也、昇り極まる也、瑞の神霊の活動也。
クは、明暗の焼点也、成り付く言霊也、国常立の活動也。
以上の言霊活用に依り、命の御名義を総括する時は、知識明達にして大造化の極力を発揮し、天下の不安不穏を平定し、理想世界を樹立するの基礎となり、鎮台となりて、顕幽を悉皆達観し、一大真理に貫徹して一切事物の本末を糺明し、邪を破り正を顕はし無限絶対無始無終の神明の光徳を宇内に輝かし、皇徳を八紘に弘めて止まず、智能具足してよく万物を兼ね結び合せ国に戦乱なく疾病なく飢饉なく、暴風なく、洪水の氾濫する事なく、大火の災なく、万物を洗ひ清めて、瑞の御霊の心性を発揮し、明暗正邪の焼点に立ちて、能く之を裁断し、以て天国浄土を建設するの活用を具備し成就し給ふ御活動の命と曰ふ事である。即ち宇宙一切は、綿津見神の活動出現に依りて、艮の金神、五六七の大神、竜宮の姫神、太陽神の活動、禁闕要の大神、思兼神、直霊主、稚姫神、月読神、大国常立神等の出現活動に拠りて、万有一切は修理固成され清浄無垢の世界と成りて、終に三貴神を生み給ふ、原動力の位置に在る神と曰ふ意義であります。
阿曇の連
アヅミノムラジの名義は、天之御中主神の霊徳顕はれ出でて、至治泰平の大本源となり、初頭となり、大母公の仁徳を拡充し、大金剛力を発揮して、大造化の真元たる神霊威力を顕彰し、純一実相にして、無色透明天性その侭の位を定め、万民を愛護して、月の本能を実現する真人と曰ふことが、アヅミの活用である。
ムラジは、億兆を悉く強国不動に結び成して、凡ての暴逆無道を押し鎮め、本末能く親和して、産霊の大道たる惟神の教を克く遵守し、万民を能く統轄して、国家を富強ならしめ、一朝事あるときは、天津誠の神理を以て、神明鬼神を号令し、使役する神の御柱を称して、アヅミのムラジと謂ふのであります。アヽ伊邪那岐大神の心つくしの宇宙の大修祓の神功無くして、如何で神人の安息するを得むや。実に現代は大神の美曽岐の大神事の、大々的必要の時機に迫れる事を確信すると共に、国祖国常立尊、国直日主命、稚姫君命の神剣の御発動を期待し奉る次第であります。(完)
瑞の神歌
霊幸ふ神の心を高山の
雲霧分けて照せたきもの
日の光り昔も今も変らねど
東の空にかかる黒雲
この度の神の気吹の無かりせば
四方の雲霧誰か払はむ
葦原に生ひ繁りたる仇草を
薙払ふべき時は来にけり
霊主体従の教を四方に播磨潟
磯吹く風に世は清まらむ
(大正九・一・一五講演筆録外山豊二)
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大気津姫の段 |
霊界物語 11_戌_コーカス山の大気津姫退治 15 大気津姫の段(一) No. = 1528
第一五章大気津姫の段(一)〔四八二〕
『於是、八百万の神共に議りて、速須佐之男命に千位の置戸を負はせ、亦鬚を切り、手足の爪をも抜かしめて、神追ひに追ひき』
爰に天照大神と速須佐之男命の天の真奈井の誓約によりて、清明無垢の素尊の御魂、三女神が現はれ玉ひしより、素尊部下の諸神等の不平勃発し、終に天の岩戸の大事変を湧起せしめ、一時は天津神国も、葦原の中津国も常暗の世となり、次で八百万の神等が天の安河原の神集ひに集ひて、神議りに議り玉ひ、結局大海原の主神たりし速須佐之男命に千位の置戸を負はせ、亦鬚を切り、手足の爪をも抜かしめて、天上より神追ひに追ひ玉ふの止むを得ざるに立到つたのであります。
『千位の置戸を負はせて』と云ふ意義は、一天万乗の位で、群臣、百僚、百官の上に立つ高御座を負はせ即ち放棄させてと云ふ事であります。父伊邪那岐大神より、大海原なる大地球の統治権を附与されて、天下に君臨し玉ふべき素尊でありますけれ共、高天原に於ける天の岩戸の変の大責任を負ひて、衆議の結果千万の神の上に立つ千位の置戸を捨て玉ふに致つたのであります。凡て万神万有の一切の罪科を一身に負担して、自ら罪人となつて、天地の神明へ潔白なる心性を表示されたのであります。斯の温順善美なる命の御精霊を称して瑞の御魂と謂ふのである。基督が十字架に釘付けられて万民の罪を贖ふと云ふのも、要するに千位の置戸を負うたと同じ意味であります。世界一切の万類を救う為に身を犠牲に供する事は、即ち千位の置戸を負ふのである。現今の如く罪穢に充ち、腐敗の極に達せる地上も亦、至仁至愛なる瑞の御魂の神の贖罪ある為に、大難も小難と成り、小難も消失するのである。アヽ一日も早く、片時も速かに、天下国家の為に犠牲となる可き、瑞の御魂の守護ある真人の各所に出現して、既に倒壊せむとする世界の現状を救済せむことを希望して止まぬ次第である。
『亦鬚を切り』と云ふ意義は、
ヒは、霊であり、日の御子の朝に仕へて政治を照す言霊であり、
ゲは実名職掌である。
即ち自分が官吏ならば官職を辞し、会社の重役を辞すと云ふ事を、ヒゲを抜くと云ふのである。俗に何も知らずに高い処へ止まつてエラサウに吐すと、鬚を抜いてやらうかなぞと言ふのも、不信任を表白した言葉である。高位高官の人や、大会社の重役や、大教育家なぞが大本の教義でなくては天下国家を救ふ事が出来ない事を心底より承認し乍ら、未だ充分の決心がつかずして現在の地位に恋々として、自己の名利栄達にのみ腐心して、大本の教を人眼を忍んで遠くより研究し、世人に知られる事を憚つて居る如うな立派な人士が沢山に在るが、斯の如き人は至忠思君思国の日本魂を振起して、公然大本の信者と名乗り、現代の高い位地なり、名望を眼中に置かず、止むを得ざれば現位地を擲つて、天下国家の為に、大本の主義を天下に実行する様になつた時が、所謂鬚を切つて、真個神明と大君と社会とに奉仕の出来る時であります。
『手足の爪まで抜かしめて、神追ひに追ひ玉ひき』と云ふ意義は、
