第七章相生(あひおひ)の松(まつ)〔一一九七〕 ウラルの姫(ひめ)の系統(けいとう)と生(うま)れ合(あ)ひたる高姫(たかひめ)が バラモン教(けう)やウラル教(けう)三五教(あななひけう)の御教(みをしへ)を あちら此方(こちら)と取交(とりま)ぜて変性(へんじやう)男子(なんし)の系統(けいとう)と 自称(じしよう)し乍(なが)らフサの国(くに)北山村(きたやまむら)に居(きよ)を構(かま)へ 蠑螈別(いもりわけ)や魔我彦(まがひこ)や高山彦(たかやまひこ)や黒姫(くろひめ)を 唯一(ゆゐいつ)の股肱(ここう)と頼(たの)みつつウラナイ教(けう)の本山(ほんざん)を 立(た)てて教(をしへ)を四方(よも)の国(くに)宣(の)べ伝(つた)へつつ三五(あななひ)の 神(かみ)の仁慈(じんじ)にほだされて全(まつた)く前非(ぜんぴ)を後悔(こうくわい)し 神(かみ)の御(おん)為(ため)世(よ)の為(ため)に舎身(しやしん)の活動(くわつどう)励(はげ)みつつ 今(いま)は全(まつた)く三五(あななひ)の教(をしへ)の司(つかさ)と成(な)りすまし 生田(いくた)の森(もり)の神館(かむやかた)珍(うづ)の司(つかさ)となりにける。 後(あと)に残(のこ)りし魔我彦(まがひこ)は蠑螈別(いもりわけ)を教祖(けうそ)とし 北山村(きたやまむら)を後(あと)にして坂照山(さかてるやま)に立(たて)こもり 茲(ここ)に愈(いよいよ)ウラナイの教(をしへ)を再(ふたた)び開設(かいせつ)し 小北(こぎた)の山(やま)の神殿(しんでん)と称(とな)へて教(をしへ)を近国(きんごく)に 伝(つた)へ居(ゐ)るこそ雄々(をを)しけれ蠑螈別(いもりわけ)や魔我彦(まがひこ)は 高姫(たかひめ)仕込(しこ)みの雄弁(ゆうべん)を縦横(じうわう)無尽(むじん)にふり廻(まは)し 彼方(かなた)此方(こなた)の愚夫(ぐふ)愚婦(ぐふ)を将棋倒(しやうぎたふ)しに説(と)きまくり 天下(てんか)に無比(むひ)の真教(しんけう)と随喜(ずいき)の涙(なみだ)をこぼさせつ 螢(ほたる)の如(ごと)き光(ひかり)をば小北(こぎた)の山(やま)の谷間(たにあひ)に 細々(ほそぼそ)乍(なが)ら輝(かがや)かすさはさり乍(なが)ら常暗(とこやみ)の 黒白(あやめ)も分(わか)ぬ世(よ)の中(なか)は蠑螈別(いもりわけ)や魔我彦(まがひこ)の ねぢけ曲(まが)れる教(をしへ)をも正邪(せいじや)を調(しら)ぶる智者(ちしや)もなく 欲(よく)にからまれ天国(てんごく)へ昇(のぼ)りて死後(しご)を安楽(あんらく)に 暮(くら)さむものと婆嬶(ばばかか)が愚者(ぐしや)々々(ぐしや)集(あつ)まりゐたりけり 浮木(うきき)の村(むら)に名(な)も高(たか)き白浪(しらなみ)女(をんな)のお寅(とら)さま どうした機(はづ)みか何時(いつ)となく小北(こぎた)の山(やま)に通(かよ)ひ出(だ)し 足(あし)しげしげと重(かさ)なつて蠑螈別(いもりわけ)に殊愛(しゆあい)され 女房(にようばう)気取(きど)りで何(なに)くれと一切(いつさい)万事(ばんじ)身(み)のまはり 注意(ちうい)に注意(ちうい)を加(くは)へつつあらむ限(かぎ)りの親切(しんせつ)を 尽(つく)して教祖(けうそ)の歓心(くわんしん)をやつと求(もと)めて丑寅(うしとら)の 婆(ば)さまはニコニコ悦(えつ)に入(い)り小北(こぎた)の山(やま)を一身(いつしん)に 吾(わが)双肩(さうけん)に担(にな)うたるやうな心地(ここち)で控(ひか)えゐる。 