第二二章高砂(たかさご)上陸(じやうりく)〔八二二〕 高姫(たかひめ)は大勢(おほぜい)の船客(せんきやく)の中(なか)に只(ただ)一人(ひとり)、面(つら)をふくらして坐(すわ)つて居(ゐ)たが、余(あま)り気分(きぶん)がすぐれぬので、再(ふたた)び見晴(みは)らしよき甲板(かんばん)に姿(すがた)を現(あら)はした。そこには常彦(つねひこ)、春彦(はるひこ)の両人(りやうにん)が切(しき)りに手(て)をつないで、歌(うた)を歌(うた)ひ踊(をど)り狂(くる)うて居(ゐ)る。 高姫(たかひめ)は目(め)に角(かど)を立(た)て、大(おほ)きな声(こゑ)で、 高姫『コレ常公(つねこう)、春公(はるこう)、千騎(せんき)一騎(いつき)の此(この)場合(ばあひ)、何(なに)を気楽(きらく)さうにグヅグヅ踊(をど)つて居(ゐ)るのだい。チト確(しつか)りしなさらぬかい』 常彦(つねひこ)『ハーイ、何分(なにぶん)五六七(みろく)の世(よ)の末(すゑ)迄(まで)勘当(かんどう)を受(う)けたり、勘当(かんどう)をした祝(いはひ)に、空散財(からさんざい)をやつて居(を)りますのだ。お前(まへ)さまもそこで一組(ひとくみ)、品(しな)よう踊(をど)つて御覧(ごらん)なさい。随分(ずゐぶん)見晴(みは)らしのよい此(この)甲板(かんばん)の上(うへ)で、ソヨソヨ風(かぜ)を受(う)け乍(なが)ら踊(をど)つてゐるのは素的(すてき)滅法界(めつぽふかい)面白(おもしろ)いものですよ。アハヽヽヽ』 春彦(はるひこ)『高姫(たかひめ)さま、そんな六(むつ)かしい顔(かほ)をせずに、長(なが)い海(うみ)の上(うへ)の道中(だうちう)だ。チツとは気楽(きらく)になりなさい。苦(くるし)んでくらすのも、喜(よろこ)んでくらすのも、泣(な)くのも怒(おこ)るのもヤツパリ一(いち)日(にち)だよ。ヤア面白(おもしろ)い面白(おもしろ)い、ヤア常彦(つねひこ)、サア踊(をど)つたり踊(をど)つたり』 と又(また)もや無茶(むちや)苦茶(くちや)に、妙(めう)な手(て)つきし乍(なが)ら、ステテコ踊(をどり)を始(はじ)め出(だ)した。高姫(たかひめ)は目(め)に角(かど)を立(た)て足(あし)ふみならし、 高姫『コレ常公(つねこう)、春公(はるこう)、誰(たれ)が勘当(かんどう)すると云(い)ひました。決(けつ)して高姫(たかひめ)は申(まを)しませぬよ。あれはお前(まへ)に憑依(ひようい)してゐた副(ふく)守護神(しゆごじん)が、妾(わたし)の口(くち)を借(か)つてあんな事(こと)を云(い)つたのだ。海洋(かいやう)万里(ばんり)の航海(かうかい)に杖柱(つゑはしら)と頼(たの)むお前(まへ)達(たち)を勘当(かんどう)して如何(どう)なるものか。よう考(かんが)へて御覧(ごらん)なさい』 春彦(はるひこ)『何(なん)と云(い)つても、こつちは荒男(あらをとこ)の二人(ふたり)連(づれ)、お前(まへ)さまは何程(なんぼ)強(つよ)相(さう)な事(こと)を云(い)つても、大体(だいたい)が女(をんな)だから、心(こころ)淋(さび)しくなつて来(き)たので、又(また)そんな事(こと)を云(い)つて旧交(きうかう)を温(あたた)めようとするのだらう。