手足の爪とは私有財産の事である。手の爪は現代の所謂動産物で足の爪は不動産物である。要するに一切の地位を擲ち、一切の財産を顧みず、物質的欲望を捨てて神明の道を天下に宣伝する事が、神追ひに追ひきと云ふ事になるのである。従来の俗界を離れて、至聖、至美、至直なる大神の道に仕へ奉る事を神やらひと謂ふのである。
ヤラヒの言霊を調べる時は、
ヤは天地自然の大道に帰り、世界の親たる覚悟を以て万民を教へ導き、八方の事物を明かに指示する事である。
ラは、俗より真に反りて、従来の体主霊従的行動を翻然として改め、無量寿にして生死の外に超然として産霊の大道を実行し、霊系高皇産霊神の神業を翼賛し、極乎として間断なく惟神の大道を天下に宣伝し、実行して、寸暇無き神業奉仕者となる事である。
ヒは、天理人道を明かにし、神妙不可測の神機に透徹し、過去、現在、未来を明かに了知し、達観し、天地経綸の大司宰者たる人の本能霊徳を顕はし、以て⦿の根底を結び護り、無上の尊厳を保つ事である。
故に神追ひは、神様を追放したり、退去させたりすると云ふ意義では無い。追の漢字と退の漢字の区別ある事を能く反省すべきである。この点は古事記撰録者の最も意を用ゐたる点にして、実に其の親切と周到なる注意とは感謝すべき事であります。
『神追ひ』と云ふ事を大本に写して見る時は、第一に各役員の如きは、総て鬚を切り手足の爪まで抜きて大本へ神追ひに追はれ玉うた人々であります。併し乍ら現今の社会の総てが右諸子の如くに神追ひに追はれ、且又鬚を切り手足の爪まで抜かしめられては却つて天下の政治を乱し、産業の発達を阻止し、国力を弱める事になりますから、神様は神業に直接奉仕すべき身魂の因縁ある真人のみに綱を掛けて、大本に御引寄せに成つたのであります。故に身魂に因縁の無い人々は、最初から何程熱心に神業に奉仕せむとしても、神様から御使ひに成らぬから、何等かの機会に不平を起して脱退せなくてはならぬ様な破目に陥り、終には某々氏等の如く犬糞的に悪胴を据ゑて、一生懸命に大本の攻撃を始める様に成るのであります。亦深い因縁の有る人士で、鬚を切り兼ね、手足の爪を抜き兼ねて、遠くから奉仕されて居る人々もまだまだ沢山にあります。大本の神業に直接奉仕する真人と、又間接に神業に奉仕されて居る人士とがあります。是は鬚を切ると切らないとの差異でありますが、因縁ある人士は勇猛果断一日も早く、神業に直接参加せられたいものであります。さうで無ければ天下に跳梁跋扈せる八岐の大蛇を亡ぼし、天の下を至治泰平ならしむる神業を完全に遂行する事が出来ないのであります。世の中には小官小吏が鬚計り蓄へて尊大振り真意も了解出来ぬ癖に、鰌や鯰の如うな貧乏鬚を揉みながら、大本は淫祠だの邪教だのと、大きな口を開けて泥を吹き、田螺や蛙を脅かして、大本へ入信せむとする可憐な純良な同胞の精神を濁さむとして居るのが沢山ある。亦世の中には、手足の爪を抜くどころか、爪の先に火を点して利己主義一遍の人物があつて日に夜に爪を研ぎすまし、鷹が雀を狙ふ様に、我れよしに浮身をやつして居る厄介な現代である。亦現代の如き詰込み主義の教育法は常に精神の自由を束縛し、自然の良智良能の発達を妨害して居るのであるから、床の間の飾物に成る鉢植の面白い珍木は出来るが、家の柱となる良材は到底出来るものでない。天才教育を閑却し無理無態に枝を伐つたり曲げたり、細い銅線で縛り付けたり、突介棒をかうたり、葉を断つたり、捻つたり、四方八方へ曲げまはして、小さい樹を拵へて、高価に売り付ける植木商と同じ教育の行り方であるから、到底碌な人材は産れ出づるものでない。一日も早くこの爪を抜き除つて了はねば、帝国の前途は実に風前の灯火であります。現代は個人有つて国家あるを忘れ、自党ありて他党あるを忘れて居る。他党と雖も亦国家社会の一部で、同じく是れ人間の儔侶たるものであるが、全く之を知らざるが如き状況である。故に朋党内に相鬩ぎ、外環境の虎視耽々[※一般的には虎視「眈々」と書くが「耽々」でも意味は似ているのでこのままにしておく。]として間隙に乗ぜむとするの危きに備ふるの道を知らず、実に国家の前途を憂へざらむとするも能はざる次第である。アヽ今の時に於て大偉人の出現し、以て国家国民の惨状を救ふもの無くんば帝国の前途は実に暗澹たりと謂ふべきである。世には絶対の平等も無ければ、亦絶対の差別も無い、平等の中に差別あり、差別の中に平等があるのである。蒼々として高きは天である。茫々として広きは地である。斯の如くにして既に上下あり、何人か炭を白しと言ひ雪を黒しと言ふものがあらう乎。政治家も、宗教家も、教育家も此時此際、差別的平等なる天理天則を覚知し、以て天下万民の為に、汝の蓄ふる高慢なる城壁を除き、以て其大切に思ふ処の鬚を切れ。其の暴力に用ゆる手足の爪を抜き去り、以て不惜身命、天下の為に意義ある真の生活に入れ。斯の如くにして始めて、御国を永遠に保全し、祖先の遺風を顕彰し、以て神国神民の天職を全うする事が出来るのである。
『又食物を大気津比売の神に乞ひたまひき』
食物の言霊返しは、イである。イは命であり、出づる息である。即ち生命の元となるのが食物である。またクイ物のクイはキと約る。衣服も亦、キモノと云ふのである。キは生なり、草也、気なりの活用あり。故に衣と食とは、生命を保持する上に最も必要なものである。故に人はオシ物のイとクイ物のキとに因つて、イキて居るのである。又人の住居をイヘと云ふ。イヘの霊返しは、エとなる。エは即ち餌であり、胞である。要するに、衣食住の三種を総称して、食物と云ひ、エと云ひケと言ふのであります。
