地獄はないのであるが、
地獄的現われは、
生前にも、
生後にも、また
死後にもあり
得る。しかし、それは
第三者からそのように
見えるのであって、
真実の
地獄ではない。
大神は
大歓喜であり、
人群万類の
生み
主であり、
大神の
中に、すべてのものが
生長しているためである。
死後、
一先ずおかれる
所は、
霊、
現の
中間の
世界であり、
其処では
中間物としての
中間体をもっている。
意志のみでは
力を
生まない。
理解のみでも
進展しない。
意志と、
理解との
結合によって
弥栄する。このことは、
中間の
状態、
即ち、
死後の
最初の
世界に
於て、
何人もはっきりと
知り
得る。しかし、
生存時に
於て、
既に
過去を
精算している
霊人は、この
中間世界にとどまる
必要はなく、その
結果に
対応した
状態の
霊界に、
直ちに
入るのである。
精算されていないものは、
精算が
終るまで、この
中間世界にとどまって
努力し、
精進、
教育される。その
期間は
五十日前後と
見てよいが、
最も
長いものは
十五、
六年から
二十年位を
要する。この
中間世界から
天国的世界をのぞむ
時は、
光明にみたされている。
故に、
何人も、この
世界へ
進み
易いのである。また、
地獄的な
世界は
暗黒に
満たされている
故に、この
世界に
行く
扉は
閉ざされているのと
同様であって、
極めて
進みにくいのである。
天国には
昇り
易く、
地獄にはおち
難いのが
実状であり、
神の
御意志である。しかし、この
暗黒世界を
暗黒と
感ぜずして
進みゆくものもあるのであって、そのものたちには、それがふさわしい
世界なのである。
其所に、はかり
知れない
程の
大きく
広い、
神の
世界が
展かれている。この
地獄的暗黒世界は、
暗黒ではあるが、それは
比較から
来る
感じ
方であって、
本質的に
暗黒の
世界はなく、
神の
歓喜は
限りないのである。
以上の
如く、
中間世界からは、
無数の
道が
無数の
世界に
通じており、
生前から
生後を
通じて、
思想し、
行為したことの
総決算の
結果に
現われた
状態によって、それぞれの
世界に
通ずる
道が
自らにして
目前にひらかれてくるのである。
否、その
各々によって
自分自身が
進むべき
道をひらき、
他の
道、
他の
扉は
一切感覚し
得ないのである。
故に、
迷うことなく、
自分の
道を
自分で
進み、その
与えられた
最もふさわしい
世界に
落ち
付くのである。
他から
見て、それが
苦の
世界、
不純な
世界に
見えようとも、
当の
本人には
楽天地なのである。
何故ならば、
一の
世界に
住むものには、
二の
世界は
苦の
世界となり、
二の
世界に
住むものには、
一の
世界はまた
苦の
世界と
感覚するからであって、
何れも
自ら
求むる
歓喜にふさわしい
世界に
住するようになっているのである。また
一の
世界における
善は、
二の
世界では
善でなく、
二の
世界の
真が
一の
世界に
於ては
真でない
場合も
生じてくる。しかし、その
総ての
世界を
通じ、
更に
高き

に
向って
進むことが、
彼等の
善となるのである。

は
中心であり、
大歓喜であり、
神である。
死後の
世界に
入る
時に、
人々は
先ず
自分の
中の
物質をぬぎすてる。
生存時に
於ては
物質的な
自分、
即ち
肉体、
衣類、
食物、
住宅等が
主として
感覚の
対象となるから、そのものが
生命し、
且つ
自分自身であるかの
如くに
感ずるのであるが、それは
自分自身の
本体ではなく、
外皮に
過ぎない。
生長し、
考慮し、
行為するものの
本体は、
自分自身の
奥深くに
秘められた
自分、
即ち
霊の
自分である。
霊の
自分は、
物質世界にあっては
物質の
衣をつける。
故に、
物質的感覚は、その
衣たる
物質的肉体のものなりと
錯覚する
場合が
多いのである。しかし、
肉体をすてて
霊界に
入ったからと
云って、
物質が
不要となり、
物質世界との
因縁がなくなってしまうのではない。
死後といえども、
物質界とは
極めて
密接なる
関係におかれる。
何故ならば、
物質界と
関連なき
霊界のみの
霊界はなく、
霊界と
関連なき
物質のみの
物質界は、
呼吸し
得ないからである。
生前の
霊界、
生後の
物質界、
死後の
霊界の
何れもが
不離の
関係におかれて、
互に
呼吸しあっている。
例えば、
地上人は
生前世界の
気をうけ、また
死後の
世界に
通じている。
現実世界で
活動しているのが、
半面に
於ては
生前の
世界とも、また
死後の
世界とも
深い
関連をもっており、それらの
世界に
於ても、
同時に
活動しているのである。