蠑螈別(いもりわけ)は曲神(まがかみ)に魂(たま)をぬかれて酒(さけ)計(ばか)り 夜(よる)と昼(ひる)との区別(くべつ)なくあふりて心(こころ)の煩悶(はんもん)を 慰(なぐさ)め居(を)れど時々(ときどき)に心(こころ)に潜(ひそ)みし曲鬼(まがおに)が 飛出(とびだ)し来(きた)り高姫(たかひめ)の色香(いろか)を慕(した)ひ口走(くちばし)り お寅(とら)の心(こころ)を痛(いた)めたる其(その)醜態(しうたい)は幾度(いくたび)か 数(かぞ)へ尽(つく)せぬ計(ばか)り也(なり)お寅(とら)は無念(むねん)を抑(おさ)へつつ 勘忍袋(かんにんぶくろ)をキツと締(し)めこばり詰(つ)めてぞゐたりしが 大洪水(だいこうずゐ)の襲来(しふらい)し千(せん)里(り)の堤防(ていばう)一時(いちどき)に 決潰(けつくわい)したる計(ばか)りにて悋気(りんき)の濁水(だくすゐ)氾濫(はんらん)し 人目(ひとめ)もかまはず前後(ぜんご)をも忘(わす)れて教祖(けうそ)の胸倉(むなぐら)を つかみ締(し)めたる恐(おそ)ろしさかかる乱痴気(らんちき)騒(さわ)ぎをば 表(おもて)に待(ま)ちし松彦(まつひこ)の司(つかさ)の一行(いつかう)に隠(かく)さむと 心(こころ)を痛(いた)めいろいろと此(この)場(ば)の体裁(ていさい)つくろへど 隠(かく)し終(を)うせぬ燗徳利(かんどくり)土瓶(どびん)の居(ゐ)ずまひわれた猪口(ちよこ) 金切声(かなきりごゑ)は屋外(をくぐわい)に聞(きこ)え来(きた)るぞ是非(ぜひ)なけれ お寅(とら)婆(ば)さまが此(この)山(やま)に来(きた)つて御用(ごよう)を始(はじ)めてゆ これ丈(だけ)怒(おこ)つた大喧嘩(おほげんくわ)未(いま)だ一度(いちど)もなかつたに 如何(どう)した拍子(ひやうし)の瓢箪(へうたん)か思(おも)ひもよらぬ醜状(しうじやう)を 珍客(ちんきやく)さまの目(め)の前(まへ)に曝露(ばくろ)したるぞ神罰(しんばつ)と 云(い)ふもなかなか愚(おろか)なりあゝ惟神(かむながら)々々(かむながら) 御霊(みたま)幸(さちは)ひましませよ。 ○ 小北(こぎた)の山(やま)の別館(べつくわん)に潜(ひそ)みて教(をしへ)の実権(じつけん)を 掌握(しやうあく)しつつ朝夕(あさゆふ)に神(かむ)素盞嗚(すさのをの)大神(おほかみ)の 大御心(おほみこころ)を奉戴(ほうたい)しウラナイ教(けう)の曲神(まがかみ)を 日日(ひにち)万(よろづ)に言向(ことむ)けて根本(こんぽん)的(てき)に改良(かいりやう)し 蠑螈別(いもりわけ)や魔我彦(まがひこ)の身魂(みたま)を立替(たてかへ)立直(たてなほ)し 三五教(あななひけう)の真髄(しんずい)を理解(りかい)せしめて道(みち)の為(ため) 世人(よびと)の為(ため)に神徳(しんとく)を輝(かがや)かさむと松姫(まつひめ)は 蠑螈別(いもりわけ)の言(い)ふままに上義(じやうぎ)の姫(ひめ)と称(とな)へられ 心(こころ)ならずも春陽(しゆんやう)の花(はな)咲(さ)き匂(にほ)ふ時節(じせつ)をば 神(かみ)に祈(いの)りて松姫(まつひめ)が心(こころ)の奥(おく)ぞ床(ゆか)しけれ 小北(こぎた)の山(やま)に祀(まつ)りたるユラリの彦(ひこ)の又(また)の御名(みな) 末代(まつだい)日(ひ)の王天(わうてん)の神(かみ)其(その)外(ほか)百(もも)の神名(しんめい)は いずれも正(ただ)しきものならず狐(きつね)狸(たぬき)の神霊(しんれい)に 誑(たぶらか)されて魔我彦(まがひこ)が誠(まこと)の神(かみ)と思(おも)ひつめ 得意(とくい)になりて宮柱(みやばしら)ヘグレのヘグレのヘグレムシヤ ヘグレ神社(じんじや)を立(た)て並(なら)べ迷(まよ)ひゐるこそうたてけれ 三五教(あななひけう)の松姫(まつひめ)もかやうな事(こと)に騙(だまさ)れて 