大気津姫といふ言霊は、要するに、物質文明の極点に達したる為、天下挙つて美衣美食し大廈高楼に安臥して所在贅沢を尽し、体主霊従の頂上に達したる事を、大気津姫と云ふのであります。糧食[※「りやうしよく」の霊返しは「ケ」にはならない。RyousyokUで「ル」になる。校定版・八幡版では「糧食」の直後に括弧書きで「(かて)」という言葉を挿入しているが、KatEなら「ケ」になる。その次の「被衣(かぶと)」(「かづき」とも読む)の霊返しも「ケ」にはならず、KabutOなので「コ」である。「家居(かくれ)」はKakurEで「ケ」になる。]の霊返しは、ケとなり、被衣の霊返しはケと成り、家居の霊返しは亦ケとなる。故に衣食住の大に発達し、且つ非常なる驕奢に、世界中が揃うてなつて来たことを大気津姫と云ふのであります。
『乞ひ玉ひき』と云ふのは、コは細やかの言霊、ヒは明かの言霊である。要するに、素盞嗚尊は八百万の神に対して、正衣正食し、清居すべき道を、お諭しになつたのを『乞ひ玉ひき』と、言霊学上謂ふのであつて、決して乞食非人が食物を哀求する様な意味では無いのであります。
『爾に大気津比売、鼻、口及尻より、種々の味物を取出で、種々作り具へて進る』
鼻と云ふ事は、華やかなるの意義であつて、立派な高価な衣服のことである。口と云ふ事は食餌を意味する。尻と云ふ事は、尻を落着けて起臥する、家居を意味するのである。『種々の味物』とは、色々な臭気紛々たる獣肉や虫類の事である。亦『種々作り具へて進る』と云ふ事は、獣類の毛皮を被たり、骨を櫛や笄[※髪をとめるかんざしのこと]や、其他の道具に愛用したり、鳥や虫の毛や皮で、日用品を造つたり、人間の住居する家の中に便所を造つたり、天則を破つて人の住居を作るに檜材を用ゐたり、屋根を葺くにも檜皮で、恰も神社の如うに、分に過ぎた事を為したりする事を、種々作り具へて進ると云ふのである。奉ると云ふのは、下から上位の方へ上ることであるが、此の御本文の進ると云ふ意味は、進歩すると云ふことである。要するに物質文明の発達進歩せる結果、国風に合致せざる、衣食住の進歩せる悪風潮を指して、クサグサ進ると云ふのであります。
(大正九・一・一六講演筆録谷村真友)
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大気津姫の段 |
霊界物語 11_戌_コーカス山の大気津姫退治 16 大気津姫の段(二) No. = 1529
第一六章大気津姫の段(二)〔四八三〕
『時に速須佐之男命、其の態を立伺ひて、穢汚もの奉るとおもほして、乃ち其の大気津比売神を殺したまひき』
鼻、口、尻なる衣食住の非理非道的に進歩発達したる為に、生存競争の悪風、天下に吹き荒み、その結果は、遂に近来に徴すれば、欧洲大戦争の如き惨状を招来し万民皆塗炭に苦しむの現状は、所謂『穢汚もの奉進る』の実例である。試みに考へて見よ。天地も崩るる許りの大騒動、大戦乱の砲声殷々たる惨状が漸く鎮静したかと思へば、忽ち世界を挙げて囂々たる社会改造の声と化し、一瀉万里、何の国境もなく、雷電の轟き閃くが如く、今や我皇国にも轟き渡つて来たのである。最近起りつつある生活問題も、労働問題も、思想問題も、要するに生活難の響きに起因するのである。只単なる世界の思潮に刺戟せられた一時的の現象であるかと云ふに、決してさうでない。如何に世界的思想であらうが、如何に好事者の巧妙なる煽動、乃至教唆であらうが、国民の要求に於て痛切に感ずる所が無ければ、決して共鳴するものではないのである。故に是を一時的の現象位に思つて、冷然として袖手傍観し、為政者や学者たるものが、何等の反省もせず且又其の起るべき根本の原因を究めずして、狼狽の余り、急速に之を防止しようとして徒に圧迫を加へたりすると、ますます紛糾して、終には救ふ可からざる一大禍乱を激発せないとも限らない。これ実に指導の任に当れる政治家、宗教家、教育家、および有志家の考慮し、奮起し、以てその大原因たる大気津姫から根絶改良せねばならぬのである。大気津姫を殺さむとする、現代の所謂改造の叫びは、何が大原因となつて、天下の人民の多数者が、斯の如く猛烈に共鳴心随するかと謂へば、一つに鼻、口および尻なる衣食住の生活問題に帰するのである。人間の苦しみの最大なりとするものは貧窮である。即ち衣食住の三類の大欠乏である。日々の新聞を見ると、貧苦の為に身を淵川に投げたり、首を吊つたり、鉄道往生や毒薬自殺をしたり、発狂したり等の悲惨事は日に月に増加して居るのである。之を見ても、貧苦と云ふものは、死するよりも辛い苦しいといふことが明かである。死ぬよりつらい処の貧苦を免れんが為に、ここに激烈なる生存競争が起つて来る。其の結果は優勝劣敗弱肉強食と云ふ、人生に於ける惨澹たる餓鬼道の巷となつて来たのである。体主霊従、利己主義の結果は、徳義もなければ、信仰も無く、節操も無く、勝者たる大気津姫神は常に意気傲然として、入つては大廈高楼に起伏し、出ては即ち酒池肉林、千金を春宵に散じて、遊惰、安逸、放縦を之れ事として、天下に憚らない。一方には劣者たる貧者は、営々として喘ぎ、尚ほ且つ粗雑なる食に甘んじ、以て漸くその飢ゑたる口腹を満たすに足らず、疲憊困倒して九尺二間の陋屋に廃残の体躯を横へ、空しく愛妻愛児の饑餓に泣くを聞いて居る。その心情は富者勝者の到底夢裡にだも窺知すべからざるの惨状である。古諺に曰く、『小人窮して乱を為す』と、終に或は非常識となり、軌道を逸し、身投げ、首吊り、または監獄行きを希望するに至るのである。又これが群衆的の行動となる時は、大正七年の米騒動や、進むでは焼打暴動ともなり、同盟罷工や、怠業的行動ともなり、日比谷運動や、革新的気分ともなるのである。故に恐るべきは、この結果を醸成する所の生活問題である。之を閑却して、思想の悪化や労資の衝突を防止せむとして、如何に政治家や、教育家や、宗教家が力説怒号して見た所で生命の無い政治家や、宗教家、教育家の力では、容易にその効果の現はるるものではない。故に大本は、神示に依りて明治二十五年以来、是が救済の神法を、天下に向つて指導しつつあるのである。古来名君と仰がれ、賢相と謳はれた人々は国民生活の安定を以て、先決問題としたのである。而して一方に於ては、宗教と教育の権威を発揮して以てその無限の欲を塞ぎ、その奢侈を矯め、公共心の涵養に務め、貧富の平均を保つて来たのである。既に生活の安定さへ得れば、民の之に従ふや易しで、喜びて善に向ふものである。要するに、現代の生活問題を、根本的に改善せむとするには、どうしても、大気津姫の改心に待たなければならぬのであります。