其(その)手(て)には吾々(われわれ)だつて、さう何遍(なんべん)も乗(の)りませぬよ、御(お)生憎(あひにく)さま、 今(いま)は他人(たにん)ぢやホツチツチ一家(いつけ)になつたらかもてんか ウントコドツコイ高姫(たかひめ)さまヤツトコドツコイ常彦(つねひこ)さま ゴテゴテ云(い)ふと鬼(おに)の蕨(わらび)がお見舞(みまひ)申(まを)す頭(あたま)のてつぺを春彦(はるひこ)さま アヽドツコイドツコイドツコイシヨ』 と調子(てうし)に乗(の)つて踊(をど)り狂(くる)ひ、春彦(はるひこ)は甲板(でつき)をふみはづし、逆(さか)まく波(なみ)にザンブと許(ばか)り落込(おちこ)んで了(しま)つた。常彦(つねひこ)は甲板(でつき)の上(うへ)を右(みぎ)に左(ひだり)に真青(まつさを)な顔(かほ)をして、キリキリと狂(くる)ひ廻(まは)つた。高姫(たかひめ)は、 高姫『コレ常彦(つねひこ)、何程(なにほど)キリキリ舞(まひ)を致(いた)しても、此(この)荒波(あらなみ)に落(お)ち込(こ)んだが最後(さいご)、到底(たうてい)命(いのち)は助(たす)かりませぬ。諦(あきら)めなさいよ。それだから、余(あま)り慢心(まんしん)をいたすと、先(さき)になりてからジリジリもだえを致(いた)し、キリキリ舞(ま)ひをして騒(さわ)いでも後(あと)の祭(まつ)り、そこになりてから何程(なにほど)神(かみ)を祈(いの)りたとて、神(かみ)はモウ知(し)らぬぞよとお筆(ふで)に書(か)いてありませうがなア。これを見(み)て御(ご)改心(かいしん)なされ。日(ひ)の出神(でのかみ)の生宮(いきみや)に腮(あご)をはづきなさるから、こんな目(め)に会(あ)うのですよ、サアこれから私(わたし)に絶対(ぜつたい)服従(ふくじゆう)をなさるか。お気(き)に入(い)らねば又(また)春彦(はるひこ)の様(やう)に神(かみ)様(さま)に取(と)つて放(はう)られますよ』 常彦(つねひこ)は耳(みみ)にもかけず、一生(いつしやう)懸命(けんめい)に気(き)をいらち、声(こゑ)を限(かぎ)りに、 常彦『助(たす)けてやつてくれーい』 と叫(さけ)んで居(ゐ)る。船客(せんきやく)の一人(ひとり)は長(なが)き綱(つな)に板片(いたぎれ)を括(くく)りつけ、春彦(はるひこ)の波(なみ)に漂(ただよ)ひ居(ゐ)る方(はう)に向(むか)つて、ハツシと投(な)げた。春彦(はるひこ)は手早(てばや)く其(その)板(いた)に喰(くら)ひ付(つ)いた。船客(せんきやく)は力(ちから)限(かぎ)りに其(その)綱(つな)を引寄(ひきよ)せ、漸(やうや)くにして春彦(はるひこ)を船中(せんちう)に救(すく)ひ上(あ)げた。常彦(つねひこ)は大(おほい)に喜(よろこ)び、直(ただち)に甲板(かんばん)を下(くだ)り、春彦(はるひこ)を救(すく)ひ上(あ)げたる船客(せんきやく)の側(そば)に走(はし)り寄(よ)り、心(こころ)の底(そこ)より涙(なみだ)を流(なが)して感謝(かんしや)する。よくよく見(み)れば、其(その)船客(せんきやく)は国依別(くによりわけ)であつた。 常彦(つねひこ)『ヤアあなたは国依別(くによりわけ)さま、よくマア助(たす)けてやつて下(くだ)さいました』 国依別(くによりわけ)、手(て)を振(ふ)り乍(なが)ら、 国依別『モウチツと小声(こごゑ)で言(い)つて下(くだ)さい。