霊界には、
山もあり、
川もあり、
海もあり、また、もろもろの
社会があり、
霊界の
生活がある。
故に、
其処には
霊人の
住宅があり、
霊人はまた
衣類をもつ。
住宅は、その
住む
霊人の
生命の
高下によって
変化する。
霊人の
家には、
主人の
部屋もあれば、
客室もあり、
寝室もあり、また、
食堂もあり、
風呂場もあり、
物置もあり、
玄関もあり、
庭園もある、と
云ったふうに、
現実世界と
殆ど
変りがない。と
云うことは、
霊人の
生活様式なり、
思想なりが、ことごとく
同様であると
云うことを
意味する。また、
内分を
同じくする
霊人たちは、
相集まり、
住宅は
互に
並び
建てられており、
地上に
於ける
都会や
村落とよく
似ている。その
中心点には
多くの
場合、
神殿や
役所や
学校等あらゆる
公共の
建物が、ほどよく
並んでいる。そして、これらの
総てが
霊界に
存在するが
故に、
地上世界に、それの
写しがあるのである。
霊界を
主とし、
霊界に
従って、
地上にうつし
出されたのが、
地上人の
世界である。
地上人は、
物質を
中心として
感覚し、
且つ
考えるから、
真相が
中々につかめない。これら
総ての
建物は、
神の
歓喜を
生命として
建てられたものであって、
霊人の
心の
内奥にふさわしい
状態に
変形され
得る。また
天人の
衣類も、その
各々がもつ
内分に
正比例している。
高い
内分にいる
霊人は
高い
衣を、
低いものは
低い
衣を
自らにして
着することとなる。
彼等の
衣類は、
彼らの
理智に
対応しているのである。
理智に
対応すると
云うことは、
真理に
対応すると
云うことになる。
但し、
最も
中心に
近く、
太神の
歓喜に
直面する
霊人たちは
衣類を
着していないのである。この
境地に
到れば、
総てが
歓喜であり、
他は
自己であり、
自己は
他であるが
故である。しかし、
他よりこれを
見る
時は、
見る
霊人の
心の
高低によって、
千変万化の
衣類を
着せる
如く
見ゆるのである。また、
衣類は
総て
霊人の
状態の
変化によって
変化して
行くものである。
霊人はまた、いろいろな
食物を
食している。
云う
迄もなく
霊人の
食物であるが、これまたその
霊人の
状態によって
千変万化するが、
要するに
歓喜を
食べているのである。
食べられる
霊食そのものも、
食べる
霊人も
何れも、
食べると
云うことによって
歓喜しているのである。
地上人の
場合は、
物質を
口より
食べるのであるが、
霊人は
口のみでなく、
目からも、
鼻からも、
耳からも、
皮膚からも、
手からも、
足からも、
食物を
身体全体から
食べるものである。そして、
食べると
云うことは、
霊人と
霊食とが
調和し、
融け
合い、
一つの
歓喜となることである。
霊人から
見れば、
食物を
自分自身たる
霊人の
一部とするのであるが、
食物から
見れば
霊人を
食物としての
歓喜の
中に
引き
入れることとなるのである。これらの
行為は、
本質的には、
地上人と
相通ずる
食物であり、
食べ
方ではあるが、その
歓喜の
度合および
表現には
大きな
差がある。
食物は
歓喜であり、
歓喜は
神であるから、
神から
神を
与えられるのである。
以上の
如くであるから、
他から
霊人の
食べるのを
見ていると、
食べているのか、
食べられているのか
判らない
程である。また
霊人の
食物は、その
質において、その
霊体のもつ
質より
遠くはなれたものを
好む。
現実社会に
於ける、
山菜、
果物、
海草等に
相当する
植物性のものを
好み、
同類である
動物性のものは
好まない。
何故ならば、
性の
遠くはなれた
食物ほど
歓喜の
度が
強くなってくるからである。
霊人自身に
近い
動物霊的なものを
食べると
歓喜しないのみならず、
返って
不快となるからである。そして
霊人は、これらの
食物を
歓喜によって
調理している。そしてまた
与えられた
総ての
食物は、
悉く
食べて
一物をも
残さないのである。すべての
善は

より
起り、

にかえるのと
同様、
総ての
悪もまた

より
起り

にかえる。
故に、
神をはなれた
善はなく、また
神をはなれた
悪のみの
悪はあり
得ないのである。
殊に
地上人はこの
善悪の
平衡の
中にあるが
故に、
地上人たり
得るのであって、
悪をとり
去るならば、
地上人としての
生命はなく、また
善は
無くなるのである。この
悪を
因縁により、また
囚われたる
感情が
生み
出す
悪だ、と
思ってはならない。この
悪があればこそ、
自由が
存在し、
生長し、
弥栄するのである。
悪のみの
世界はなく、また
善のみの
世界はあり
得ない。
所謂、
悪のみの
世界と
伝えられるような
地獄は
存在しないのである。
地上人は、
霊人との
和合によって
神と
通ずる。
地上人の
肉体は
悪的な
事物に
属し、その
心は
善的霊物に
属する。その
平衡するところに
力を
生じ、
生命する。しかし、
地上人と、
霊人と
一体化したる
場合は、
神より
直接に
地上人にすべてが
通じ、すべてのものの

が
与えられると
見えるものである。これを、
直接内流と
称し、この
神よりの
流入するものが、
意志からするときは
理解力となり、
真理となる。また、
愛より
入るときは
善となり、
信仰力となって
現われる。そして、
神と
通ずる
一大歓喜として
永遠に
生命する。
故に、
永遠する
生命は
愛と
離れ、
真と
離れ、また
信仰とはなれてはあり
得ないのである。
神そのものも
神の
法則、
秩序に
逆らうことは
出来ない。
法則とは
歓喜の
法則である。
神は
歓喜によって
地上人を
弥栄せんとしている。これは、
地上人として
生れ
出ずる
生前から、また、
死後に
至るも
止まざるものである。
神は、
左手にて

の
動きをなし、
右手にて

の
動きを
為す。そこに、
地上人としては
割り
切れない
程の、
神の
大愛が
秘められていることを
知らねばならぬ。
地上人は、
絶えず、
善、
真に
導かれると
共に、また、
悪、
偽に
導かれる。この
場合、その
平衡を
破るようなことになってはならない。その
平衡が、
神の
御旨である。
平衡より
大平衡に、
大平衡より
超平衡に、
超平衡より
超大平衡にと
進み
行くことを
弥栄と
云うのである。
左手は
右手によりて
生き
動き、
栄える。
左手なき
右手はなく、
右手なき
左手はない。
善、
真なき
悪、
偽はなく、
悪、
偽なき
善、
真はあり
得ない。
神は
善、
真、
悪、
偽であるが、その
新しき
平衡が
新しき
神を
生む。
新しき
神は、
常に
神の
中に
孕み、
神の
中に
生れ、
神の
中に
育てられつつある。
始めなき
始めより、
終りなき
終りに
到る
大歓喜の
栄ゆる
姿がそれである。
No.: 392