『種々』と云ふ事は、臭々の意味であつて、現代の如く、一も二も無く、上下一般に四足動物を屠殺しては舌鼓を打ち、肉食の汚穢を忌み、正食のみを摂つて、心身の清浄を保つてゐる我々大本人を野蛮人民と嘲笑するに立到つたのは、心身上に及ぼす影響の実に恐るべきものがあるのである。肉食のみを滋養物として、神国固有の穀菜を度外する人間の性情は、日に月に惨酷性を帯び来り、終には生物一般に対する愛情を失ひ、利己主義となり、かつ獣欲益々旺盛となり、不倫不道徳の人非人となつて了ふのである。虎や狼や、獅子なぞの獰猛なるは常に動物を常食とするからである。牛馬や象の如くに、体躯は巨大なりと雖も、極めて温順なるは、生物を食はず、草食または穀食の影響である。故に肉食する人間の心情は、無慈悲にして、世人は死なうが、倒れやうが、凍て居らうが、そんな事には毫末も介意せない。只々自分のみの都合をはかり、食色の欲の外天理も、人道も、忠孝の大義も弁知せない様に成つて了ふのである。斯う云ふ人間が、日に月に殖ゑれば殖ゑる程、世界は一方に、不平不満を抱くものが出来て、終には種々の喧しき問題が一度に湧いて来るのである。為政者たるものは、宜しく下情に通ずるを以て、急務とし、百般の施設は、之を骨子として具体化して進まねばならぬのである。素盞嗚尊は止むを得ずして、天下の為に大気津姫命を殺し玉ひ、食制の改良を以て第一義と為し玉うたのである。西郷南洲翁は、政とは、情の一字に帰すると断じ又孟子は、人に忍びざる心あれば茲に人の忍びざる政ありと云つて居る。然るに為政者は、果してこの心を以て、之に立脚して社会改良を企画しつつあるであらう乎。政治家なるものを見れば、徹頭徹尾、党閥本位であり、権力の闘争であり、利権の争奪である。斯の如き勢利のみに没頭せる人間に依つて組織され、運用される政治なるものは、因より国利民福と没交渉なるべきは、寧ろ当然であらうと思ふ。斯の如き世界の政治に支配されつつある国民が、不安の終極は、改造の叫びと成つて来るのは之も当然かも知れぬ。併し乍ら斯の如き肉食尊重、利己主義一遍の政治家を推選したる国民は全く自業自得にして、神界の戒めである。自ら火を採つてその手を焼いた様なものである。アヽ一日も早く皇祖の御遺訓と御事跡に鑑み、上下挙つて日本固有の美風良俗に還らねば、到底現代の不安、暗黒の社会を改良し、以て神国の一大使命を遂行する事は出来ないのである。先づ何よりも、大本神諭に示させ玉へるが如く、第一に肉食を廃し身魂を清めて、神に接するの道を開くを以て、社会改良の第一義とせねばならぬのであります。
(大正九・一・一六講演筆録松村仙造)
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大気津姫の段 |
霊界物語 11_戌_コーカス山の大気津姫退治 17 大気津姫の段(三) No. = 1530
第一七章大気津姫の段(三)〔四八四〕
『故殺さえたまへる神の身に生れる物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。故是に、神産巣日御祖命茲を取らしめて、種と成し賜ひき』
『殺さえたまへる』と云ふ事は、大神の御法則に違反せる、汚穢なる衣食住の方法を根本的に撤廃せられたと云ふ意義であります。
『神の身に生れる物は頭に蚕生り』と云ふ事は、頭は総て国民の上に立つ治者の謂である。蚕は言霊学上、
カは、蒙せ、覆ふ活用であつて衣服を意味する、また光輝き、晴れ明けく、気体透明の言義である。
イは身に従ひ成る也、身の足して動かす也。これも衣服の活用である。
コは天津誠の脳髄であり、子の活用である。故に万民の上に立つべき役員は、第一に蚕の如く其身を空しうし、犠牲となつて国家の為めに尽さねばならぬ。
天理人道を明かにし、神智神識を感受し、以て上は一天万乗の大君に純忠の至誠を捧げ、下は人民を愛撫し、以て天津誠の実行者たるの覚悟を持ち、政治は完全無欠、錦繍綾羅の神機を織出すてふ、天下経綸の大道に奉仕するに至る瑞祥の世態を称して、『頭に蚕生り』と謂ふのであります。
『二つの目に稲種生り』と云ふ事は、目は正中を司どるものである。世界の一切を見極め、善悪美醜を判明する神機である。二つの目とは左右両眼の意義で、左は上を代表し、右は下を代表する目である。万有一切皆この目の無いものはない。然るに上流社会は上流のみの事を知り、下流社会は下流のみの事より見ないとすれば、所謂片目である。現代は大抵皆片目の政治家や教育家計りであつて、二つの目の活用が足りないので、天下は益々無明、暗黒、常暗となつて来るのである。また顕幽両界を達観し得る人は、所謂二つの目が照るのであります。
稲種の
イは成就る言霊で、大金剛力であり、基である。
ナは万物を兼ね統る言霊にして、能く行届く事である。
イナはまたイネと云ひ、五穀の主であり、眼である。イネの霊返しは餌となる、また米の返しはケとなる。大気津姫の気である。またよねとも云ふ。よねの返しもまた餌であり、糧の返しはケとなる。人の眼は夜分に寝るを以て夜寝[※校定版・八幡版ではここに括弧書きで(米)という文字を入れている。]と云ひ、寝るを以て、寝[※校定版・八幡版ではここに括弧書きで(稲)という文字を入れている。]ると云ふ。人の眼に似て形小なるが故に、小目(米)と云ふのも、言霊学上面白き解釈である。