高姫(たかひめ)さまの耳(みみ)に這入(はい)ると困(こま)るから………サア春彦(はるひこ)をお前(まへ)に任(まか)すから、介抱(かいほう)して上(あ)げて呉(く)れ。そして高姫(たかひめ)に国依別(くによりわけ)が此(この)船(ふね)に乗(の)つてゐると云(い)ふ事(こと)は云(い)ふでないぞ』 常彦(つねひこ)『決(けつ)して決(けつ)して、これ丈(だけ)御(お)世話(せわ)になつたあなたの御(おん)頼(たの)み、首(くび)が千切(ちぎ)れても秘密(ひみつ)を守(まも)ります。サア早(はや)くあなたの居間(ゐま)へ御(お)隠(かく)れ下(くだ)さい。高姫(たかひめ)が下(お)りて来(き)て見(み)つかると、又(また)一悶錯(ひともんさく)が起(おこ)りますから………』 国依別(くによりわけ)は怱々(さうさう)に姿(すがた)を隠(かく)した。そこへ高姫(たかひめ)がノソリノソリと現(あら)はれ来(きた)り、矢庭(やには)に春彦(はるひこ)の横面(よこつら)を三(み)つ四(よ)つ打叩(うちたた)き、 高姫(たかひめ)『コリヤ春彦(はるひこ)、しつかりせぬか。気(き)を確(たし)かに持(も)て、日(ひ)の出神(でのかみ)の生宮(いきみや)が綱(つな)をかけて助(たす)けてやつたぞよ。モウ大丈夫(だいぢやうぶ)だ』 春彦(はるひこ)は波(なみ)にさらはれ、半死(はんし)半生(はんしやう)の態(てい)になつてゐたが、高姫(たかひめ)に擲(なぐ)り付(つ)けられて、漸(やうや)く気(き)を取直(とりなほ)し、 春彦(はるひこ)『ヤア高姫(たかひめ)さま、ヨウマアお助(たす)け下(くだ)さいました。オウお前(まへ)は常彦(つねひこ)、エライ御(お)世話(せわ)になりましたなア』 常彦(つねひこ)『ナアニ、俺(おれ)が助(たす)けたのぢやない。あの国(くに)イ……ドツコイ国人(くにびと)が俄(にはか)に綱(つな)を投(な)げて、お前(まへ)を救(すく)つて下(くだ)さつたのだよ』 春彦(はるひこ)『其(その)お方(かた)はどこに居(ゐ)られるか、命(いのち)の親(おや)の恩人(おんじん)、御(お)礼(れい)を申(まを)さねばならぬから、一寸(ちよつと)知(し)らして呉(く)れ』 常彦(つねひこ)『其(その)方(かた)はどつかへ姿(すがた)を御(お)隠(かく)しになつた。キツト神(かみ)様(さま)に違(ちがひ)ない。神(かみ)様(さま)にお礼(れい)を申(まを)せば良(よ)いのだよ』 高姫(たかひめ)『春彦(はるひこ)を助(たす)けた方(かた)は、お姿(すがた)は見(み)えなくなつただらう。そら其(その)筈(はず)よ。日(ひ)の出神(でのかみ)様(さま)が人間(にんげん)に姿(すがた)を現(あら)はし、竜宮(りうぐう)の乙姫(おとひめ)さまが海(うみ)の底(そこ)からお手伝(てつだ)ひ遊(あそ)ばして、高姫(たかひめ)の家来(けらい)だと思(おも)つて、春彦(はるひこ)を助(たす)けて下(くだ)さつたのだ。甲板(かんばん)の上(うへ)から此(この)高姫(たかひめ)はヂツとして調(しら)べて居(を)つた。それに間違(まちが)ひはあろまいがな。