霊人は、
遠くにいても
近くにいても、
常にお
互いに
語り
得る。
同一線上にいる
霊人の
言葉は、
何れも
同一であって
共通する。
霊人の
言葉は、
霊人の
想念のままに
流れ
出るのであるから、そのままにして
通ずるのである。しかし、
相手がきくことを
欲しない
時には
聞こえない。それは
丁度テレビやラジオの
如きものであると
考えたらよい。またその
語ること、その
語音によって、その
相手の
如何なるものなるかを
知り
得るのである。
即ち、その
発音から、また
言葉の
構成から、その
霊人の
如何なるものなるかは、
直ちに
判明する。
霊人の
言葉と
地上人の
言葉とは
本質的には
同様であるが、その
表現は
相違している。
故に、
霊人と
地上人と
会話する
時は、
霊人が
地上人の
想念の
中に
入るか、
地上人が
霊人の
想念に
和するか、その
何れかでなくてはならない。しかし、
霊人の
言葉は、
地上人の
言葉に
比して、その
内蔵するものが
極めて
深く
広いが
故に、
霊人の
一語は
地上人の
数十語、
数百語に
価する
場合が
多く、その
霊人が
高度の
霊人であればあるだけに、その
度を
増してくるのである。
原因と
結果とを
一つにし、
更に
結果より
生ずる
新しい
原因も、
新しい
結果をも
同時に
表現し、なお
言葉そのものが
一つの
独立せる
行為となり、
且つ
一つの
独立せる
生きものとなって
現われ、
行為し、
生命するからである。
言葉そのものが
弥栄であり、
生命である。また
総てであるということは、
地上人には
理解できぬであろう。それは、
過去が
現在であり、
未来もまた
現在であり、
更に
生前も、
生後の
立場においては
生後であり、
死後の
立場においては
死後である。また
一里先も、
百里先もまた
千万里はなれていても、
同一の
場所であるのと
同様であって
理解するに
極めて
困難である。だが、
地上人に
於てもそれを
知り
得る
内的な
生命をもっているのであるから、
理解することは
困難であるが
不可能ではない。
霊人の
言葉は
歓喜より
発するが
故に
歓喜そのものであり、
神の
言葉でもあるが、その
霊人のおかれている
位置によって
二つのものに
大別し
得る。
歓喜の
現われとしての
愛に
位置している
霊人の
言葉は、
善的内容を
多分に
蔵している。
故に、
柔らかくして
連続的であり、
太陽の

と

-熱-とに
譬えることができる。また、
歓喜の
現われとして
真に
位置する
霊人の
言葉は、
智的内容を
多分に
蔵している。
故に、
清く
流れ
出でて
連続的ではなく、
或る
種の
固さを
感じさせる。そしてそれは
月の
光と、
水の
如き
清さとを
感じさせる。また
前者は
曲線的であって
消極面を
表に
出し、
後者は
直線的であって
積極面を
表に
出している。また
前者は
愛に
住するが
故に、
主として
Oと
Uの
音が
多く
発せられ、
後者は
智に
住するが
故に
主として
Eと
Iの
音が
多く
発せられている。そして、その
何れもが
A音によって
統一要約する
神密極まる
表現をなし、またそれを
感得し
得る
能力をもっている。しかし、これら
OU、
EI及び
Aの
母音は
想念の

をなすものであって、
地上人よりすれば、
言葉そのものとしては、
感得し
得ないことを
知らねばならないのである。
霊界に
於ける
音楽もまた
同様であって、
愛を
主とした
音楽は
O及び
Uを
多分に
含み、
曲線的であり、
真を
伝える
音楽は
I及び
Eの
音が
多く、
直線的である。それは、
言葉そのものがかかる
内質をもっており、
各々が
霊界に
於ける
生命の
歓喜の
表現なるが
為である。またこれら
霊人の
言葉は、
天的の
韻律をもっている。
即ち
愛を
主とするものは、
五七七律を、
真を
主とするものは、
三五七律を
主としているが、その
補助律としては、
千変万化である。
言葉の
韻律は、
地上人が
肉体の
立体をもっている
如く、その
完全、
弥栄を
示すものであって、
律の
不安定、
不完全なものは、
正しき
力を
発揮し
得ず、
生命力がないのである。
No.: 388