凡て穀食を為す時は、心血自然に清まりて、明けく、敏く、顕幽を達観し、上下を洞察し、以て天下の趨勢を知悉し得るのである。故に万民の頭に立つべき治者は、心血を清め、神智を備へて、天下に臨まねばならぬのである。是の原理天則が、頭に立つ人々に判つて来て、汚穢の食を廃し皇国固有の正食に改め、以て善政良治を布くに致る事を、『二つの目に稲種生り』と謂ふのであります。
また宗教家なれば、第一に顕幽一本の真理を達観して、生死往来の神機を知悉し、万民を教化するに致りたるを『二つの目に稲種生り』と謂ふのであります。顕幽一致、上下合一、陰陽和合、君民和平、内外親睦、神人合一の境地に入れる真相を称して、また『二つの目に稲種生り』と謂ふ事が出来るのであります。
『二つの耳に粟生り』と云ふ事は、二つは前に述べた通り、左右の意義であり、左は上流、右は下流社会なる事は勿論である。耳の言霊の約りはミである。ミは農工商の三種であり、実業であり、形体具足の言義であり、身体である。要するに、一切の生産機関を総称して耳と云ふのである。故に左は資本家や、大地主を意味し、右の耳は労働者や、小作人を意味するのである。また耳は一方よりその活用を調ぶる時はキクと曰ふ事が主眼である。手が利く、耳が利く、目が利く、鼻が利く、口を利く、腹が利く、舌で酒を利く、腰が利く、これを八ツ耳と曰ふのである。また霊的方面に於ても同一に、神眼、神耳、天言等やはり八ツ耳である。斯の如く霊体共に完全無欠なる、幽顕十六耳の意義を取りて十六菊の御紋章を制定されたのは最も深遠なる御慮の御在します所である。神八井耳命、彦八井耳命、忍穂耳命、または聖徳太子を八ツ耳命と申すなぞは、みな前述の意義から、名付けられたものであります。
『粟生り』の
アの言霊は大物主であります、地であり、顕体であり、大本である。
ハの言霊は、延び開く也、花実也、数多き也の活用である。
要するに『粟生りき』と云ふ意義は、物質、霊界共に円満に発達し、国利民福を招来し、鼓腹撃壤の聖代の、出現せし事であります。御神諭に、
『今の人民は盲と聾計りであるから、何程結構な誠を為て、眼の前に突出してやりても一つも見えず、一寸先は真の暗であるぞよ。神は世界を良く致して、上下揃へて人民を歓ばして安楽な神世に致して、花を咲かし、実を結ばして、松の世、五六七の神世に立直して与らうと思うて、明治二十五年から、色々と申して、呼ばはりて聞かしても、耳が蛸に成りてをるから、狂婆が何を吐すと申して、我身の足下に、火が燃えて来て居りても、少つとも耳に入れぬが、見て居じやれよ、今に盲が目が明き、聾が耳が聞える様に成りて来るが、さうなりてから、俄に周章て神の申す事を聞く気に成りても、モウ間に合ぬぞよ。聞くなら今の中に聞いて置かぬと、後の後悔間に合はぬぞよ、眼も鼻も開かぬ如うな、惨い事が今に出て来るが、神の申す誠の警告を聴く人民は、世界にないぞよ、困つたものであるなれど、是を説いて聞かして、耳へ入れさして置かねば、神の役が済まぬから、嫌になる所まで、クドウ気を付けるから耳の穴を能く掃除致しておくが良いぞよ』云々
とあるのは、耳に粟を生り出でしめむとの、神様の深き思召しであります。
『鼻に小豆生り』と云ふ事は華美なる衣服を改め、実務に適する制服を改定されると云ふ事である。大臣は大臣の服装、小臣は小臣、神職は神職、僧侶は僧侶、軍人は軍人、農工商は農工商の制服を定め、主人は主人、僕婢は僕婢の制服を一定し、一見してその官吏たり、宗教家たり、農夫たり、主人たり僕婢たり、労働者たる事の、弁別し易き服装を制定さるる事を『鼻に小豆生り』と曰ふのであります。現代の如く服制に厳格なる定規なく、神職や僧侶なぞが洋服を着用したり、僕婢が紋附羽織を着流し、絹の足袋を穿ち大道を憚らず濶歩するが如きは、実に不真面目の至りにして、亡国の因となるのである。アヅキのアは光り輝く事で、照妙、和妙なぞの、高貴なる織物であります。アは顕誉の地位に在る真人である。故に大臣とか、神官神職とかの、着用すべき衣服である、その他の臣民の着用すべきものでないのだ。絹物は着ぬもの也との滑稽語は、実際の戒めとして服膺すべき言葉である。アヅキのヅキは着キと云ふ事であつて、治者たる大臣高官および神官神職に限りて着用すべきものであると云ふ事を、決定されたのを『鼻に小豆生り』と曰ふのであります。鼻は人体に取つては呼吸の関門であつて、人民生息の主要点である。故に一国の安危を背負つて立てる国家の重臣を鼻と云ふのである。神諭にも、
『此の事成就致したら、艮の金神の鼻は、カラ天竺は愚、天まで鼻が届くぞよ』
と予告されてあるのも、世人が尊重畏服するとの神意である。世俗が一つの功名手柄を顕はしたる時に於て、鼻が高うなると謂ふのも人の上に卓絶したる意義である。今日のやうに国家の重臣や、清浄なる神明に奉仕する神官等が、小豆を着用せずして、獣畜の毛皮を以て作れる、衣服を着用するなぞは、実に天則違反の行為であります。
『陰に麦生り』と云ふ事は、西洋人は麦を常食とすると云ふ意義であります。日本及其他の東洋諸国は陽の位置にある国土であるから、陽性の食物たる米を常食とするのが、国土自然の道理である。西洋は陰の位置にある国土であるから陰性の食物たる麦を常食とするのが国土自然の道理である。故に西洋人は麦で作つたパンを食ひ、東洋人殊に日本人は米食をするのが天賦の本性である。然るに、今日の日本人は上流に成るほど西洋崇拝者が多く現はれ、文明人らしき顔付をして、自慢でパンに牛酪なぞを附けて無味ものを美味さうに、平気で喰つて居るが、麦は日本では、牛馬の喰ふべき物と決定つて居るのである。故に日本人は米を喰ひ、陰所たる西洋に生れた人種は、麦を喰ふことに成るのが『陰所に麦生り』と云ふのであります。