信仰(しんかう)するよな者(もの)でないさは去(さ)り乍(なが)ら今(いま)すぐに いと厳格(げんかく)な審神(さには)をばなすに於(おい)ては蠑螈別(いもりわけ) 其(その)外(ほか)百(もも)の神司(かむづかさ)一度(いちど)に鼎(かなへ)の湧(わ)く如(ごと)く 怒(いか)り狂(くる)ひて松姫(まつひめ)の身辺(しんぺん)忽(たちま)ち危(あやふ)しと 悟(さと)りたるより松姫(まつひめ)は素知(そし)らぬ顔(かほ)を装(よそほ)ひつ ウラナイ教(けう)の実権(じつけん)を何時(いつ)の間(ま)にかは掌握(しやうあく)し 小北(こぎた)の山(やま)の神殿(しんでん)は殆(ほとん)ど松姫(まつひめ)一(いち)人(にん)の 指命(しめい)の下(もと)に大部分(だいぶぶん)動(うご)かし得(う)べき身(み)となりぬ モウ此(この)上(うへ)は松姫(まつひめ)も何(なん)の遠慮(ゑんりよ)も要(い)るものか やがてボツボツ正体(しやうたい)を現(あら)はしくれむと思(おも)ふ内(うち) 昔(むかし)別(わか)れし吾(わが)夫(つま)の松彦(まつひこ)さまが三五(あななひ)の 神(かみ)の司(つかさ)となりすまし思(おも)ひも寄(よ)らぬ此(この)山(やま)に お寅(とら)婆(ば)さまに導(みちび)かれ登(のぼ)り来(きた)りし其(その)姿(すがた) 居間(ゐま)の窓(まど)より覗(のぞ)きこみハツと胸(むね)をば躍(をど)らせつ 俄(にはか)に恋(こひ)しさ身(み)にせまりたまりかねてぞなりければ 神勅(しんちよく)なりと言(い)ひくろめお寅(とら)婆(ば)さまを招(まね)きよせ 今(いま)来(き)た人(ひと)はユラリ彦(ひこ)末代(まつだい)日(ひ)の王天(わうてん)の神(かみ) 尊(たふと)き神(かみ)の生宮(いきみや)ぞあの神(かみ)様(さま)に帰(い)なれては 五六七(みろく)神政(しんせい)成就(じやうじゆ)の仕組(しぐみ)はとても立(た)たうまい 御(ご)苦労(くらう)乍(なが)ら一走(ひとはし)りお前(まへ)は後(あと)を追(お)つかけて 末代(まつだい)さまを是非(ぜひ)一度(いちど)これの館(やかた)に連(つ)れ帰(かへ)り いと慇懃(いんぎん)に遇(もてな)していついつ迄(まで)も此(この)山(やま)に 鎮座(ちんざ)ましましウラナイの神(かみ)の教(をしへ)の目的(もくてき)を 立(た)たさにやならぬお寅(とら)さまこれの使命(しめい)を果(はた)しなば お前(まへ)はこれから此(この)山(やま)の最大一(さいだいいち)の殊勲者(しゆくんじや)と おだてあぐればお寅(とら)さま俄(にはか)に元気(げんき)を放(はふ)り出(だ)して 十曜(とえう)の紋(もん)の描(ゑが)きたる扇(あふぎ)片手(かたて)にひつつかみ 松姫館(まつひめやかた)を飛出(とびだ)してオーイオーイと松彦(まつひこ)を 呼戻(よびもど)したる其(その)手腕(しゆわん)なみなみならぬ婆(ば)さま也(なり) あゝ惟神(かむながら)々々(かむながら)御霊(みたま)幸(さちは)ひましませよ。 蠑螈別(いもりわけ)の片腕(かたうで)と自分(じぶん)も許(ゆる)し人(ひと)も亦(また) 許(ゆる)す魔我彦(まがひこ)副教主(ふくけうしゆ)蠑螈別(いもりわけ)の託宣(たくせん)を 一(いち)から十(じふ)迄(まで)鵜呑(うの)みして善悪(ぜんあく)正邪(せいじや)の区別(くべつ)なく 只(ただ)有難(ありがた)い有難(ありがた)い誠(まこと)の神(かみ)は此(この)外(ほか)に 広(ひろ)い世界(せかい)にやあるまいと心(こころ)の底(そこ)から歓喜(くわんき)して 真理(しんり)を紊(みだ)す教(をしへ)とは少(すこ)しも知(し)らず朝夕(あさゆふ)に 