……常彦(つねひこ)、それだから、どこまでも此(この)生宮(いきみや)に従(したが)うて居(を)りさへすれば、どこへ往(い)つても大安心(だいあんしん)だと、いつも云(い)うて聞(き)かしてあるぢやないか』 常彦(つねひこ)『ヘン、甘(うま)い事(こと)を仰有(おつしや)りますワイ。春彦(はるひこ)を救(たす)けて呉(く)れたのは日(ひ)の出神(でのかみ)ぢや有(あ)りませぬぞ。国(くに)……国(くに)……国治立(くにはるたちの)尊(みこと)様(さま)が御(ご)眷属(けんぞく)を使(つか)うて救(たす)けて下(くだ)さつたのだ。日(ひ)の出神(でのかみ)の生宮(いきみや)は神(かみ)の罰(ばち)が当(あた)つたのだからと云(い)つて、袖手(しうしゆ)傍観(ばうくわん)の態(てい)を取(と)つてゐ乍(なが)ら、日(ひ)の出神(でのかみ)さまと竜宮(りうぐう)さまがお助(たす)け遊(あそ)ばしたなどと、甘(うま)い事(こと)仰有(おつしや)いますワイ。自分(じぶん)の悪(わる)い事(こと)は皆(みな)人(ひと)にぬりつけ、人(ひと)の手柄(てがら)は皆(みな)自分(じぶん)の手柄(てがら)にせうと云(い)ふ、抜目(ぬけめ)のない高姫(たかひめ)さまだから、恐(おそ)れ入(い)ります。アハヽヽヽ』 春彦(はるひこ)『どちらに助(たす)けて貰(もら)うたのか、テンと訳(わけ)が分(わか)らぬよになつて来(き)た。兎(と)も角(かく)どちらでもよい、助(たす)けて呉(く)れた神(かみ)様(さま)に、これからは絶対(ぜつたい)服従(ふくじゆう)をするのだ』 高姫(たかひめ)『日(ひ)の出神(でのかみ)に救(すく)はれたのだから、其(その)生宮(いきみや)たる高姫(たかひめ)にこれからは唯々(ゐゐ)諾々(だくだく)として、一言(ひとこと)の理屈(りくつ)も言(い)はず、仮令(たとへ)水火(すゐくわ)の中(なか)をくぐれと云(い)つても、命(いのち)の恩人(おんじん)の云(い)ふ事(こと)、神妙(しんめう)に聞(き)きなされよ。又(また)慢心(まんしん)して一言(ひとこと)でも口答(くちごた)へをするが最後(さいご)、取(と)つて放(ほ)かされますで……』 常彦(つねひこ)『アハヽヽヽ、どこ迄(まで)も高姫(たかひめ)式(しき)だなア。言依別(ことよりわけ)様(さま)や、国依別(くによりわけ)さまが愛想(あいさう)をつかして、聖地(せいち)を脱(ぬ)け出(だ)しなさつたのも無理(むり)はないワい。本当(ほんたう)に我(が)の強(つよ)い悪垂(あくた)れ婆(ばあ)ぢやなア』 高姫(たかひめ)、常彦(つねひこ)の胸倉(むなぐら)をグツと取(と)り、 高姫『コラ常(つね)、云(い)はしておけば際限(さいげん)もない雑言(ざふごん)無礼(ぶれい)、モウ了見(りやうけん)は致(いた)さぬぞや』 と喉(のど)をギユウギユウとしめつける。数多(あまた)の船客(せんきやく)は総立(さうだち)となつて……乱暴(らんばう)な婆(ばば)アもあるものだ……と呆(あき)れて見(み)てゐる。常彦(つねひこ)は苦(くる)しき声(こゑ)を絞(しぼ)り乍(なが)ら、 常彦(つねひこ)『ハヽ春彦(はるひこ)、タヽヽヽ助(たす)けて呉(く)れ』 と声(こゑ)もきれぎれに叫(さけ)んだ。春彦(はるひこ)は矢庭(やには)に高姫(たかひめ)の両足(りやうあし)をさらへた。