『尻に大豆生りき』と云ふ事は、同じ日本国でも北海道などは、日本国の尻である。大豆は脂肪に富んだ植物であるから、寒い国の人間は、如何しても大豆類を食する必要がある。大豆を喰つて居れば、寒い国でも健康を害すると曰ふ如うな事はない。併し是は大豆計り喰ふと曰ふ意味では無い。米と混じたり或は炙つたり、粉末にして喰へば良いのである。北海道に後志と云ふ国名のあるのも尻の意味であります。筑後の国をミチノシリと訓むのも、国の端と云ふ意味である。要するに、此の段の古事記御本文は、第一に各自の国土に応じたる食制を、神界より定め玉うたのであります。
『故、是に神産巣日御祖命、茲を取らしめて、種と成し賜ひき』高御産巣日御祖神は霊系の祖神であり、神産巣日御祖神は、物質界体系の祖神である。『茲を取らして』と云ふ事は、前記の御本文の御食制を、採用されてと云ふ事で、素盞嗚尊の食物に関する御定案を、直に御採用遊ばした事であります。『種と成し玉ひき』と云ふ事は、この食制を基として、天地改良の神策を樹立し玉うたと云ふ事であります。故に人間は此の天則に違反して、暴食する時は大切なる神の宮居たる身体を毀損するやうな事になつて、天寿を全うする事が出来ぬやうに成るのであるから、人間は日々の食物には、充分に注意を払ふ可きものであります。
(大正九・一・一七講演筆録谷村真友)
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三柱の貴子 |
霊界物語 12_亥_天の岩戸開き 28 三柱の貴子 No. = 1574
第二八章三柱の貴子〔五二四〕
神代の太古、伊邪那岐命よりお産れ遊ばした天照大御神様、この神様は日の大神様と申上げて、本部綾部に御祀りしてあります所の神様であります。このへんから申上げます。
伊邪那岐命が
『筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐ケ原に於て禊身し玉ふ時、左の御目を洗ひ給ひて成りませる神の御名は天照大御神、次に右の御目を洗ひ給ひて成りませる神の御名は月読命』
といふことが書いて御座います。目といふものは吾々肉体から申しますると、右と左と両方に持ちて居りまして物を視るといふことの上に最も大切なものであります計りか、眼は心の窓と申します位重要なもので御座います。所が一歩進んで考へて見ますと、総てこの宇宙間に形を持つて居るものは森羅万象残らず目すなはち眼目といふものがなくてはならぬ。実際凡ゆるものに眼目があると云ふ事は吾人は常に之を認め得るのであります。姿こそ人間のやうな姿ではないけれど、他の動物に於てもこの眼をもつて居ります。禽獣虫魚草木の類に至るまで此眼のないものはありませぬ。また一つの文章を読みましても、この中にも必ず眼目といふものがあります。御勅語の中にも眼があります。
『皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ、汝臣民克ク忠ニ克ク孝ニ』
これが教育勅語の眼目であります。また戊申詔書には、
『淬礪ノ誠ヲ輸サバ国運発展ノ本近ク斯ニ在リ』
これが詰り眼になつて居る。その通り初め天地をお造りになるに当つても、この宇宙を治める為にはどうしても、眼といふものが必要であるといふので、そこで伊邪那岐命は天地の主をお創めになつたのであります。すなはち伊邪那岐命は、先づ天の主をこしらへたい、この霊界の主宰者をこしらへたいと思召しになりまして左の目を洗ひ給うた、この左の目といふのは日であります。太陽神であつて上である。右の目といふのが太陰神であつて下であります。言霊の天則から申しますと左は男、右は女と、これは既に神様の御代から定まつた掟である。然るにこの左の目を洗うてお生れになつたのが日の大神、天照大御神であつて、右の目を洗うてお生れになつたのが月読命、さうすると目からお生れになつたのは、変性男子女子でありました。左の目をお洗ひになつて直ぐお生れになつたのが変性男子の天照大御神でありました。これで詰り左を宇宙霊界とし、右を地球として、天上天下の君をお生みになつた訳であります。
『次に御鼻を洗ひ給ひしときに成りませる神の御名は建速須佐之男命』
はなは初めに成るの意義で即ち初めである。物質の元であります。花が咲いて而して後から実を結びます。人間の身体が出来るにつきましても、先づ胎内に於て人間の形の出来る初めは鼻である。それから眼が出来る。絵師が人間の絵を描きましても、その輪廓を描くのに何より先に鼻を描く、鼻は真中である。鼻を先へ描いて然る後に目を描き口を描いてそこで都合好く絵が出来るのである。この初めて出来た統治の位地にお立ちになるのが須佐之男命であります。俗に何でも物の完成したことを眼鼻がついたと申します。神様も此世界をお造りになつて、さうしてそこに初めて眼鼻をおつけになつたのであります。
『此時伊邪那岐命太く歓喜して詔り給はく』
愈天地が完全に出来たから、神様は非常にお喜びになつた。これまでに神様は随分沢山な御子達をお産みになつて居りますが衝立船戸の神様から十二柱ありました。その次に三柱お生れになつてをるので都合十五柱であります。男神様は我はかやうに沢山の子を産むだが、しかし今度の様な眼鼻になる所の子は初めてである。
『吾は御子生みて、生みの果に三柱の貴子得たり』
と仰せられまして、やがて、
『其御頸珠の玉の緒母由良に取りゆらかして』
即ちむかしの勾玉と申したやうな、高貴な人が飾りとしてかけて居つた頸珠であります。丁度今で申しますと大勲位章とか、大綬章とか、一等勲章とか云ふ意味の、曲玉のやうなのを掛けて居られたかと思はれます。
そこでこの玉を自分からお取り脱しになつて天照大御神にお渡しになつた。母由良にとりゆらかしてといふことは何でも非常に喜んで物を渡すときには、自然に手や身体が揺れる。一面から云へば揺つて渡す。頂くときにも亦揺つて頂く、今は然う云ふやうなことでは御座いませぬけれども、本当に嬉しいときには然うなつて来るのであります。さて之を揺りよい音鳴りをさせながら天照大御神に賜ひまして詔給はく、
