レイチカラカラダミッつがよりよく調和チョウワするトコロ真実シンジツウマれ、生命セイメイする。これは根元コンゲンからの存在ソンザイでありハタラキであるが、ウゴ弥栄イヤサカする道程ミチノリオイて、復霊フクレイ復力フクリョク復体フクタイウゴキをなす。レイ立場タチバよりすれば、レイゼンであって、カラダアクカラダ立場タチバよりすれば、カラダゼンであって、レイアクである。アクあればこそゼンゼンとしてスクわれ弥栄イヤサカする。ゼンあればこそアクアク御用ゴヨウるのである。アク悪善アクゼンとしてカミナカに、ゼン善悪ゼンアクとしてカミナカ弥栄イヤサカえる。チカラがそこにアラワれ、呼吸コキュウし、脈打ミャクウちて生命セイメイする。ユエ生前セイゼン霊人レイジンは、生前界セイゼンカイのみにてはゼンなく、生命セイメイなく、地上人チジウヨジンとの交流コウリュウによってハジめて善悪ゼンアクとしてチカラショウじ、生命セイメイしてゆく。地上人チジョウジン地上チジョウ物質界ブッシツカイのみの立場タチバではアクなく、生命セイメイなく、生前界セイゼンカイとの交流コウリュウによってハジめて悪善アクゼンとしてのチカラき、弥栄イヤサカしてゆく。シカして、ナオ地上人チジョウジン死後シゴ世界セカイツウじなければならぬ。死後シゴ世界セカイとの関連カンレンにより複数的フクスウテキ悪善アクゼンにおかれる。善悪善ゼンアクゼン立場タチバにおかれる場合バアイオオいために、地上チジョウける司宰神シサイシンとしてのチカラミズカアタえられるのである。善悪ゼンアクかされ、御用ゴヨウアクとしてユルされているのは、かかる理由リユウによるものである。ゼンのみにてはチカラとして進展シンテンせずオナじこととなり、アクのみにてもまた同様ドウヨウである。ユエカミアクノゾかんとはタマわず、アクアクとしてタダしくかさんとタマうのである。何故ナゼならば、アクもまたカミ御力ミチカラアラわれの一面イチメンなるがユエである。アクノゾいてゼンばかりのとなさんとするは、地上的チジョウテキ物質的ブッシツテキ方向ホウコウ法則下ホウソクカに、スベてをはめんとなすカギられたる科学的カガクテキ平面的ヘイキンテキ行為コウイであって、その行為コウイこそ、アクそのものである。この一点イッテン地上人チジョウジン共通キョウツウするアヤマりたる想念リネン存在ソンザイする。アク消化ショウカし、アクき、これをゼンアクとして、ゼン悪善ゼンアクとなすことによって、三千世界サンゼンセカイ弥栄イヤサカとなり、不変フヘンにして変化極ヘンカキワまりなき大歓喜ダイカンキとなるのである。この境地キョウチこそ、セイなく、なく、光明コウミョウ弥栄イヤサカ生命イノチとなる。地上人チジョウジンのもつ想念ソウネンモト霊人レイジンそのものであり、霊人レイジンのもつ想念ソウネンモトカミであり、カミのもつ想念ソウネンモト大歓喜ダイカンキである。ユエに、地上人チジョウジン霊人レイジンによってスベての行為コウイモトをなし、霊人レイジンカミにより、カミ大歓喜ダイカンキによりてスベての行為コウイモトとする。ユエに、地上人チジョウジンそのもののみの行為コウイなるものはない。イズれも、カミよりの内流ナイリュウによる歓喜カンキアラわれであることをらねばならぬ。歓喜カンキ内奥ナイオウよりづるものは、レイゾクし、外部ガイブよりハッするものはカラダゾクする。レイゾクするものはツネ上位ジョウイクライし、カラダゾクするものは、ツネ下位カイゾクするのであるが、体的歓喜タイテキカンキ霊的歓喜レイテキカンキ軽重ケイジュウはない。しかし、のない立場タチバオイをつくりさねば、チカラすことは出来デキず、弥栄イヤサカはありない。すなわちゼンをつくりチカラすところにアク御用ゴヨウがある。ウゴきがあるがユエに、反動ハンドウがあり、そこにチカラウマれてくる。レイにのみカタムいてもならぬが、ツヨウゴかなければならない。カラダのみにカタムいてもならぬが、ツヨチカラしなければならない。アクがあってもならぬが、アクハタラかねばならない。ツネに、ウゴサカえゆく、大和ダイワ中心チュウシンとする上下ジョウゲ左右サユウ前後ゼンゴエンき、中心チュウシンとする立体的リッタイテキうごきのナカ呼吸コキュウしなければならない。それがタダしき惟神カムナガラ歓喜カンキである。惟神カムナガラ歓喜カンキスベてのものと交流コウリュウし、おタガいに歓喜カンキ増加ゾウカ弥栄イヤサカする。ユエに、永遠エイエン大歓喜ダイカンキとなり、大和ダイワ大真ダイシン大善ダイゼン大美ダイビ大愛ダイアイとしてヒカカガヤくのである。