骨身(ほねみ)を惜(をし)まず神前(しんぜん)にいとまめやかに仕(つか)へつつ 迷(まよ)い切(き)つたる魔我彦(まがひこ)は蠑螈別(いもりわけ)のなす事(こと)は 善悪(ぜんあく)正邪(せいじや)に係(かか)はらず何(いづ)れも神(かみ)の正業(せいげふ)と 迷信(めいしん)せるこそ愚(おろか)なれかくも教(をしへ)に迷信(めいしん)な 朴直(ぼくちよく)一途(いちづ)な魔我彦(まがひこ)も若(わか)き男(をとこ)の選(せん)にもれず 恋(こひ)に心(こころ)を乱(みだ)しつつ吾(わ)れにかしづく女房(にようばう)は 甲(かふ)に致(いた)そか乙(おつ)にせうか又々(またまた)丙(へい)か丁戍(ていぼう)か なぞと集(あつ)まる信者(しんじや)をば女(をんな)と見(み)れば探索(たんさく)し 物色(ぶつしよく)しつつ目(め)が細(ほそ)い色(いろ)は白(しろ)いが鼻(はな)低(ひく)い 鼻(はな)は高(たか)いが目(め)が細(ほそ)い背丈(せたけ)が高(たか)い低(ひく)いなど 朝(あさ)な夕(ゆふ)なに首(くび)かたげ妻(つま)の選挙(せんきよ)に余念(よねん)なく 心(こころ)を悩(なや)ましゐたる折(をり)少(すこ)しく年(とし)はよつたれど 花(はな)を欺(あざむ)く松姫(まつひめ)がこれの館(やかた)に来(きた)りしゆ 二世(にせ)の女房(にようばう)は松姫(まつひめ)と自分(じぶん)免許(めんきよ)の妻(つま)さだめ 神(かみ)の奉仕(ほうし)の其(その)間(あひ)は万事(ばんじ)万端(ばんたん)気(き)を付(つ)けて 松姫(まつひめ)さまの歓心(くわんしん)を買(か)ふ事(こと)計(ばか)りに身(み)を俏(やつ)し 吉日(きちにち)良辰(りやうしん)到来(たうらい)し連理(れんり)の袖(そで)を翻(ひるがへ)し 合衾式(がふきんしき)をあげむぞと楽(たの)しみゐたるも水(みづ)の泡(あわ) 思(おも)ひもよらぬ松彦(まつひこ)が此(この)神館(しんくわん)に現(あら)はれて ウラナイ教(けう)の信徒(まめひと)が唯一(ゆゐいつ)の主神(しゆしん)と頼(たの)みたる 神徳(しんとく)高(たか)きユラリ彦(ひこ)又(また)の御(おん)名(な)を尋(たづ)ぬれば 末代(まつだい)日(ひ)の王天(わうてん)の神(かみ)珍(うづ)の宮居(みやゐ)と現(あら)はれて 突然(とつぜん)ここに天降(あまくだ)り上義(じやうぎ)の姫(ひめ)の松姫(まつひめ)が 霊(みたま)の夫婦(ふうふ)と聞(き)きしより気(き)が気(き)でならぬ魔我彦(まがひこ)は 胸(むね)を躍(をど)らせゐたりけるかかる所(ところ)へ松姫(まつひめ)の 侍女(じぢよ)のお千代(ちよ)が現(あら)はれて魔我彦(まがひこ)さまへ上義姫(じやうぎひめ) あが師(し)の君(きみ)が御用(ごよう)ぞと聞(き)いたを機(しほ)に座(ざ)を立(た)つて 鼻(はな)うごめかし肘(ひぢ)を張(は)り吉報(きつぽう)聞(き)かむと行(い)てみれば 豈計(あにはか)らむや松姫(まつひめ)は打(う)つて変(かは)つた其(その)様子(やうす) 犯(をか)し難(がた)くぞ見(み)えにける義理(ぎり)天上(てんじやう)と自称(じしよう)する 魔我彦(まがひこ)、姫(ひめ)に打向(うちむか)ひ思(おも)ひの丈(たけ)をクドクドと 述(の)べむとすれば松姫(まつひめ)は挺(てこ)でも動(うご)かぬ勢(いきほひ)で 魔我彦(まがひこ)さまへ今日(けふ)からはお前(まへ)に頼(たの)む事(こと)がある 松彦(まつひこ)さまは吾(わが)夫(つま)よモウ之(これ)からは厭(いや)らしい 目付(めつき)をしたりバカな事(こと)言(い)はない様(やう)にしておくれ 二世(にせ)の夫(をつと)のある私(わたし)大(おほい)に迷惑(めいわく)致(いた)します 