『汝が命は高天の原を知らせ』
と高天原を主宰せよと仰せになつて珠をお授けになつたのであります。
『かれ其御頸珠の名を御倉板挙之神と申す』
此の御倉板挙之神といふことは、言霊学上から見ても、神様の方で申されまする暦――此世界には恒天暦、太陽暦、太陰暦の三つの暦が常に運行循環して居るのであります。で、此御頸珠をお授けになつたといふのは、所謂御倉板挙之神、即ち恒天暦、太陽暦、太陰暦をお授けになつたのであります。
『次に月読命に詔給はく「汝が命は夜の食国を知らせ」と事依さし給ひき』
右の眼よりお生れになつた月読命に夜の主宰をせよと仰せられた。知らせといふことは、大事に守護り能く治めよといふ意味で、太陰の世界を主宰せよと仰有つた。高天原は全大宇宙である。夜の食国は昼の従である。それで月読命はどこまでも天照大御神を扶けて宇宙の経綸に当れと、斯う云ふ詔であります。
『次に建速須佐之男命に詔給はく「汝が命は海原を知らせ」と事依さし給ひき』
須佐之男命は鼻からお生れになつた方であります。海原といふのは此地球上のことであります。地球は陸が三分の一しかありませぬ、三分の二といふものは海であります。で地球を総称して大海原と申すのであります。斯うして伊邪那岐命様は深いお考へから夫々其知ろしめす所を、各々にお分けになつて、汝は高天原を、汝は夜の食国を、汝は地球上即ち大海原を知ろしめせと、御神勅になつたのであります。今日は天照大御神の三代の日子番能邇々芸命が、どうも此お国が治まらぬといふので天から大神の神勅を奉じて御降臨になつて、地球上をお治め遊ばして、さうして我皇室の御先祖となり、其後万世一系に此国をお治めになつてあるのでありますが、それより以前に於きましては、古事記によりますと須佐之男神が此国を知召されたといふことは前の大神の神勅を見ても明白な事実であります。
『故各々依し給へる御言の随に、知らしめす中に、速須佐之男命、依さし給へる国を知らさずて、八拳髯胸前に至るまで啼いさちき』
須佐之男命は大神の仰に随つて地上に降臨遊ばされた。地上を治める為めに、お降りになりましたけれども、その時この地上は乱れて居つて、神代にも丁度今日のやうな世があつたものと見えます。で今日のやうに政治であらうが、宗教であらうが、教育であらうが、何から何まで一切のものが行き詰つて了うて、もう行きも戻りも上げも下しも出来ぬ様になつて居つた。それで須佐之男命様は、この世の中を安らけく平けく治めて大神を安堵させ奉る事が出来ないから非常にお歎きになつて、『八拳髯胸前に至るまで』長く長く髯が延びて胸前の所まで下つて来るまで御心配をなすつた。人といふものは髯を拵へたり髪を整へたり、いろいろのことをして、容貌を整へなくてはならぬけれども、此国を治めようといふ事に、余り御心配を遊ばしたのでありますから、知らぬ間にこの髯が八拳に長く伸びて居つたのであります。
『泣きいさちき』
といふのは、世の中の一切悉くのものが、もうどうしても、これから進むで行くとか、開けて行くとか、どうしたらよいかといふ方法がない、手のつけやうがないといふまでに非常に行き詰つて了つた状態を、お歎きになるさまに形容したのであります。
『其泣き給ふ状は』
どういふ工合であつたかといふと、
『青山を枯山なす泣き枯らし』
今まで山などの草木が青々と生ひ繁つて居たのに、世が行き詰つた為に枯れて了うた。枯らして了うた。山がすつかり一変して枯山となつてしまうた。これは今日の状態によつく似て居るではありませぬか。今まで十年計画、百年計画といふやうな風にいろいろな事業が企てられた。何会社が立つの、或は何事業が起されたと、無茶苦茶に四五年前から本年の春までは偉い勢で、好景気を謳歌して、青々とした山の如くに有頂天になつて居りましたが、青山がいつまでも天空につかへないが如くに、なんぼ木が伸びたつて天につかへる気遣ひのないやうに、一朝行きつまれば最早さう云ふ勢はすつくり枯れて了ふ。今年の春からこの方、元も子もなくなつて、青山は枯山になつた。どうしても伸びる方法もない、火の消えたるが如き有様になつて了つたのであります。
『河海は悉に泣き乾しき』
山が枯山となつたと同じく、河も海も悉く乾いて了うて、一滴の水もなくなつたといふのであります。今日の世の中に譬へて申しますれば、郵船会社とか、商船会社とか其他いろいろの海運業も追々と仕事がなくなつて二進も三進も行かなくなつた。すると此海河の労働仕事に従事して居るものは、稼殖の途のなくなるのは勿論、稼業に離れる、職に離れるといふことになつて来ると一家は子供に至るまで、悉く泣き乾しになる。最早や食ふ道がないやうになると、もう乾干になるより仕様がない。総て海に稼いで居る者も、河に従事して居る者も、其他一切のことに従事して居る者も、みんな泣き乾しになつて了うたのである。
『是を以て悪神の音なひ、狭蠅なす皆沸き、万の物の妖悉に発りき』
神代に於ても世が行き詰つて来れば、そこにいろいろの不祥なる事件が起つて来たものと見えます。
畏くも明治天皇陛下が、
『之ヲ古今ニ通ジテ謬ラズ之ヲ中外ニ施シテ悖ラズ』[※教育勅語の一節]