高姫(たかひめ)はモンドリ打(う)つて、海中(かいちう)にザンブと計(ばか)り落(お)ち込(こ)んだ。 常彦(つねひこ)は最前(さいぜん)国依別(くによりわけ)が残(のこ)しておいた板片(いたぎれ)に括(くく)つた綱(つな)を高姫(たかひめ)目蒐(めが)けてパツと投(な)げた。高姫(たかひめ)は手早(てばや)く板子(いたご)にすがりついた。春彦(はるひこ)、常彦(つねひこ)は一生(いつしやう)懸命(けんめい)に綱(つな)を手(た)ぐり、漸(やうや)く救(すく)ひ上(あ)げた。 高姫(たかひめ)『アヽ日(ひ)の出神(でのかみ)さま、ようマアお助(たす)け下(くだ)さいました。有難(ありがた)う御座(ござ)います』 と手(て)を拍(う)つて拝(をが)んでゐる。 常彦(つねひこ)『コレコレ高姫(たかひめ)さま、日(ひ)の出神(でのかみ)ぢやない、吾々(われわれ)両人(りやうにん)が此(この)綱(つな)を投(な)げて、お前(まへ)の生命(いのち)を助(たす)けたのだよ』 高姫(たかひめ)『ソリヤ何(なん)と云(い)ふ大(だい)それたことを云(い)ふのだい。人間(にんげん)がすると思(おも)うてゐると、量見(りやうけん)が違(ちが)ひますぞえ。皆(みな)神(かみ)からさされてをると云(い)ふお筆(ふで)を何(なん)と心得(こころえ)なさる。日(ひ)の出神(でのかみ)さまが臨時(りんじ)にムサ苦(くる)しいお前(まへ)の肉体(にくたい)を使(つか)うて御用(ごよう)をさして下(くだ)さつたのだ。其(その)日(ひ)の出神(でのかみ)様(さま)は直(すぐ)に此(この)高姫(たかひめ)の肉体(にくたい)へお鎮(しづ)まり遊(あそ)ばして御座(ござ)るから、此(この)高姫(たかひめ)の肉(にく)の宮(みや)を拝(をが)みなさい。アーア神界(しんかい)の事(こと)の分(わか)らぬ宣伝使(せんでんし)は困(こま)つた者(もの)だ。何(なに)から何(なに)まで実地(じつち)教育(けういく)をしてやらねばならぬとは、此(こ)の高姫(たかひめ)も骨(ほね)の折(を)れた事(こと)だワイ』 常彦(つねひこ)、春彦(はるひこ)は余(あま)りの事(こと)に呆(あき)れ果(は)て、両人(りやうにん)口(くち)をポカンと開(あ)けて、 常彦、春彦『アハー』 と頤(あご)が外(はづ)れるような欠伸(あくび)をしてゐる。 高姫(たかひめ)『コレコレそんな大(おほ)きな口(くち)を開(あ)けると、頤(あご)が外(はづ)れますぞえ。余(あま)りの大(おほ)きなお仕組(しぐみ)で、開(あ)いた口(くち)がすぼまらず、頤(あご)が外(はづ)れたり、逆様(さかさま)になつて、そこらあたりをのたくらねばならぬぞよと、変性(へんじやう)男子(なんし)のお筆(ふで)に立派(りつぱ)に書(か)いてあるだないか、チト改心(かいしん)なされ。神(かみ)様(さま)の結構(けつこう)な御用(ごよう)をさせられ乍(なが)ら、高姫(たかひめ)を助(たす)けてやつたなぞと、夢(ゆめ)にも慢神心(まんしんごころ)を出(だ)してはなりませぬぞ。罪(つみ)の重(おも)いお前(まへ)等(ら)二人(ふたり)が沈(しづ)む所(ところ)を、此(こ)の高姫(たかひめ)の肉体(にくたい)を神(かみ)が使(つか)うてまぢなうて下(くだ)さつたのぢや。