松彦(まつひこ)さまはユラリ彦(ひこ)末代(まつだい)日(ひ)の王天(わうてん)の神(かみ) 私(わたし)は妻(つま)の上義姫(じやうぎひめ)遠(とほ)き神世(かみよ)の昔(むかし)から 切(き)るに切(き)られぬ因縁(いんねん)でヘグレのヘグレのヘグレ武者(むしや) 世界(せかい)隅(くま)なく逍(さま)よひておちて居(を)つたが優曇華(うどんげ)の 花(はな)咲(さ)く春(はる)に相生(あひおひ)の松(まつ)と松(まつ)との深緑(ふかみどり) 千代(ちよ)の契(ちぎり)を結(むす)び昆布(こぶ)お前(まへ)と私(わし)との其(その)仲(なか)は 至清(しせい)至潔(しけつ)の身(み)の上(うへ)だ汚(けが)しもなさず汚(けが)されも せない二人(ふたり)の神司(かむつかさ)万(よろづ)の物(もの)の霊長(れいちやう)と 生(うま)れた人(ひと)は何(なに)よりも断(だん)の一字(いちじ)が大切(たいせつ)よ 恋(こひ)の執着(しふちやく)サツパリと放(ほ)かしてお呉(く)れと手厳(てきび)しく 不意(ふい)に打出(うちだ)す肱鉄砲(ひぢてつぱう)呆(あき)れて言葉(ことば)もないじやくり 言葉(ことば)を尽(つく)し最善(さいぜん)を尽(つく)せど松姫(まつひめ)承知(しようち)せず お千代(ちよ)に迄(まで)も馬鹿(ばか)にされ無念(むねん)の涙(なみだ)ハラハラと 松彦司(まつひこつかさ)を恨(うら)みつつシオシオ立(た)つて元(もと)の座(ざ)へ 顔(かほ)の色(いろ)まで青(あを)くして帰(かへ)つて見(み)れば万公(まんこう)や 五三公(いそこう)其(その)他(た)の連中(れんちう)が力限(ちからかぎ)りに嘲笑(てうせう)する 魔我彦(まがひこ)さまは腹(はら)を立(た)て歯(は)ぎしりすれど人(ひと)の前(まへ) 怒(おこ)りもならず泣(な)けもせず煩悶(はんもん)苦悩(くなう)の胸(むね)おさへ 俯(うつ)むきゐるぞ憐(あは)れなる少女(せうぢよ)の千代(ちよ)に導(みちび)かれ 松彦(まつひこ)さまは別館(べつやかた)進(すす)みて見(み)れば此(こ)はいかに 日頃(ひごろ)慕(した)ひし松姫(まつひめ)が盛装(せいさう)凝(こ)らしニコニコと 笑顔(ゑがほ)を湛(たた)へて松彦(まつひこ)が手(て)をとり奥(おく)へよび入(い)れる 流石(さすが)の松彦(まつひこ)呆然(ばうぜん)と言葉(ことば)も出(い)でず松姫(まつひめ)が 面(おもて)を眺(なが)めてゐたりしがあたり見(み)まはし松姫(まつひめ)は ソツと其(その)手(て)を握(にぎ)りしめ恋(こひ)しき吾(わが)夫(つま)松彦(まつひこ)よ 夜(よる)の嵐(あらし)に誘(さそ)はれて別(わか)れてから早(はや)十年(ととせ) 余(あま)りの月日(つきひ)を送(おく)りました雨(あめ)の晨(あした)や風(かぜ)の宵(よひ) 思(おも)ひ出(だ)しては泣(なき)くらし思(おも)ひ出(だ)しては又(また)歎(なげ)く 月日(つきひ)の駒(こま)の関(せき)もなく今日(けふ)が日(ひ)迄(まで)も吾(わが)夫(つま)の 行方(ゆくへ)を探(たづ)ね神(かみ)様(さま)に祈(いの)りを上(あ)げて一(いち)日(にち)も 早(はや)く会(あ)はさせ玉(たま)へやと祈(いの)りし甲斐(かひ)もありありと 現(あら)はれ玉(たま)ひし神(かみ)の徳(とく)今日(けふ)の集(つど)ひの有難(ありがた)さ 何(なに)から言(い)うてよかろやら話(はなし)は海山(うみやま)積(つも)れ共(ども) 其(その)糸口(いとぐち)も乱(みだ)れ果(は)て解(ほど)きかねたる胸(むね)の内(うち) 推量(すゐりやう)なされて下(くだ)さんせマアマア無事(ぶじ)で御(お)達者(たつしや)で 