と仰せられましたやうに、真理といふものは何れの時代にも適応するので御座います。既に古事記の明文にある所で御座います。今日の状態を考へて見れば、丁度此岩戸開き前の状態と克く似て居る。世がどん底に行き詰つて労働しようにも仕事がない、仕事がなければ妻子眷族を養ふことが出来ない。生活といふことが出来なくなるとそこで悪神の音なひとなり、いろいろの騒動が起つて来る、人間の心が荒んで来る。衣食足つて礼節を知る、今まで善い魂を持つて居つたものも、だんだん悪い魂の力に押へられて悪化して了ふ。食ふか食はぬか、死ぬか生きるか、喰うて死ぬか食はずに死ぬか、斯う云ふ苦しい立場になりますと、人心は日増しに悪化して善くないことが往々始まる。甚だしきは警察へ行つて御厄介になつた方が楽で、養なつて呉れて安全だといふものが出来る。監獄に入れば食はして呉れる、金銭はなくても可いといふ具合に自暴自棄的に悪神の音なひが始まる。此音なひといふのは、神様の御真意に背いた所の、いろいろの論説が出て来るといふので、あちらからも此方からも異端邪説が叢り起ることであります。然うした結果が、うるさい所の五月蠅のやうにブンブンブンといろいろの事が湧いて、
『万の物の妖悉に発りき』
一切のものに災禍が起つて来る。外交の上に於きましても、内治の上に於きましても、商工業の上にも、一切万事、何も彼にも、世の中のありと凡ゆるものに向つて、みな災禍が起つて来るのであります。そこで天から伊邪那岐大神が之を御覧になつて、
『速須佐之男命に詔給はく』
仰有るのには、
『何とかも、いましは、事依させる国を治さずて泣きいさちる』
そなたは、此大海原の国を治めよと言うてあるのに、何故それを治めぬのか、世の中を斯う云ふ難局に陥らせたのか、何うして騒がしい世の中として了うたのか、と大変にお責になつたのであります。すると須佐之男命は、誠に相済まぬ事であります。兎も角これは私に力が足らぬからであります。私が悪いのでありますとお答へになつた。併し斯うなつて来ては如何なる人が出て来ても、此時節には敵はない。治まるときには治めなくても治まるが、治まらぬときに之を治めるといふ事は難かしいものであります。人盛んなれば天に勝ち、天定まつて人を制す、悪運の強い時には如何なる神もこれを何うも斯うもする事が出来ない。艮の金神様も此時節の勢には敵はぬと仰せられて、それで三千年間あの世に隠れて、今日の神政成就の時節を待つて、現在に顕はれ天の大神様の御命令を奉じて、三千世界の立替立直しをなさらうといふのであります。大神様でさへもさう仰せに成るのでありますから、況して須佐之男命が大変に行き詰つた地上を治めようとなさつてもどうして治まらう筈がありませう。然らば何故須佐之男命御一人では治まらないのであるかと申せば、それは今日文武百官がありまして、亦た政党政派が互に相争ひ、一方が斯うすれば一方が苦情を持ち出して思ふやうにならぬ如く前に申しましたやうに既にいろいろの神様達が沢山あつて、其神々様が各自に天津神の御心を取り違へて、所謂体主霊従に陥つて居られたので、一人の須佐之男命がどれ程誠の途を開かうとなすつた所で、更に耳に入れるものがない、各自に勝手な真似をなさる。丁度強情な盲と聾との寄合のやうであります。そこに千仭の谷があつても盲は顛覆へるまでは知らぬ顔をしてをる。どれ程雷が鳴つても聾は足下に落ちるまでは平気である。それに強情を張つて誰が何と注意しても聴かない。神代の人もそのやうに体主霊従で、どうしても命の命令を聴かなかつた。それで須佐之男命は、これは取りも直さず自分の責任である、自分の不徳の致す所である、到底自分の力では及ばないのであると、自らをお責めになつて、
『あは妣の国、根の堅洲国に罷らんと思ふが故に泣く』
私はもうお暇を頂いて、母の国に帰らうと仰せられたのであります。根の堅洲国と申すのは母神の伊邪那美命がおいでになつてゐる所であります。尤もこれまでの或る国学者達は根の堅洲国といふのは地下の国であると云つて居りますが、併し一番に此伊邪那美命は月読命と同じく月界に御出でになつたのでありますから、月界を根の堅洲国と言つたのであります。で須佐之男命は自分の力が足らないのである、不徳の致す所であるからして自ら身を引いて、根の堅洲の国へ行かうと仰有つて、一言も部下の神々の不心得や、其悪い行状を仰せられなかつた。如何にも男らしい潔白なお方で御座います。所が伊邪那岐命は非常に御立腹になつた。
『然らばみまし此国にはな住みそ』
其方のやうな此海原を治める力量の無いものならば、二度と此国に住むではならぬ。勝手に根の堅洲国へ行つたがよからう。一時でも居つてはならぬぞとお叱りになつたけれども、伊邪那岐命は須佐之男命の心中は疾くに克く御存知である。自分の子がどうして此国を治める事が出来ないか、どうして自分の珍の児の言ふことを万の神々が聴かぬか、腹の底では充分に御存知でありますが、それを彼此仰有らない。心の中には千万無量のお悲しみを持つて居られまするけれども、他に多くの神々に傷をつけるといふことは考へ物である。それで須佐之男命に刑罰を与へて罪人としたならば、その他の八百万の神、これに随いて居る所の神等はそれを見て皆改心するであらう、その悪かつたことを悟るであらうと思召して大神様は自分の子を罰せられたのでありまして、普通の者の出来難いことで御座います。その広大なるお情深い御心は、誠に勿体ない次第でありませぬか。此須佐之男命を罪に問うたならば、あれこそ吾々の為めに罪せられたのである、誠に済まないことであるから、吾々は悔い改めて本当の政治をしなければならぬ、改心を早く致して命の罪を赦されむ事を八百万の神々が思ふであらうと思召して伊邪那岐命は此処置をお取り遊ばしたのであるが、矢張体主霊従に陥られた八百万の神達は容易にそれがお解りにならず、あれは当然である、政治の主権をあんな者が握つて居つては国の治まらう筈がない、あれが居なくなれば又善い神様が来るに違ひない、否吾々の力で充分に世を治めようといふやうな頗る冷淡な間違つた考へを有つて居つたのであります。寔にこんな世の中を治めようとするには並大抵の事ではないので御座います。
(大正九・一〇・一五講演筆録)
(大正一一・三・五再録谷村真友録)
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