高姫(たかひめ)を助(たす)けたのぢやない。つまり高姫(たかひめ)の犠牲(ぎせい)的(てき)行動(かうどう)に依(よ)つて、お前(まへ)達(たち)の海(うみ)におちて死(し)ぬ所(ところ)を助(たす)けて頂(いただ)いたのだ。あゝ何(なん)と、神界(しんかい)の御(お)仕組(しぐみ)は人民(じんみん)では見当(けんたう)の取(と)れぬものだワイ。サア常彦(つねひこ)、春彦(はるひこ)、是(こ)れで改心(かいしん)が出来(でき)たでせう。此(この)上(うへ)は何事(なにごと)も高姫(たかひめ)の云(い)ふ通(とほ)りにするのですよ』 常彦(つねひこ)『ヘン』 春彦(はるひこ)『ヒン、馬鹿(ばか)にしてゐるワイ。俺(おれ)が両足(りやうあし)をかつさらへて放(ほ)り込(こ)んでやつたのだ。余(あま)り憎(にく)らしいから……それに神(かみ)がしたのだなどと、都合(つがふ)の良(よ)い弁解(べんかい)して呉(く)れるワイ。斯(こ)う云(い)ふ時(とき)には高姫(たかひめ)さまの御(ご)託宣(たくせん)も満更(まんざら)、無用(むよう)にはならぬ。ハヽヽヽヽ』 高姫(たかひめ)『蛙(かへる)は口(くち)から、とうとう白状(はくじやう)しよつたなア。お前(まへ)が此(こ)の生宮(いきみや)の足(あし)をさらへて、海(うみ)へ投(な)げ込(こ)んだのだなア。まてまて、懲(こら)しめの為(ため)制敗(せいばい)してやらう』 と又(また)もや胸倉(むなぐら)をグツと取(と)り、締(し)めつけようとする。 常彦(つねひこ)『オイ高姫(たかひめ)さま、日(ひ)の出神(でのかみ)が憑(うつ)つたぞよ。お前(まへ)の両足(りやうあし)をさらへて、海(うみ)の中(なか)へ放(ほ)り込(こ)んでやらうか、それが厭(いや)なら、胸倉(むなぐら)を放(はな)してお詫(わび)をしたがよからうぞ』 高姫(たかひめ)は此(こ)の言葉(ことば)に驚(おどろ)き、胸倉(むなぐら)取(と)つた手(て)を放(はな)し、面(つら)ふくらし乍(なが)ら、又(また)もや甲板(かんばん)さして上(のぼ)り行(ゆ)く。船(ふね)は漸(やうや)くにしてテルの港(みなと)に安着(あんちやく)した。高姫(たかひめ)は衆人(しうじん)を押分(おしわ)け、厚(あつ)かましく、いの一番(いちばん)に船(ふね)を飛(と)び出(だ)した。春彦(はるひこ)、常彦(つねひこ)は稍(やや)遅(おく)れて上陸(じやうりく)した。高姫(たかひめ)は一生(いつしやう)懸命(けんめい)にテルの都(みやこ)を指(さ)して走(はし)り行(ゆ)く。常彦(つねひこ)、春彦(はるひこ)の両人(りやうにん)は見(み)えつ隠(かく)れつ、高姫(たかひめ)の後(あと)を追(お)うて行(ゆ)く。 船長(せんちやう)のタルチールは副船長(ふくせんちやう)たる吾(わが)子(こ)のテルチルに船(ふね)を与(あた)へ、且(か)つ之(これ)を船長(せんちやう)となし、言依別(ことよりわけの)命(みこと)、国依別(くによりわけ)と共(とも)に宣伝歌(せんでんか)を謡(うた)ひ乍(なが)ら、高砂島(たかさごじま)の何処(いづこ)ともなく、進(すす)み入(い)つた。惟神(かむながら)霊(たま)幸倍(ちはへ)坐世(ませ)。 (大正一一・八・一〇旧六・一八松村真澄録)