生前の
世界に、
霊人が
生活している。
山があり、
川があり、
住宅、
衣類、
食物がある。しかし、それは
最初からのものではない。それらの
元をなす

が
歓喜していた、その

が
生後、
地上世界にうつされて、
地上的約束の
下に
生長し、
秩序されたがため、その
結果が、
死後の
世界につづき、
死後の
世界の
様相は

の
原理によって、
生前世界に
移行して、
生前的に
進展し、
弥栄し、その

を
幾度となく
繰り
返すうちに、
漸次、
内的
に
向って
弥栄する
面と、
外的、
地上的に
進む

と、その
交叉融和することによって
更に
生み
出され
弥栄する

と、その
各々が
各々の
立場に
於て、すすみ、
呼吸し、
脈うち、
生命していると
同時に、
全体的にも
生命し、
歓喜し、
弥栄している。
而して、その
現われとしては、
和せば
和するほど
相離れ、
遠ざかりつつ
生長する。また、
生命の
大歓喜として
湧き
出ている。
故に、
地獄にあらざる
地獄的霊界、
天国にあらざる
天国的霊界は、
霊人により
生み、
霊人により
育てられると
同時に、
人々により
生み、
人々により
育てられ、
歓喜されるのである。かく
弥栄進展するが
故に、
人類も
霊人類も、
各々その
最後の
審判的段階に
入る
迄は、
真の
三千世界の
実相を
十分に
知り
得ない。
故に、
新天新地の
来る
迄、
真の
天国を
体得し
得ない。
新天新地の
新しき
世界に
生れ
出づる
自己を
知り
得ない。この
新天新地は
幾度となく
繰り
返されているのであるが、
何れも

の
形に
於けるが
如く
同一形式のものではあるが、
同一のものではない。より
小なるものより、より
大なるものが
生れ、より
大なるものより、より
小なるものが
生れ、より
新しきものより、より
古きものが
生れ、より
古きものより、より
新しきものが
生れ、
弥栄し、
一つの
太陽が
二つとなり、
三つとなり、
更には
一つとなることを
理解しない。
月より
地球が
生れ、
地球より
太陽が
生れると
云うことを
理解するに
苦しむものであるが、
最後の
審判に
至れば
自ら
体得し
得るのである。これは
外部的なる
智によらず、
内奥の
神智にめざめることによってのみ
知り
得る。
新天新地新人はかくして、
生れ、
呼吸し、
弥栄える。しかし、
新人と
生れ、
新天新地に
住むとも、その
以前の
自分の
総ては
失わない。
只その
位置を
転換されるのみである。
地上人が
死後、
物質的に
濃厚なる
部分をぬぎすてるが、その
根本的なものは
何一つとして
失わず
生活するのである。その
状態よりも
尚一層、そのままであって
何等の
変化もないと
思える
程である。
蛆が
蝶になる
如く
弥栄えるものであって、それは
大いなる
喜びである。
何故ならば、
大歓喜なる
大神の
中に
於て、
大神のその
質と
性とをうけつぎ
呼吸しているからである。
総てのものは
歓喜に
向かい、
歓喜によって
行為する。
歓喜がその
目的であるが
故に、
歓喜以外の
何ものも
意識し
得ない。
故に、
歓喜よりはなれたる
信仰はなく、
真理はなく、
生命はない。
生前の
霊人が
地上人として
生れてくるのも
死ではなく、
地上人が
霊界に
入るのもまた
死ではなく、
弥栄なる
誕生であることを
知らねばならぬ。
歓喜は
行為となる。
行為せざる
歓喜は、
真実の
歓喜ではない。
只考えたり
意志するのみでは
萌え
出でない。
生命しない。
只意志するだけで
行為しないことは、まことに
意志することではない。
霊界に
於ては
意志することは
直ちに
行為となるのである。
地上人にありては
物質によりて
物質の
中に、その
意志を
行為することによって
始めて
歓喜となり、
形体を
為し
弥栄えるのである。
生前の
霊界は、
愛の
歓喜、
真の
歓喜、
善の
歓喜、
美の
歓喜の
四段階と、その
中間の
三段階を
加えて
七つの
段階に
先ず
区別され、その
段階に
於て、その
度の
厚薄によりて
幾区画にも
区分され、
霊人の
各々は、
自らの
歓喜にふさわしい
所に
集まり、
自ら
一つの
社会を
形成する。
自分のふさわしくない
環境に
住むことは
許されない。
否、
苦しくて
住み
得ないのである。
若しその
苦に
耐え
得んとすれば、その
環境は、その
霊人の
感覚の
外に
遠く
去ってしまう。
例えば、
愛の
歓喜に
住む
霊人は、その
愛の
内容如何によって
同一方向の
幾百人か
幾千、
幾万人かの
集団の
中に
住み、
同一愛を
生み
出す
歓喜を
中心とする
社会を
形成する。
故に、
生前の
世界では、
自分の
周囲、
自分の
感覚し
得るものの
悉くが
最もよく
自分に
似ており、
自分と
調和する。
山も
川も
家も
田畑も、そこに
住む
霊人たちも、
動物も
植物も
鉱物も、
総て
自分自身と
同一線上にあり、
同一の
呼吸、
同一の
脈拍の
中にあり、それらの
総てが、
大きな
自分自身と
映像する
場合が
多い。
自分は
他であり、
他は
自分と
感覚する。
故に、その
性質は
生後にも
続き、
地上人もその
周囲を
自分化しようとする
意志をもっているのである。しかし、
地上世界は、
物質的約束によって、
想念のままには
動かない。
死後の
世界もまた
生前と
同様であるが、
一度物質世界を
通過したものと、しないものとの
相違が
生じてくるのである。だが、
何れにしても
物質世界との
密接なる
呼吸のつながりを
断ちきることは
出来ない。
物質は
物質的には
永遠性をもたず、
霊は
永遠性をもつが、
霊的角度から
見れば
永遠性はもたない。しかし、
物質面より
見れば
永遠性をもつものであり、
永遠から
永遠に
弥栄してゆくものである。
而して、
永遠性をもつ
事物は、
地上的物質的事物を
自分に
和合せしめる
働きを
内蔵している。
無は
有を
無化せんとし、
有は
無を
有化せんとし、その
融合の
上に
生命が
歓喜するのである。
無は
有を
生み、
有は
無を
生み
出す
大歓喜の
根本を
知得しなければならない。
No.: 385