私(わたし)も嬉(うれ)しいお目出(めで)たい貴方(あなた)に見(み)せたい者(もの)がある どうぞ喜(よろこ)んで下(くだ)さんせ語(かた)れば松彦(まつひこ)涙(なみだ)ぐみ 其(その)手(て)をしかと握(にぎ)りしめお前(まへ)は吾(わが)妻(つま)松姫(まつひめ)か ヨウまあ無事(ぶじ)でゐてくれたお前(まへ)に別(わか)れた其(その)後(のち)は 世(よ)を果敢(はか)なみてウロウロとフサの国(くに)をば遠近(をちこち)と 巡(めぐ)り巡(めぐ)りて月(つき)の国(くに)バラモン教(けう)の本山(ほんざん)に 現(あら)はれ玉(たま)ふ神柱(かむばしら)大黒主(おほくろぬし)の部下(ぶか)とます ランチ将軍(しやうぐん)片彦(かたひこ)が司(つかさ)の神(かみ)に見出(みいだ)され 神(かみ)の柱(はしら)や軍人(いくさびと)二(ふた)つを兼(か)ねてまめやかに 仕(つか)へ乍(なが)らも両親(ふたおや)や兄(あに)の身(み)の上(うへ)汝(なれ)が身(み)を 思(おも)ひ案(あん)じて一(いち)日(にち)も安(やす)く此(この)世(よ)を渡(わた)りたる 時(とき)も涙(なみだ)にかきくれて悲(かな)しき月日(つきひ)を送(おく)る折(をり) 尊(たふと)き神(かみ)の引合(ひきあは)せ河鹿(かじか)峠(たうげ)の谷間(たにあひ)で 恋(こひ)しき兄(あに)に巡(めぐ)り会(あ)ひ茲(ここ)に心(こころ)を翻(ひるが)へし 三五教(あななひけう)に入信(にふしん)し御伴(みとも)に仕(つか)へまつりつつ 野中(のなか)の森(もり)で夜(よ)をあかし橋(はし)の袂(たもと)に来(き)て見(み)れば お寅(とら)婆(ば)さまの母(おや)と子(こ)に思(おも)はず知(し)らず出会(でつく)はし 縁(えにし)の綱(つな)に曳(ひ)かされて思(おも)はず知(し)らず来(き)て見(み)れば 日頃(ひごろ)慕(した)ひし吾(わが)妻(つま)はここに居(ゐ)たのか嬉(うれ)しやな 結(むす)ぶの神(かみ)の結(むす)びたる二人(ふたり)の仲(なか)は一旦(いつたん)は 右(みぎ)に左(ひだり)に別(わか)る共(とも)心(こころ)に解(とけ)ぬ恋(こひ)の糸(いと) 解(ほど)き初(そ)めたる今日(けふ)の空(そら)嬉(うれ)しさ胸(むね)に満(み)ち溢(あふ)れ 答(こた)ふる言葉(ことば)もないじやくり神(かみ)の恵(めぐみ)を今更(いまさら)に 思(おも)ひ浮(うか)べて有難(ありがた)く身(み)に沁(し)みわたる尊(たふと)さよ 旭(あさひ)は照(て)る共(とも)曇(くも)る共(とも)月(つき)は盈(み)つ共(とも)虧(か)くる共(とも) 仮令(たとへ)大地(だいち)は沈(しづ)む共(とも)誠(まこと)の力(ちから)は世(よ)を救(すく)ふ 真心(まごころ)こめてひたすらに神(かみ)の教(をしへ)を守(まも)りたる 二人(ふたり)の身(み)をば憐(あは)れみて思(おも)ひもよらぬ此(この)山(やま)で 会(あ)はし玉(たま)ひし天地(あめつち)の神(かみ)の御前(みまへ)に感謝(かんしや)して 此(この)行先(ゆくさき)は殊更(ことさら)に命(いのち)を惜(をし)まず道(みち)の為(ため) 心(こころ)の限(かぎ)り身(み)の限(かぎ)り仕(つか)へまつりて神恩(しんおん)の 万分一(まんぶんいち)に報(むく)うべしあゝ惟神(かむながら)々々(かむながら) 御霊(みたま)幸(さちは)ひましませよ。 松彦(まつひこ)『尊(たふと)き神(かみ)様(さま)の御恵(みめぐ)みに依(よ)つて、永(なが)らくの間(あひだ)、互(たがひ)に在所(ありか)の分(わか)らなかつた松(まつ)と松(まつ)との夫婦(ふうふ)が、思(おも)はぬ此(この)山(やま)で廻(めぐ)り合(あ)ふとは、何(なん)たる有難(ありがた)い事(こと)であらう。