霊、
力、
体の
三つがよりよく
調和する
処に
真実が
生れ、
生命する。これは
根元からの
存在であり
用であるが、
動き
弥栄する
道程に
於て、
復霊、
復力、
復体の

をなす。
霊の
立場よりすれば、
霊は
善であって、
体は
悪、
体の
立場よりすれば、
体は
善であって、
霊は
悪である。
悪あればこそ
善が
善として
救われ
弥栄する。
善あればこそ
悪は
悪の
御用を
為し
得るのである。
悪は
悪善として
神の
中に、
善は
善悪として
神の
中に
弥栄える。
力がそこに
現れ、
呼吸し、
脈打ちて
生命する。
故に
生前の
霊人は、
生前界のみにては
善なく、
生命なく、
地上人との
交流によって
始めて
善悪として
力を
生じ、
生命してゆく。
地上人は
地上物質界のみの
立場では
悪なく、
生命なく、
生前界との
交流によって
始めて
悪善としての
力に
生き、
弥栄してゆく。
而して、
尚地上人は
死後の
世界に
通じなければならぬ。
死後の
世界との
関連により
複数的悪善におかれる。
善悪善の
立場におかれる
場合が
多いために、
地上に
於ける
司宰神としての
力を
自ら
与えられるのである。
善悪の
生かされ、
御用の
悪として
許されているのは、かかる
理由によるものである。
善のみにては
力として
進展せず
無と
同じこととなり、
悪のみにてもまた
同様である。
故に
神は
悪を
除かんとは
為し
給わず、
悪を
悪として
正しく
生かさんと
為し
給うのである。
何故ならば、
悪もまた
神の
御力の
現われの
一面なるが
故である。
悪を
除いて
善ばかりの
世となさんとするは、
地上的物質的の
方向、
法則下に、
総てをはめんとなす
限られたる
科学的平面的行為であって、その
行為こそ、
悪そのものである。この
一点に
地上人の
共通する
誤りたる
想念が
存在する。
悪を
消化し、
悪を
抱き、これを
善の
悪として、
善の
悪善となすことによって、
三千世界は
弥栄となり、
不変にして
変化極まりなき
大歓喜となるのである。この
境地こそ、
生なく、
死なく、
光明、
弥栄の
生命となる。
地上人のもつ
想念の
本は
霊人そのものであり、
霊人のもつ
想念の
本は
神であり、
神のもつ
想念の
本は
大歓喜である。
故に、
地上人は
霊人によって
総ての
行為の
本をなし、
霊人は
神により、
神は
大歓喜によりて
総ての
行為の
本とする。
故に、
地上人そのもののみの
行為なるものはない。
何れも、
神よりの
内流による
歓喜の
現われであることを
知らねばならぬ。
歓喜の
内奥より
湧き
出づるものは、
霊に
属し、
外部より
発するものは
体に
属する。
霊に
属するものは
常に
上位に
位し、
体に
属するものは、
常に
下位に
属するのであるが、
体的歓喜と
霊的歓喜の
軽重の
差はない。しかし、
差のない
立場に
於て
差をつくり
出さねば、
力を
生み
出すことは
出来ず、
弥栄はあり
得ない。すなわち
善をつくり
力を
生み
出すところに
悪の
御用がある。
動きがあるが
故に、
反動があり、そこに
力が
生れてくる。
霊にのみ
傾いてもならぬが、
強く
動かなければならない。
体のみに
傾いてもならぬが、
強く
力しなければならない。
悪があってもならぬが、
悪が
働かねばならない。
常に、
動き
栄えゆく、
大和の

を
中心とする
上下、
左右、
前後に
円を
描き、
中心を

とする
立体的うごきの
中に
呼吸しなければならない。それが
正しき
惟神の
歓喜である。
惟神の
歓喜は
総てのものと
交流し、お
互いに
歓喜を
増加、
弥栄する。
故に、
永遠の
大歓喜となり、
大和の
大真、
大善、
大美、
大愛として
光り
輝くのである。
No.: 386