先(ま)づ其方(そなた)も無事(ぶじ)で、松彦(まつひこ)も嬉(うれ)しい、就(つい)ては私(わし)に見(み)せたい物(もの)があると云(い)つたのはどんな物(もの)だ、様子(やうす)有(あ)りげなお前(まへ)の言葉(ことば)、グツと胸(むね)にこたえた』 松姫(まつひめ)『ソリヤさうで厶(ござ)いませう。貴方(あなた)にお別(わか)れした時(とき)に、私(わたし)は身重(みおも)になつて居(を)つた事(こと)を覚(おぼ)えてゐらつしやるでせう』 松彦(まつひこ)『確(たしか)に覚(おぼ)えてゐる。機嫌(きげん)よく身二(みふた)つになつただらうなア』 松姫(まつひめ)『ハイ、アーメニヤを逃(に)げ出(だ)す途中(とちう)、フサの国(くに)のライオン河(がは)の畔(ほとり)で腹(はら)が痛(いた)くなり、たうとう妊娠(にんしん)八(はち)ケ月(げつ)で、可愛(かあい)い女(をんな)の子(こ)を生(う)みおとしました』 松彦(まつひこ)『そして其(その)子(こ)は何(ど)うなつたのだ。早(はや)く聞(き)かして呉(く)れ』 松姫(まつひめ)『途中(とちう)の事(こと)とて如何(どう)する事(こと)も出来(でき)ず、苦(くるし)んで居(ゐ)る所(ところ)へ、酒(さけ)に酔(よ)うた男(をとこ)がブラリブラリと通(とほ)り合(あは)せ、親切(しんせつ)に吾(わが)家(や)へつれ帰(かへ)り、介抱(かいほう)をしてくれました。それが為(ため)に母子(おやこ)共(とも)に機嫌(きげん)よく肥立(ひだ)ち、娘(むすめ)は其(その)男(をとこ)に子(こ)がないのを幸(さいは)ひ、貰(もら)つて貰(もら)ひ、私(わたし)はフサの国(くに)北山村(きたやまむら)のウラナイ教(けう)へ信仰(しんかう)を致(いた)し、遂(つひ)には抜擢(ばつてき)されて宣伝使(せんでんし)となり、自転倒(おのころ)島(じま)の高城山(たかしろやま)に教主(けうしゆ)となつて御用(ごよう)を致(いた)して居(を)りましたが、高姫(たかひめ)様(さま)の三五教(あななひけう)へ帰順(きじゆん)と共(とも)に私(わたし)も三五教(あななひけう)へ帰順(きじゆん)致(いた)し、言依別(ことよりわけの)命(みこと)様(さま)の内命(ないめい)に依(よ)つて、小北山(こぎたやま)へいろいろと言(ことば)を設(まう)け、うまく入(い)り込(こ)んで、神業(しんげふ)の為(ため)に、心(こころ)を砕(くだ)いて居(を)ります。そして其(その)娘(むすめ)はここに居(ゐ)る此(この)お千代(ちよ)で厶(ござ)います』 松彦(まつひこ)『ヤアこれが吾(わが)娘(むすめ)か、ヨウまア大(おほ)きくなつてくれた。親(おや)はなうても子(こ)は育(そだ)つとは能(よ)く云(い)つたものだな。コレお千代(ちよ)、私(わし)はお前(まへ)の父親(てておや)ぢや、養育(やういく)を人手(ひとで)に渡(わた)して済(す)まぬ事(こと)だつたなア』 と涙(なみだ)ぐむ。お千代(ちよ)は始(はじ)めて松姫(まつひめ)の物語(ものがたり)を聞(き)き、松姫(まつひめ)は自分(じぶん)の実(じつ)の母(はは)で、松彦(まつひこ)は実(じつ)の父(ちち)なることを悟(さと)つた。お千代(ちよ)は思(おも)はず嬉(うれ)し涙(なみだ)にくれてワツと其(その)場(ば)に泣倒(なきたふ)れた。松姫(まつひめ)も涙(なみだ)乍(なが)らにお千代(ちよ)を抱起(だきおこ)し、頭(あたま)を撫(な)で背(せな)を撫(な)でて歯(は)をくひしめて忍(しの)び泣(な)きしてゐる。 松彦(まつひこ)『たらちねの親(おや)はなくても子(こ)は育(そだ)つ 育(そだ)ての親(おや)の恵(めぐ)み尊(たふと)き。 吾(わが)子(こ)をば育(そだ)て玉(たま)ひし両親(ふたおや)は いづくの人(ひと)か聞(き)かまほしさよ』 松姫(まつひめ)『フサの国(くに)竹野(たけの)の村(むら)のカーチンと 言(い)つて名高(なだか)き白浪(しらなみ)男(をとこ)。 さり乍(なが)らカーチンさまの夫婦(ふうふ)づれ 今(いま)はあの世(よ)の人(ひと)となりぬる』 松彦(まつひこ)『一言(ひとこと)のいやひ言葉(ことば)もかはされぬ 育(そだ)ての親(おや)の有難(ありがた)き哉(かな)。 吾(わが)娘(むすめ)、千代(ちよ)も八千代(やちよ)もカーチンの 育(そだ)ての恩(おん)を忘(わす)れまいぞや』 千代(ちよ)『有難(ありがた)き育(そだ)ての親(おや)に悲(かな)しくも 別(わか)れて誠(まこと)の親(おや)に会(あ)ひぬる。 たらちねの父(ちち)と母(はは)とに巡(めぐ)り合(あ)ひ 嬉(うれ)し涙(なみだ)の止(と)めどなくふる』 松姫(まつひめ)『母(はは)よ子(こ)よと名乗(なの)らむものと思(おも)ひしが あたり憚(はばか)り包(つつ)み居(ゐ)たりし。 吾(わが)母(はは)と知(し)らずに仕(つか)へ侍(はべ)りたる お千代(ちよ)の心(こころ)いとしかりけり』 千代(ちよ)『吾(わが)母(はは)と知(し)らず知(し)らずに懐(なつか)しく 師(し)の君様(きみさま)と思(おも)ひ仕(つか)へぬ。 どことなく温(ぬく)みのゐます師(し)の君(きみ)と 朝(あさ)な夕(ゆふ)なに伏拝(ふしをが)みける』 松彦(まつひこ)『三五(あななひ)の神(かみ)の大道(おほぢ)に入(い)りしより 三日(みつか)ならずに妻(つま)にあひぬる。 妻(つま)となり夫(をつと)となるも天地(あめつち)の 神(かみ)の御水火(みいき)のこもるまにまに。 天地(あめつち)の神(かみ)の御水火(みいき)に生(うま)れたる 吾(わが)子(こ)は千代(ちよ)に栄(さか)え行(ゆ)くらむ』 千代(ちよ)『父母(ちちはは)の恵(めぐみ)のたまくら知(し)らね共(ども) 何(なん)とはなしに慕(した)ひぬる哉(かな)。 カーチンの父(ちち)の命(みこと)を生(う)みの親(おや)と 慕(した)ひて朝夕(あさゆふ)仕(つか)へ来(き)にけり。 朝夕(あさゆふ)になでさすりつつ吾(わが)身(み)をば 育(そだ)て玉(たま)ひし親(おや)ぞ恋(こひ)しき』 松彦(まつひこ)『さもあらむ、藁(わら)の上(うへ)から育(そだ)てられ 慈悲(じひ)の温(ぬく)みに生(お)ひ立(た)ちし身(み)は。 われよりも育(そだ)ての親(おや)を尊(たふと)みて とひ弔(とむら)ひを忘(わす)れざらまし』 松姫(まつひめ)『恋(こひ)したふ、あが脊(せ)の君(きみ)に巡(めぐ)り会(あ)ひ 嬉(うれ)し涙(なみだ)のとめどなき哉(かな)』 かく親子(おやこ)は歌(うた)を以(もつ)て心(こころ)の丈(たけ)を述(の)べてゐる。館(やかた)の外面(そとも)より俄(にはか)に聞(きこ)ゆる瓦(かはら)をぶちやけた様(やう)な声(こゑ)、 (魔我彦)『グワハツヽヽヽ、イツヒヽヽヽ』 親子(おやこ)三(さん)人(にん)は此(この)声(こゑ)に驚(おどろ)き、あたりをキヨロキヨロと見廻(みまは)した。怪(あや)しき笑(わら)ひ声(ごゑ)はそれつきりにて屋上(をくじやう)を吹(ふ)き亘(わた)る凩(こがらし)の音(おと)ゾウゾウと聞(きこ)えてゐる。此(この)声(こゑ)の主(ぬし)は魔我彦(まがひこ)であつた事(こと)は前後(ぜんご)の事情(じじやう)より伺(うかが)ふ事(こと)が出来(でき)る。 (大正一一・一二・一二旧一〇・二四松村真澄録)